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初出仕
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長い渡り廊下を何度曲がっただろうか。
「もうじきですよ」
案内する左近は後について来る彼女に向かって声を掛ける。左近は、故后宮に彼女の母と共に仕えた女房の一人である。
「それにしても、少納言さんの娘さんと一緒にお勤めするようになるなんて御縁を感じたわ」
左近は前に進みながら話す。
「はい…」
相槌を打ちながら彼女はついて行く。長袴は歩き難いと内心で文句を言いながら。
間もなく庇の間に辿り着き、几帳で仕切られた一角に案内された。
「ここがあなたの居住場所。暫くの間、ここで休んでなさい。恐らく御前に呼ばれるのは夜になると思うので」
こう言い残すと左近は出て行った。
一人取り残された彼女は局と呼ばれる〝几帳部屋〟内部を見渡す。備え付けられた調度品はどれも立派なものばかりだ。用意してくれた中宮の実家の権勢を実感させられる。
脇息の側に座り肘をのせて一息つけた彼女は、ここに至るまでの経緯に思い巡らす。
二ヶ月ほど前のこと、都から彼女の家に中宮の実家すなわち左大臣家から使いが来た。母への出仕の依頼だった。かつて故后宮に清少納言という名で仕えていた母は宮廷では名の知られた女房の一人だったようである。母は主人である后宮に文字通り誠心誠意仕えていた。そのため母は后宮が亡くなった時は文字通り茫然自失になってしまい宮仕えを続けられなくなってしまった。
後宮を去った母に対し、引き続き后宮が残した幼宮さまたちの後見をされている妹君の御匣殿への出仕の誘いもあったが、そのような気分にもなれず結局、鄙の地に隠退したのである。
このような状況ゆえ、再出仕などとても出来なかった。だが、この国一番の権勢を持つ方の依頼をむげに断るのは後々のことを考えると避けた方がよいだろう。
一家で協議した結果、娘である彼女が代理として行くことになった。取り敢えず、親族の者が顔を出せば大丈夫であろうとの判断だった。
こうして彼女は、鄙の地から都へと旅立ったのである。
生まれてからこのかた一度も故郷を出たことのない彼女にとって都行きは不安なものだった。それも寺社詣でのような個人的な用事ではなく、高貴な場所に働きに行くのだから尚更である。
反面、話でのみ聞いていた都や宮廷がどのようなところか一度見てみたくもあった。〝嫌だったら、いつでも帰ってきてかまわない。一応、こちらは依頼に応じたのだから〟という両親、祖父母の言葉も彼女の心を軽くしてくれた。残念ながら都に着くとすぐに内裏に連れて行かれたため、都見物は出来なかったが。
「…起きて」
左近に揺すられて彼女は目を覚ました。脇息にもたれているうちに眠ってしまったようだ。
「声を掛けたのだけど返事がなかったので入ってきたわ。中宮さまがお呼びよ、参りましょう」
促されるままに彼女は局から出た。簀子(すのこ)を歩きながら外をみると小雨が降っていた。
「このところ本当によく降るわね。文字通り五月雨ね」
緊張しているように見える彼女に左近はあれこれ話し掛けてくれた。目的場所にはすぐに着いた。
「連れて参りました」
左近はこう言いながら母屋に入って行き、彼女も続いた。
奥正面に若い女性が座り、その両脇には多様な年代の女性たちが侍っていた。
左近に促されて彼女は若い女性の前で平伏した。
「そなたが清少納言の娘か?」
若い女性は小鳥のような澄んだ声で訊ねた。
「左様に御座います」
彼女は自分でも驚くほど落ち着いた声で答えた。
「顔を上げなさい」
言われるままに半身を起すと、白くて酸漿(ほおずき)を膨らませたようなふっくらとした頬が愛らしい顔が見えた。肩に掛かる髪も艶やかだ。
――この方が中宮様…。
「あなたを何と呼んだらよいのかしら…。右馬命婦(うまのみょうぶ)は既にいるから、小馬(こま)命婦にしましょう」
――うちの家族には馬寮で働いた者はいないのだけど。恐らく別の方と勘違いなさっているのだろう。呼称など何でもいいけれど。
後宮で働く女房たちの呼び名は親族男性の官職を使っているので彼女が違和感を持つのは当然であろう。
何はともあれ、こうして小馬命婦の宮仕えが始まったのであった。
「もうじきですよ」
案内する左近は後について来る彼女に向かって声を掛ける。左近は、故后宮に彼女の母と共に仕えた女房の一人である。
「それにしても、少納言さんの娘さんと一緒にお勤めするようになるなんて御縁を感じたわ」
左近は前に進みながら話す。
「はい…」
相槌を打ちながら彼女はついて行く。長袴は歩き難いと内心で文句を言いながら。
間もなく庇の間に辿り着き、几帳で仕切られた一角に案内された。
「ここがあなたの居住場所。暫くの間、ここで休んでなさい。恐らく御前に呼ばれるのは夜になると思うので」
こう言い残すと左近は出て行った。
一人取り残された彼女は局と呼ばれる〝几帳部屋〟内部を見渡す。備え付けられた調度品はどれも立派なものばかりだ。用意してくれた中宮の実家の権勢を実感させられる。
脇息の側に座り肘をのせて一息つけた彼女は、ここに至るまでの経緯に思い巡らす。
二ヶ月ほど前のこと、都から彼女の家に中宮の実家すなわち左大臣家から使いが来た。母への出仕の依頼だった。かつて故后宮に清少納言という名で仕えていた母は宮廷では名の知られた女房の一人だったようである。母は主人である后宮に文字通り誠心誠意仕えていた。そのため母は后宮が亡くなった時は文字通り茫然自失になってしまい宮仕えを続けられなくなってしまった。
後宮を去った母に対し、引き続き后宮が残した幼宮さまたちの後見をされている妹君の御匣殿への出仕の誘いもあったが、そのような気分にもなれず結局、鄙の地に隠退したのである。
このような状況ゆえ、再出仕などとても出来なかった。だが、この国一番の権勢を持つ方の依頼をむげに断るのは後々のことを考えると避けた方がよいだろう。
一家で協議した結果、娘である彼女が代理として行くことになった。取り敢えず、親族の者が顔を出せば大丈夫であろうとの判断だった。
こうして彼女は、鄙の地から都へと旅立ったのである。
生まれてからこのかた一度も故郷を出たことのない彼女にとって都行きは不安なものだった。それも寺社詣でのような個人的な用事ではなく、高貴な場所に働きに行くのだから尚更である。
反面、話でのみ聞いていた都や宮廷がどのようなところか一度見てみたくもあった。〝嫌だったら、いつでも帰ってきてかまわない。一応、こちらは依頼に応じたのだから〟という両親、祖父母の言葉も彼女の心を軽くしてくれた。残念ながら都に着くとすぐに内裏に連れて行かれたため、都見物は出来なかったが。
「…起きて」
左近に揺すられて彼女は目を覚ました。脇息にもたれているうちに眠ってしまったようだ。
「声を掛けたのだけど返事がなかったので入ってきたわ。中宮さまがお呼びよ、参りましょう」
促されるままに彼女は局から出た。簀子(すのこ)を歩きながら外をみると小雨が降っていた。
「このところ本当によく降るわね。文字通り五月雨ね」
緊張しているように見える彼女に左近はあれこれ話し掛けてくれた。目的場所にはすぐに着いた。
「連れて参りました」
左近はこう言いながら母屋に入って行き、彼女も続いた。
奥正面に若い女性が座り、その両脇には多様な年代の女性たちが侍っていた。
左近に促されて彼女は若い女性の前で平伏した。
「そなたが清少納言の娘か?」
若い女性は小鳥のような澄んだ声で訊ねた。
「左様に御座います」
彼女は自分でも驚くほど落ち着いた声で答えた。
「顔を上げなさい」
言われるままに半身を起すと、白くて酸漿(ほおずき)を膨らませたようなふっくらとした頬が愛らしい顔が見えた。肩に掛かる髪も艶やかだ。
――この方が中宮様…。
「あなたを何と呼んだらよいのかしら…。右馬命婦(うまのみょうぶ)は既にいるから、小馬(こま)命婦にしましょう」
――うちの家族には馬寮で働いた者はいないのだけど。恐らく別の方と勘違いなさっているのだろう。呼称など何でもいいけれど。
後宮で働く女房たちの呼び名は親族男性の官職を使っているので彼女が違和感を持つのは当然であろう。
何はともあれ、こうして小馬命婦の宮仕えが始まったのであった。
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