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#03
「はぁ……はぁ……はぁ……」
飛び起きた。しかし、沙織はもう叫ばなかった。ただ、荒い息を吐きながら、じっと自分の手のひらを見つめた。
時計の針は、相変わらず『02:00』を指している。
彼女はゆっくりと身体を起こした。瞳からは、怯えも、絶望も、もはや消えていた。そこにあるのは、凍てついた鋼のような、静かな覚悟だけだ。
沙織は静かに部屋を出た。軋む廊下。湿った埃の匂い。彼女は一階に降り、キッチンへと向かった。
調理台の上に置かれた一本の包丁に目が留まる。彼女はその柄をぎゅっと握りしめ、ジャージの中に隠した。
「そうだ。あんたちょっと――」
リビングから、酒に汚された母親の声が飛んでくる。
「分かってる。ビールでしょ。今から買ってくるよ」
沙織はあえて、穏やかに、優しく答えた。
「あ、うん、ありがとう……? なに、急に素直になって。気持ち悪いわね」
母親の罵倒を、沙織はただの風として受け流した。
次に、両親の寝室へと足を向けた。そこには小さな仏壇があり、父の写真が飾られている。写真の中の父は、いつもより深く、慈しむように微笑んでいるように見えた。
「……ねえパパ。きっと、パパが守ってくれてるんだよね。私を、このループに引き戻してくれたんだよね」
当然、返事はない。
「でも、私はもう大丈夫。もう、逃げないよ。……ありがとう、パパ。ずっとずっと、大好きだよ」
沙織は父に最後の別れを告げるように、深く頭を下げた。彼女はキッチンへ引き返すと、包丁を元の位置に、一ミリの狂いもなく戻した。
暴力の連鎖は、ここで断ち切る。彼女は軽やかな足取りで玄関へと向かった。家を出る直前、沙織はスマートフォンを取り出し、友人にメッセージを送った。それは今から健太と会うことを匂わせる、ある意味遺言のようなものだった。
これでいい。絶対に、全て終わらせてやる。
玄関の扉は重く、まるで地面に埋まっているかのようだった。外は、肌を刺すような凍てつく寒さだが、沙織の心は、不思議と凪いでいた。彼女は地図アプリも開かず、迷いのない足取りで、あの入り組んだ路地裏の角へと向かった。
『次の曲がり角を右です』
ナビの音声と共に角を曲がる。やはり、あのときと同じ位置に、健太が立っていた。
沙織は逃げなかった。怯えることも、叫ぶこともせず、一歩、また一歩と、自分を殺そうとしている男へと距離を詰めていく。
「……健太、久しぶり」
健太の身体が大きく揺れた。驚愕に目を見開く。自分のシナリオにはなかった沙織の反応に、彼の狂気が一瞬、戸惑いを見せる。それでも健太は後ろポケットのナイフに手をかけた。
「大丈夫だよ、健太。健太がずっと言ってたこと……あの時は分からなかったけど、今は分かる気がするの。健太は何も悪くないよ。……本当は、寂しかったんだよね」
沙織の静かな声が、夜の闇に溶け込んでいく。健太の手が止まった。
「あの日、パパがあんなに怒ったのは、私のことが大事だったから。でも、私がもっと早く健太の抱えている寂しさや、弱さに気づいてあげていたら、誰も傷つかずに済んだのかもしれない。私が全部、悪かったの。だからお願い。その手をどけて。……きっと私を殺しても、健太の苦しみは消えないよ」
沙織は、健太の目の前まで歩み寄った。そして、剥き出しの殺意を秘めたその身体を、優しく、強く、抱きしめた。
それは、復讐でも、赦しでもない。孤独な殺人鬼を無力化するための、もっとも残酷で、もっとも温かい罠だった。
「犯罪者にさせちゃって、ごめんね……。もう、終わりにしよう」
その言葉が、健太の心に唯一残っていた理性の残滓に届いたのか。彼の腕から、するりと力が抜けた。握りしめられていたナイフが、微かに震える。
「許してとは言わない。でも、謝らせてほしかったの。……ずっと、言えなくてごめんね」
二人の身体が、重なり合ったままゆっくりと崩れ落ちた。沙織はその隙を見逃さなかった。健太の後ろポケットから、震える指でナイフを抜き取ると、力任せに遠くの暗闇へと投げ捨てた。
カラン、という虚しい金属音が響く。健太は沙織の肩に顔を埋めたまま、嗚咽を漏らした。かつて愛した人の温もりを思い出したのか。それとも、自分が犯した罪の重さにようやく気づいたのか。彼は子供のように、声を上げて泣き崩れた。
その泣き声を切り裂くように、遠くの方から鋭いサイレンの音が近づいてきた。赤と青の閃光が、路地裏の壁を激しく照らしていた。
***
翌朝。テレビのニュース番組が、淡々とした口調で事件を報じていた。
『…昨日深夜、○○市の路上で、刃物を所持していた男が銃刀法違反および殺人未遂の疑いで現行犯逮捕されました。逮捕されたのは、住所不定・無職の男です。男は二年前、当時交際していた女性の父親を殺害した罪で実刑判決を受け、先月出所したばかりでした。警察によりますと、男は昨日午前二時頃、かつての交際相手である女性の自宅近くの路地裏で、包丁を手にして待ち伏せしていたところを、通報を受けて駆けつけた警察官に取り押さえられました。調べに対し男は、『裏切った彼女に復讐するつもりだった』と容疑を認めており、警察は計画的な犯行とみて、当時の事件との関連性を詳しく調べています』
沙織は、リビングの椅子に座り、その音を遠くの方で聞いていた。
「あんた、いつまでテレビ見てんのよ。そろそろ出ないと遅刻するわよ。早く行きなさい」
キッチン奥から、母親のいつもと変わらぬ不機嫌な声が響く。酒の匂い。埃の混じった空気。抑圧的な言葉。この家は、何も変わっていない。相変わらずの日常である。
「はーい、今行く」
彼女は穏やかに答え、立ち上がった。最後に、もう一度だけ父の写真の前に座る。爽やかに笑う父。以前は、その写真を見るたびに罪悪感と悲しみに押し潰されそうになっていた。
だが今は違う。父の笑顔は、彼女を責めてはいなかった。ただ、「よくやったね」と優しく労ってくれているように感じられた。
「パパ、行ってきます」
沙織は、重い玄関の扉を押し開けた。外には、抜けるような青空が広がっている。朝の光を全身に浴びて、彼女は力強く、一歩を踏み出した。
今度こそ、本当に、過去という名の牢獄から、自由へと逃げ出していくのだった。
飛び起きた。しかし、沙織はもう叫ばなかった。ただ、荒い息を吐きながら、じっと自分の手のひらを見つめた。
時計の針は、相変わらず『02:00』を指している。
彼女はゆっくりと身体を起こした。瞳からは、怯えも、絶望も、もはや消えていた。そこにあるのは、凍てついた鋼のような、静かな覚悟だけだ。
沙織は静かに部屋を出た。軋む廊下。湿った埃の匂い。彼女は一階に降り、キッチンへと向かった。
調理台の上に置かれた一本の包丁に目が留まる。彼女はその柄をぎゅっと握りしめ、ジャージの中に隠した。
「そうだ。あんたちょっと――」
リビングから、酒に汚された母親の声が飛んでくる。
「分かってる。ビールでしょ。今から買ってくるよ」
沙織はあえて、穏やかに、優しく答えた。
「あ、うん、ありがとう……? なに、急に素直になって。気持ち悪いわね」
母親の罵倒を、沙織はただの風として受け流した。
次に、両親の寝室へと足を向けた。そこには小さな仏壇があり、父の写真が飾られている。写真の中の父は、いつもより深く、慈しむように微笑んでいるように見えた。
「……ねえパパ。きっと、パパが守ってくれてるんだよね。私を、このループに引き戻してくれたんだよね」
当然、返事はない。
「でも、私はもう大丈夫。もう、逃げないよ。……ありがとう、パパ。ずっとずっと、大好きだよ」
沙織は父に最後の別れを告げるように、深く頭を下げた。彼女はキッチンへ引き返すと、包丁を元の位置に、一ミリの狂いもなく戻した。
暴力の連鎖は、ここで断ち切る。彼女は軽やかな足取りで玄関へと向かった。家を出る直前、沙織はスマートフォンを取り出し、友人にメッセージを送った。それは今から健太と会うことを匂わせる、ある意味遺言のようなものだった。
これでいい。絶対に、全て終わらせてやる。
玄関の扉は重く、まるで地面に埋まっているかのようだった。外は、肌を刺すような凍てつく寒さだが、沙織の心は、不思議と凪いでいた。彼女は地図アプリも開かず、迷いのない足取りで、あの入り組んだ路地裏の角へと向かった。
『次の曲がり角を右です』
ナビの音声と共に角を曲がる。やはり、あのときと同じ位置に、健太が立っていた。
沙織は逃げなかった。怯えることも、叫ぶこともせず、一歩、また一歩と、自分を殺そうとしている男へと距離を詰めていく。
「……健太、久しぶり」
健太の身体が大きく揺れた。驚愕に目を見開く。自分のシナリオにはなかった沙織の反応に、彼の狂気が一瞬、戸惑いを見せる。それでも健太は後ろポケットのナイフに手をかけた。
「大丈夫だよ、健太。健太がずっと言ってたこと……あの時は分からなかったけど、今は分かる気がするの。健太は何も悪くないよ。……本当は、寂しかったんだよね」
沙織の静かな声が、夜の闇に溶け込んでいく。健太の手が止まった。
「あの日、パパがあんなに怒ったのは、私のことが大事だったから。でも、私がもっと早く健太の抱えている寂しさや、弱さに気づいてあげていたら、誰も傷つかずに済んだのかもしれない。私が全部、悪かったの。だからお願い。その手をどけて。……きっと私を殺しても、健太の苦しみは消えないよ」
沙織は、健太の目の前まで歩み寄った。そして、剥き出しの殺意を秘めたその身体を、優しく、強く、抱きしめた。
それは、復讐でも、赦しでもない。孤独な殺人鬼を無力化するための、もっとも残酷で、もっとも温かい罠だった。
「犯罪者にさせちゃって、ごめんね……。もう、終わりにしよう」
その言葉が、健太の心に唯一残っていた理性の残滓に届いたのか。彼の腕から、するりと力が抜けた。握りしめられていたナイフが、微かに震える。
「許してとは言わない。でも、謝らせてほしかったの。……ずっと、言えなくてごめんね」
二人の身体が、重なり合ったままゆっくりと崩れ落ちた。沙織はその隙を見逃さなかった。健太の後ろポケットから、震える指でナイフを抜き取ると、力任せに遠くの暗闇へと投げ捨てた。
カラン、という虚しい金属音が響く。健太は沙織の肩に顔を埋めたまま、嗚咽を漏らした。かつて愛した人の温もりを思い出したのか。それとも、自分が犯した罪の重さにようやく気づいたのか。彼は子供のように、声を上げて泣き崩れた。
その泣き声を切り裂くように、遠くの方から鋭いサイレンの音が近づいてきた。赤と青の閃光が、路地裏の壁を激しく照らしていた。
***
翌朝。テレビのニュース番組が、淡々とした口調で事件を報じていた。
『…昨日深夜、○○市の路上で、刃物を所持していた男が銃刀法違反および殺人未遂の疑いで現行犯逮捕されました。逮捕されたのは、住所不定・無職の男です。男は二年前、当時交際していた女性の父親を殺害した罪で実刑判決を受け、先月出所したばかりでした。警察によりますと、男は昨日午前二時頃、かつての交際相手である女性の自宅近くの路地裏で、包丁を手にして待ち伏せしていたところを、通報を受けて駆けつけた警察官に取り押さえられました。調べに対し男は、『裏切った彼女に復讐するつもりだった』と容疑を認めており、警察は計画的な犯行とみて、当時の事件との関連性を詳しく調べています』
沙織は、リビングの椅子に座り、その音を遠くの方で聞いていた。
「あんた、いつまでテレビ見てんのよ。そろそろ出ないと遅刻するわよ。早く行きなさい」
キッチン奥から、母親のいつもと変わらぬ不機嫌な声が響く。酒の匂い。埃の混じった空気。抑圧的な言葉。この家は、何も変わっていない。相変わらずの日常である。
「はーい、今行く」
彼女は穏やかに答え、立ち上がった。最後に、もう一度だけ父の写真の前に座る。爽やかに笑う父。以前は、その写真を見るたびに罪悪感と悲しみに押し潰されそうになっていた。
だが今は違う。父の笑顔は、彼女を責めてはいなかった。ただ、「よくやったね」と優しく労ってくれているように感じられた。
「パパ、行ってきます」
沙織は、重い玄関の扉を押し開けた。外には、抜けるような青空が広がっている。朝の光を全身に浴びて、彼女は力強く、一歩を踏み出した。
今度こそ、本当に、過去という名の牢獄から、自由へと逃げ出していくのだった。
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