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カルブレイス・ラプソディ
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一事を必ず成さむと思わば、他の事破るもいたむべからず。人の嘲けりをも恥ずべからず。万事に変えずしては、一つの大事成るべからず。
吉田兼好
* *
伊豆半島の最南端、石廊崎(いろうざき)より四十海里離れた大海原。日没の中、深い靄がかかるその海を、巨大な四隻の黒い船が、波を打ち壊しながら突き進んでいた。四隻の船のうち二艦が蒸気艦、残りの二艦は帆走スループ(小型帆船)。各々の蒸気艦がそれぞれの帆船を曳航している。また、四隻の船には八インチ砲や十インチ砲、三十二ポンド砲などを複数装備しており、それはまさしく軍艦の様相を呈していた。片方の蒸気艦の全長は二百尺(約六十メートル)以上、もう片方は二百五十尺(約七十五メートル)以上を有し、幅も三十尺(約九メートル)以上の余裕はあり、それぞれ二千屯、千五百屯は超えると見られる二隻の蒸気艦が、静寂漂う海を航行するその光景は、勇壮かつ独特の物々しさを映し出していた。
*
握り飯に備えてあった沢庵の感触が妙に硬い。
浦賀奉行の与力、香山(かやま)栄(えい)左(ざ)衛門(えもん)はいつもより幾分歯ごたえのあるそれを、干物を食い千切るように噛み締めつつ、熟慮する。とはいえ遅めの昼食をとっている香山にとって、その空腹感からすれば沢庵の微妙な硬さなど、さして気にするほどのものでもなかった。
「今日の演習は晴天に恵まれて良かった」
香山は一人満足気に頷く。
この日は久里浜で砲術師範、下曽根金三郎(しもそねきんざぶろう)のもと行われている砲術演習の三日目。けたたましい騒音の他に特に煩わしい問題もなく事は順調に進んでいる。久里浜の海は清々しいほど青く、水面を颯爽と飛行している鴎を見ればそれはいっそう映える。休憩がてらに香山は、海の青さに劣らないほどの藍色を呈した空を見上げながら、呑気そうに構えていた。
だが、瞼の重さも心地よく、一発放屁をかました後、昼寝でもしてしまおうかと思ったその時だった。三浦半島の南方にある城ヶ島から、三人の漁師が息も切れ切れに演習場に駆け込んできた。
「け、今朝! 浦賀水道に四隻の黒い船が入るのを漁船から見たんじゃ!」
三人の漁師は慌てながらも、見事に斉唱して首筋の汗を飛ばしながら告げた。
「黒い船?」
釈然としない香山。朝早くに寝ぼけて見間違いしたのではではないか? とも考える。だが、しばらくすると三崎役宅詰の使者が飛び込んできて、
「城ヶ島沖合に四隻の黒い船が!」
と叫んだ。腕を組みしばしの思案にふける香山。
「まさか、異国船か!」
香山の脳裏に稲妻のように一つの解答がよぎった。
騒然し始める久里浜の演習場。先ほどまでの長閑な雰囲気は一蹴された。そして、浦賀奉行所の在勤奉行、戸田伊豆守氏栄(とだいずのかみうじよし)の指示のもと、演習は直ちに中止され浦賀奉行所へ戻る事になった。香山は口に頬張れるだけおむすびを頬張り、微妙に硬かった沢庵もついでに詰め込むと、喉を一気にお茶で流して駆け足で移動し始めた。
香山ら一同が奉行所に着いたのは昼八つ(午後三時半頃)。だが、すでに四隻の黒い船は、その姿に相応しいもうもうとした黒煙を立ち上げて、奉行一行の目前を横切り、浦賀沖に到着していた。
一行は額の汗を拭き拭き、船を見上げた。
「何だ、この大きさは!」
実際に間近で見る黒船の巨大さに香山は圧倒された。兎に角、デカい。自らが知る小舟や警備船とはケタが違う。誇らしげに広がっている帆、高々と屹立するマスト、重装備の出で立ちを放つ船体。どれを取っても今まで香山が見た船舶の既知の範囲ではなかった。そして、暫し奉行所の一行と共に呆気にとられた香山の表情が徐々に強張ってきた。
『これから大変な事になるな』
さらに好奇の視線で見ていた香山の目は、与力の鋭い目に変わっていった。
時は一八五三年七月八日(嘉永六年六月三日)。
この季節には珍しく湿り気のない、すっきりと晴れ渡った夕刻の出来事。そして、これこそが今後の日本史に深く刻まれる事になった歴史的時事。蒸気フリゲートの旗艦サスケハナ号とミシシッピ号、帆走スループのサラトガ号とプリマス号、四隻の黒き軍艦を従えた[ペリー来航]であった。
如何にして来航してきたペリー提督率いる四隻の黒船が、いわば鎖国の果てに租界化した日本にどれほどの衝撃を、ここ浦賀に与えたかどうかは知る由はない。だが、浦賀奉行が周囲の物見遊山とは別に忙しく機能し始めなければならないのは、必然であった。
「奉行」
香山は眉間の脂汗を指で擦りながら、戸田からの鶴の一声を待った。戸田は組んでいた腕を勢い良く振り切り、
「川越、彦根、忍(おし)、会津の四藩には異国船の浦賀来航を通達後、江戸湾の固めの徹底と台場の警備を実施。また、領内から集められるだけ人夫を召集し、食料及び天保薪水令に従い薪水の確保を促せ。さらに江戸の井戸奉行にもこの旨を伝達せよ」
と多少早口ではあるが特にまくし立てる事もなく、あくまで淡々とした口調で指示を出した。戸田の沈着した佇まいを見てか、最初戸惑っていた香山以下浦賀奉行の役人も、それらの指示を受けてからは慣れない手つきながら、目前にそびえる黒船への対応と理解をし始めた。
「あの船はアメリカの船なのでしょうか?」
香山は怪訝な表情で戸田に質問した。
「恐らくは」
戸田はただ一言、黒船を凝視してそう即答した。
元より口数の少ない戸田の事ではあるが、戸田の頭の中では許多(あまた)なる対処の選択肢と方法を目論んでいるのだろう。
いつも以上に言葉少ない戸田に対して香山は、その寡黙さをしていっそうの頼もしさを感じた。だが、一つ腑に落ちない点もあった。
「ただ昨年末に頂いたオランダの風説書の写しでは、アメリカ船の渡来はない、と聞いていたのですが?」
敢えて目線を戸田の方に向けず、適当に放るように香山は言ってみた。
オランダ(阿蘭陀)風説書とは、長崎港に入港したオランダ船が幕府に提出する海外情報の書類のこと。オランダ通詞によって訳されたオランダ風説書は、鎖国下の日本にとっては国外の状況を知るための、貴重な情報誌となっていた。また、風説書には通常の海外ニュースが載っているオランダ風説書の他に、特報的なニュースを扱う別段風説書なるものも存在する。別段風説書はイギリスと清(中国)のアヘン戦争(一八四〇年~一八四二年)を、長崎のオランダ商館長が通常の風説書とは別けて詳細に綴った事から端を発し、それ以降はアヘン戦争の情報のみならずヨーロッパやアジア、アメリカなどの国際情勢の近況も記載されるようになった。
「…………」
戸田はダンマリを決め込むかのように、香山のその質問に対しては答える事はなかった。香山は戸田のあまりの口数のなさに寡黙以上の他意を感じ、戸田の表情を一瞥してみたが、やはり口を開く気配はなかった。香山もそれ以上の詰問は止めた。
まずは異国船と接触しなければ何も始まらないし、何も分からない。
香山は警備船に乗り込んで、黒船への接近を試みる事に決めた。
「くそ! 文政令のままだったら異国船なんて来る事はなかったのだ」
舟の漕ぎ手の一人が櫓を握りながら、吐き捨てるように言ってみせた。香山はその言葉に対して、何も言及はしなかったが、一人頷き下唇を噛んだ。
この頃、幕府が外交に対して取っていた政策は天保薪水令であり、文政令ではない。天保薪水令は一八四二年(天保十三年)から実施され、異国船が日本に漂着した場合、食料や水や薪などの必要な物資を与えて、そのまま穏便に帰帆させるという外交策である。一方、文政令は一八二五年(文政八年)から始まり、またの名を異国船無二念打払令(いこくせんむにねんうちはらいれい)と称し、補給などはもっての他で、その名の通りやって来た異国船に対しては、容赦なく大砲を投擲して打ち払う、という過激な外交手段である。
そんなタカ派の文政令から、ハト派の天保薪水令に転じた理由。
それは当時の幕府は鎖国体制を強いていたものの、日本と同じく過度の強硬策の外交を取っていた清が、その外交策に否定的だったイギリスとアヘン戦争を開戦し、その経緯を幕府が重く見ていた事に原因の一つがうかがえる。アヘン戦争によって清が大敗を喫したのを鑑み、それなりの緩和策を取って臨んだ方策が、余計な火種が増えぬ、と算段した天保薪水令であった。
実際、風説書にはフランスのルイ・ナポレオンによる帝政復活や、イギリスにおける第二次ビルマ戦争やムランジェニ戦争などの情報も載っており、産業革命を成したヨーロッパ諸国がアジアやアフリカに帝国主義の趨勢を押し広げ始めた渦中。幕府も「食うか、食われるか」の時代の気配は最低限の理解を示していたので、他国に対していたずらに刺激する事は危ういとしていた。
『それにしてもここ最近、異国船が沖合に出没する回数が多すぎた。あれらは斥候だったのか? さすればこの黒船来航も合点がいく。そうすると風説書の情報は誤報だったのか……』
疑念にかられる香山。だが、自問自答しても真実は分からない。分かっている事は少ないが、やらなければならない事は知っている。それは一刻も早い異国船の退去。
浦賀一帯が慌てふためく一方、招かれざる四隻の黒い脅威は事を進め始めた。黒船が鳥ヶ崎沖に投錨を開始。すると台場から号砲強震の一発。それを合図にして数多の警備船や小舟が四隻の船を取り囲もうとした。その中に香山の乗っている舟も混ざっている。
湾内にひしめく警備船や小舟は、それぞれ四隻の黒船にたどり着き、接触を試みた。だが、皆が黒船に乗り込もうとすると、黒船の乗組員たちは櫓や短剣やピストルで威嚇し、乗船を拒んできた。本来なら近づいて来る者を拒まないで乗船させるのが黒船、つまりは外国の軍艦の慣習だったのだが、今回はそれをしない。香山はその様子を見て、ますます今回来航した四隻の船に対して猜疑心を抱き始めた。
一方、これらの乗船拒否はペリーが講じた一つの手段であることを、けだし香山は察知できていなかった。
ペリー来航を遡ること六年前。一八四七年(弘化四年)にアメリカ東インド艦隊のビッドル提督が、日本への開国要求と通商関係の締結を目的として来日を果たした。ビッドル来航はコランバス号とビンセンズ号の二隻の艦隊であったのだが、その際に浦賀奉行所は四百隻以上もの小舟を出してその二隻の船を取り囲んだ。そして、多数の日本人の乗船を許してしまい収拾がつかなくなってしまった。
結局、幕府は開国を拒否。ビッドルも何の成果を残さないまま、アメリカへ帰国してしまった。
詮ずる所、アメリカ本国ではこの失策がアメリカの威信を傷つけるものだとして、予想以上に重く受け止められた。そんなビッドルの二の轍を踏まないためにも、強硬的な態度でペリーは来日に臨んできたのである。外交の窓口は旗艦のサスケハナ号のみ。また、一度に乗船させるのも三人まで。自分に用のある役人以外はどの船にも日本人は乗せない等々、ペリー自身しっかりと予め明言している。そして、「私が排他的で横暴に振る舞うほど、形式と儀式を尊重する日本人たちは、私を尊敬するだろう」とも。これらの主張をもって、ペリーの今次の来日に対する、開国にかける意気込みが伝わってくる。
「錨を降ろすな! ここに停泊するのは危険であるから即刻退去せよ!」
小舟でサスケハナ号に近づいてきた男は、元より細い目を見開きそう叫んだ。傍らにはもう一人男がおり、彼は『すぐ立ち去り、錨を降ろすな』とフランス語で書かれた旗を掲げている。
「錨を降ろすな、と申しているだろうが!」
「いくら力んで叫んでみても、向こうにジャポンの言葉は伝わりませんよ、中島さん」
「う、うむ。それは分かっておる」
サスケハナ号に小舟で近づいてきたのは、浦賀奉行所の支配組月番与力、中島(なかじま)三郎(さぶろう)助(すけ)。オランダ語通訳の堀達之(ほりたつの)助(すけ)。目くじらを立てて黒船に叫んでいる中島とは対照的に、堀は落ち着いた様子で対応しているようだった。
「旗艦はあの船で合っているのだろうか?」
「ウィンブルという旗が掲げてありましたからね。恐らく合っていると思います。問題は言葉ですよ。どうやらアメリカ船であろうからアメリカ語(アメリカ英語)でないと通じないだろうですし」
「アメリカ語か」
「はい、私はオランダ語の通詞ですので、アメリカ語はまだ不得手で」
「では、交渉が出来るか分からんか?」
溜め息まじりの中島の問いに対して、堀は一瞬黙り込むと、
「何とかしてみますよ」
と俄かに笑みをたたえて答えた。
二人が乗った小舟が十分にサスケハナ号に近づくと、堀は甲板に立っている水兵たちに向かって、
「I can speak Dutch(私はオランダ語が話せる)」
と抑揚のない発音の英語で呼びかけた。すると甲板から一人、長身の男が顔を出し、大げさな身振り手振りで何やら堀に語りかけてきた。堀も苦手とはいえ流暢な英語で対応する。中島も、さすがは頼りになる、と内心溜飲を下げていた。事実、黒船来航の際の堀の仕事がアメリカ側にかわれて、後の日米和親条約の和訳の業務にも堀は携わる事になる。
どうやら二人の会話が一段落したらしく、中島も頃合を見計らい堀に問いかけた。
「何だって、堀君?」
「ええ、どうやらあの男はポートマンという名前らしく、向こう側のオランダ語通訳のようです。向こうにもオランダ語が出来る人間が、一人か二人はいるのではないか、と睨んではいたのですが、やはりいましたね。助かりました」
「オランダ語の通訳?」
「つまり、私が中島さんの言葉をあのポートマンという男に対してオランダ語で伝え、ポートマンはそれをアメリカ語で上の人間に伝える。そして、その返答をポートマンが再び私にオランダ語で伝え、私はそれを中島さんに訳す。そのような会話の流れで私は交渉しようと思っているのですが」
中島は暫く腕を組んで考え込み、
「おお、なるほど。アメリカ語と我々の言葉の間に、オランダ語を介して話し合いをするというのか。さすがは堀君!」
と合点すると、笑顔のまま思い切り堀の背中を叩いた。堀はその勢いに咳き込んでしまった。
堀達之助は交渉するにあたり、艦隊の出身や各々の船の装備、来航の目的などをポートマンに尋ねた。だが、ポートマンは堀の一連の問いに答える気配はなかった。
「どうだね、堀君?」
眉間に皺を寄せながらポートマンと会話している堀が気になり、中島は二人の話の最中に遮って堀に問いかけた。堀は甲板にいるポートマンに向かって一度手を差し出し、「待て」の合図を出してその後中島に顔を向けた。
「うまく運んでないですね。向こう側の言い分では、最も地位の高い役人が来なければ誰も乗船させないし、話し合いの場も設けないと言っているのですよ」
「最も地位が高いとなると、奉行の事を申しているのだろうな」
「恐らく」
「奉行はこちら側の決まりで、投錨中の船に乗って直接交渉はできない。そう伝えてみてくれ、堀君」
堀はポートマンに対して中島の意向を通訳した。だが、ポートマンは顔を何度か横に振り、言葉少なく返答しただけだった。
「駄目ですね。そういう態度ではこちらも話し合いは臨まない、だそうです」
「む! 何と頑なな連中だ」
中島は顎を摩りながら幼子のように地団駄を踏んだ。その振動で舟が揺れ、危うく堀が体勢を崩し海の方へ落ちそうになった。その時、香山の乗る小舟が中島と堀の舟に近づいてきた。
「中島さん、様子はどうです?」
「おお、香山君。いや、なかなかどうして話がまとまらんね。向こうは奉行が相手でないと話し合いはしないと申しているのだよ」
「それでは戸田奉行をここへ呼ぶのですか」
「まさか、な。それでは我らの面目というものが成り立たん」
と中島は声を張って言ったものの、腕を組み考え込んでいる姿勢は変わっていなかった。香山も声を唸らせるのに留まっている。すると思慮に苦しんでいる二人の様子を静観していた堀がポートマンに対して何か語りかけた。堀の言葉を聞いた後、ポートマンは一度甲板から姿を消し、何やら上官の人間と話を始めた。
「何と申したのだね、堀君?」
「この舟にガバナーは乗っていないが、バイス・ガバナーなら乗っている、と伝えてみました」
「がばなぁ? ばいす・がばなぁ?」
「ガバナーは奉行。バイス・ガバナーは副奉行という意味です」
「何? 副奉行など乗っていないぞ」
「分かっていますよ。だから中島さんが取り敢えず副奉行になって下さい」
「な、何と!」
副奉行がいる。つまりはデマである。堀はこの時とっさに機転を利かし、与力の中島を副奉行に仕立てた。実際、この副奉行という役職はアメリカ側ではバイス・ガバナーと訳され、またガバナーという用語を日本語に訳せば、「奉行」もしくは「総督」という意味になるが、英語的解釈からすればより強大な権限を持っている地位の人間を指す含みがあった。
「う~む」
渋い表情をしている中島を見て香山が、
「そんな深く考えてみても仕方ないですよ。嘘だろうが何だろうが、まずは話し合わなければ始まらないし、これが交渉のきっかけになれば儲けものじゃないですか」
と言うと、中島はゆっくり目を閉じた後、黙って頷いた。香山と堀は互いに見合い微笑を漏らした。
「それにしても返答が遅いな」
香山は甲板を見上げ呟いた。
しばらくしてようやっとポートマンが顔を出した。
「副奉行。つまり中島さんだけなら乗船を許すそうです」
堀がポートマンの言葉を訳した。
「一応他の者も乗船できるかどうか聞いてみてくれ」
堀は中島の言葉をポートマンに訳して伝えたが、すぐにポートマンは首を横に振った。それを見て中島は堀の返答を待たず、
「分かった」
と告げて大きく溜め息をついた。
結局、船に乗り込むことが出来たのは中島と通訳の堀のみであった。
『大丈夫だろうか、中島さん。あの人は豪胆なわりに駆け引きという場面では融通がきかない気がするのだが』
一抹の不安を抱えながら香山は二人が船に乗り込むのを見送った。
そんな香山の心配を他所に、中島と堀は半刻後には船から降りてきてしまった。強張った顔の両者を見ておおよその見当はついたが、香山は尋ねるべき懸案を一応は出してみた。
「どうでした?」
堀が香山の問いに対して口を開こうとしたが、眉間に皺を寄せ唸っている中島の手前、堀は中島を一瞥して口を閉ざした。すると中島は香山を凝視して、
「話にならんな」
と吐き捨てるように言った。
中島と堀が乗船するにあたり、その交渉の相手となったのはペリー本人ではなく、副官のコンティ大尉であった。つまり、ペリーは最高位の役人以外は接見しないという姿勢は変えていなかった。従ってペリーは自分の船室に籠りきりで、コンティがペリーの船室と中島たちのいる部屋を往来して話は進められた。
「艦長自らが出てこない?」
「うむ」
「何とまた煩わしいことを」
「我が国での外交港は長崎であるから、長崎に向かってくれと頼んでも、浦賀まで来てわざわざ長崎に戻る気はない、と言い張るだけだし。それでは来航の目的、それに恐らくアメリカ船とは分かってはいるが、形の上で艦隊の国籍なども質問してみたが、向こうはそれも明らかにはしない。挙句の果てには、艦隊を囲んでいる番船や警備船を退去させろ、そうでないとこちら側に武力をもって行使する構えがある、だそうだ。まったく、何様のつもりだ」
中島は時折舌打ちをしながら、鼻息も荒く語った。
「逆に脅しをしてくるのですか。それでは話にならないでしょう」
「確かにそうなのだが、一つ分かっているのは、向こうは国王(合衆国大統領)の親書を日本国皇帝に渡したい、という事なのだ」
「日本国皇帝、というと将軍の家慶様(第十二代征夷大将軍・徳川家慶(とくがわいえよし))のことですね。つまり、連中は国書を渡しに遠路はるばるやって来た、と。そうなるとその国書の内容というのは、旅路の労力に等しくそれ相応のもの」
香山は甲板を見上げて言った。既に乗組員たちは香山らを注視しているわけでもなく、淡々と各々の作業に従事していた。
「やはり開国要求に関したもの、でしょうか」
堀が呟く。香山は堀のその台詞に対して、反射的にこめかみの辺りを掻いた。香山は暫く唸った後、口を開こうとしたが、
「とにかく奴らは高飛車な態度なのだ! 国王の命令が絶対厳守であるから、我々の事情などお構いなし。薪や水の補給をわざわざこちらから申し出ても、十分に備えてあるから要らぬ、の一点張りだ。一つ一つこちらが質問するにしても、あの異人どもときたらぶっきら棒に……」
と中島が顔を紅潮させて勢い良く発した。そんな中島を宥めながら香山は、
「まあまあ、中島さん。それはこれからの交渉次第でどうにかなりますよ。それで今後の対応は?」
「うむ、翌朝再び訪問するという約束はかこつけたのだが、何度も申すが連中は最高位の役人でないと、これ以上の話し合いはしないと言い張るのだ。こればかりはどうにも折れそうにない」
「奉行をよこさないと無理という事ですか」
「であろうな」
小舟が漣に揺れた。
「とにかく一度岸に戻って戸田奉行に報告しましょう」
堀のその一言をして、一行の小舟は岸へと帰っていった。岸辺の方では狼煙が上げられていたり、篝(かがり)火(び)が焚かれていたりして、合図や灯りが絶やされることなく発せられている。
波止場に到着。
香山は身を翻し、水平線に落ちていく太陽を見つめた。普段と変わらない夕暮れが妙に眩しく香山の瞳に映る。
『これほどまでに外国船が高圧的な態度に出てくるとは。異例ではあるが、逆に相手側に確固たる姿勢が窺えるな。よもやこの一件は思いもよらぬほどの大事になるのではないか』
不安と焦燥の中、陸で鳴り響く寺の鐘を背に、香山は内に秘める与力としての自負と使命感を燃やし始めた。
時刻は夜五つ(午後八時頃)の浦賀奉行所。香山は戸田の面前にいた。他に場に居座っているのは、中島と堀。それに浦賀奉行所の与力、近藤(こんどう)良(よし)治(はる)。同じく浦賀奉行所の与力である佐々倉(ささくら)桐(とう)太郎(たろう)。
「なるほど。翌朝にもう一度訪問するとなると、江戸にいる井戸奉行の意見を仰ぐ暇はないな」
戸田は中島と堀の報告を一頻り聞いた後、そう呟いた。
「あの艦隊だけで六十門以上の大砲は装備しています。それに中島さんの報せではあの旗艦はパクサンズ砲(フランス人のパクサンズが考案した、当時最新鋭の炸裂砲弾式の大砲)も置いているという事ですし。只事ではありませんよ、奉行。これは一刻を争います」
佐々倉は詰問するかのように戸田に言い迫った。一方、戸田は気色を変えず黙って頷く。
「町に混乱はありませんでしたか?」
「うむ、野次馬ばかりが多いだけで思った以上の騒擾はなかった。戸惑ってはいるがな」
我々と同じように、と最後に小声で呟き、香山の質問に近藤は答えた。
「いやはや、戸惑っているどころか騒々しくなっとるのはむしろこちらの方だ。あの黒船連中の考えている事が皆目見当がつかん。いや、全く分からん訳ではないが、どうしてあそこまで横紙破りな態度を取っているのだ。およそ友好的とは思えんやり方だ。一体どういう了見なのだ、まったく。武力行使も辞さぬ勢いであるし。本当に何なのだ!」
中島は憤慨していた。戸田は上気する中島に対して、手をかざし落ち着くように促した。それに対して中島は口を噤んだものの、怒気はその顔に残したままだった。
思えば中島三郎助はその気性の激しさをもってして人生を駆け抜けた人だった。中島の父もやはり与力で、三郎助は十四歳にして与力見習いとして奉行所に出仕。後に海防問題に深く関心を持つようになり、軍艦の大砲の射撃や製造や火薬の調合の技術を学び、それが認められ見習いから正規の与力となる。さらに黒船来航以降の後年、榎本武揚(えのもとたけあき)らとともに函館戦争に参加し、一八六九年(明治二年)に胸を撃たれて長男や次男とともに戦死する。
生涯、気魄(きはく)の人であった。
「穏やかな話ではありませんね。先のアメリカ船の来航(ビッドルの来航)とはだいぶ訳がちがう。単純に船の数も違うが、随分と強気な態度だ。あの時は思慮深かったというかもっと弱腰というか、開国要求に対しても我々の方に選択肢はあり、あくまでも向こう側は受け身だった感がありましたが」
佐々倉は堀の表情を窺いながら告げた。堀も頷き同意する。佐々倉と堀はビッドル来航時にその応接掛をしていたので、今回の強硬なアメリカ船の姿勢にはいっそう不信感を抱いていた。
「それに、気になるのはやはりあの武装。パクサンズ砲などをもってして来るとは……」
佐々倉は誰にも聞こえないほどの小さな声で、それと同時に誰にでもなく呟いた。
軍艦兵器にも通ずる所がある佐々倉桐太郎は、一八六〇年(安政七年)の咸臨丸の訪米の折に、運用方兼鉄砲方として勝麟太郎(かつりんたろう)に随行している。その後も軍艦操練所教授方頭取、御軍艦頭取、海軍所頭取などを経て、幕府海軍の指導に当たる事になる。
近藤が落ち着かない様子で口を開いた。
「向こうは国書を渡したがっている、と?」
「はい」
「どちらにしても浦賀では受け取れん。やはり長崎の方へ向かってもらわなくては。ここで受け取ってしまっては幕府の政事そのものに反してしまう。我が国における異国との折衝の場は長崎のみ」
「だが、連中にもう一度問い直してみても、素直に聞き入れるかどうか」
「相当、意固地になっているからな」
「と申しても、我々にも面目というものがある」
「しかし、連中に無理強いさせるのも危ぶまれる。相手の装備を見てみろ」
「その通り」
喧々諤々(けんけんがくがく)の議論の間、暫時沈黙していた戸田は瞠目すると、徐にそう一言切るように告げた。
「何があっても戦だけは避けねばならない。そして、今我々が置かれている状況は椿事に及び、かつてない緊張下にもさらされている、と申しても過言ではない。熟慮と慎重を踏まえて善後策を講じねばならぬのは、至極当然。これからの浦賀奉行所の出方次第で、幕府の外交がひどく変わっていくのかも知れないのだ。よって失策は許されない」
一同は手の内を合わせたように一斉に頷いた。
「これからの交渉は駆け引きが巧みな、香山を中心に進めたいと思う。異存はないか?」
戸田の曇りない一言。香山の背筋に悪寒が走った。
「確かに口が達者な香山君なら適任ではないか」
中島が相槌する。戸田は自らの大きな額を、一度中指で擦ると香山を凝視し、
「どうだ、香山?」
と声を低くして尋ねた。香山も戸田の目を見据え、黙って会釈で返した。香山は体内で徐々に血流が激しく波打つのを感じ始めた。
その日の深夜。
南西の夜空に、楔形の赤い尾を引く、青い彗星が流れた。その奇妙な流星が放つ青い光が艦隊を一瞬包んだ。
〈古代人ならば、この驚くべき天界の現象を、明るい前途を約束する吉兆と解しただろう。特異かつ半野蛮の国を文明諸国の仲間に迎えようとする我々の企てが、流血を見ることなく成功するよう神の加護を祈りたい〉
ペリーは自らの遠征日記に記している。けだし海を渡ったカウボーイは、牧牛よりも品位が劣る野武士を啓蒙しに来た、という少なからず驕慢で恣意的な使命感に満ちている事は想像に難くない。鞘から刀を抜くのを躊躇している野武士に対して、カウボーイはレミントン・リボルバーで狙いを定める。そんな手段を講じながら。
*
翌四日の朝五つ(午前七時頃)、赤い目を擦りながら押送船(おしょくりぶね)に乗って艦隊に向かっている香山栄左衛門の姿があった。舟は二艇ついており、香山の他には通詞の堀達之助、さらにもう一人の通詞、その他の与力を含め計六人がそれぞれ乗り込んでいる。
「眠れましたか、香山さん」
「いや、あまり」
堀の質問に香山は言葉少なに返した。朝方の涼しい頃、穏やかな波に揺られるという舟という環境。寝不足の香山にとって現在置かれている状況は、十分に睡魔を起こす誘因となる。何度か頬を手の平で張り、香山はどうにか眠気を追い払った。
「大丈夫ですか、香山さん。疲れた顔をしていますよ」
まるでこの世の終わりのような容貌をしている香山。ただ単純に寝不足というよりは、憔悴しきった顔をしている。
「うむ、何せ大役だからね。緊張して」
「しっかりして下さいよ。相手に弱い所を見せたら余計付け上がらせてしまいますからね。毅然とした態度で交渉に臨まないと、香山奉行」
堀はいたずらっぽく笑って言った。香山もつられて笑みをこぼし、
「奉行、か」
と呟くと、金と銀の刺繍を施した、自らには相応し難い奢侈な絹の着物の袖口を軽くのばした。
香山は交渉するにあたり、奉行という触れ込みで臨もうとしている。無論、香山は与力であるので奉行という役職は偽装である。だが、相手側が最高位の役人としか話し合わないと言っている以上、昨日中島三郎助が副奉行と偽ったのと同じく、やはり香山も同じ手段をして奉行と名乗らざるをえなかった。
やがて香山たちを乗せた二艇の小舟は交渉場所となる、アメリカ艦の旗艦であるサスケハナ号に到着した。昨日から見慣れている黒船ではあるが、いざこれから交渉に向かうとなると、よりいっそう暗色の威圧感が香山に伝わってきた。
『尻の穴を引き締めていけ』
内心、カツを入れ香山は船に乗り込んだ。
最高位の役人を希望していたアメリカ側。とはいえ浦賀奉行が誰であるかは特定できる事はなく、仮装奉行の香山は自称するのみで、特に疑いの目はかけられず船室へと通された。また、対応するアメリカ側も相手が奉行という事なので、昨日のコンティ大尉と通訳のポートマンに加え、さらに上官である艦長のブキャナン中佐、及び参謀長のアダムス中佐が現れた。だが、決してペリーが姿を見せる事はなかった。浦賀奉行クラスでは自らが表立って現れる事はできない。あくまで自分が交渉するのは日本政府。つまり徳川幕府であるから、幕府の代表でなければ自分は交渉しない。ペリーにとって今回の来日に際するパワー・ゲームは慎重を期する。不用意に姿を見せる事は権威に関わるのである。
ブキャナンの船室に通された香山たちがイスに腰をかけると、床に敷かれた赤絨毯やさり気なく宝飾されたテーブルなどに、彼らが目移りする暇を与えずに交渉が始まった。話の争点は、アメリカ船は直ちに長崎へ回航せよ、である。
「昨日も申し上げましたが、我が国の異国応接の場は長崎のみとなっているので、ここ浦賀では国書は受け取れないのです。例えここで受け取ったとしても、返答は長崎に送られてしまいます。ですから長崎へ廻っていただきたい」
香山は物腰柔らかく、丁寧な口調でブキャナンに問いかける。通詞の堀もポートマンを介して、緊張した面持ちで言葉を探り探り慎重に訳す。だが、ブキャナンは居丈高に、
「提督(ペリー)は長崎に行くつもりはない。そもそも今回我々が浦賀に来航する事は書面をもって昨年中に日本政府(幕府)に通達していたこと。さらに我々はあくまでもフィルモア大統領の命令に従っているので、長崎に行く事は大統領の命令にはないので従えない。浦賀で国書を受け取れないのであれば、我々が江戸へ直接赴き日本国皇帝に渡すのみ」
と述べた。随分と横柄な言い様であったが、香山は「浦賀に来航する事は書面をもって昨年中に通達していた」と訳した言葉を聞き、首を傾げた。注意深く香山は再び堀に尋ねたが、帰ってくる台詞は一緒だった。
『来航する事は予め書類によって報せておいた、だと? もし彼らの言葉が真実だとしたら、私が聞いた報告は虚偽になってしまうが……まさかな』
定めし、アメリカ側の二枚舌であろう。香山はその時はそう踏んだ。
「とにかくここ浦賀では国書を受け取っても……」
気持ちを切り替え、再び長崎への回航の嘆願を香山は始めたが、ブキャナンは一向に首を縦に振らない。相変わらず頑なな態度のアメリカ側に対して香山は苛立ちを隠せず、
「しかるにどうして国書一枚を届ける為だけに、わざわざ軍艦四隻を率いて来航された。おおよそ親善的な態度には見えないものだが」
思わず語気を強めて言う。ブキャナンは通訳のポートマンとしばらく目を合わせ、
「日本国皇帝へ敬意の念を表するためだ」
と短く伝えた。
『何が敬意の念だ。こんな砲艦外交まがいなやり方で』
香山は底意に熱を帯びつつも、これ以上ゴリ押しには話は進められない雰囲気を察していた。相手に譲歩する気配はない。かといって自分たちの側が、話にならぬ、と一蹴してこの場を立ち去る事はできない。一触即発の状態を避ける為にも、この場からこちらが折れなければならない。香山は汗ばむ拳を握り締めながら思慮する。
「分かりました。ですが国書の受け取りに関しては、江戸の方に赴き意見をうかがわないといけないので、四日ぐらいの日数がかかりすぐに判断はできませんが」
香山にとっては妥協案。一方、ブキャナンは口元を軽く緩める。そして、何も答える事無く船室を出た。香山は堀と目を合わせると憮然とした表情をした。しばらくしてブキャナンは戻って来ると開口一番、
「提督は四日も待てないと言っている。待つことができて、せめて三日。また、もし日本政府が適当な人物をよこさず、国書の受け取りを拒否した場合、我々の方から直接江戸に向かう事になるであろう。その際生じる軋轢の如何には、我々は一切関知しない」
とその青い目をして鋭く告げた。
『軋轢の如何、か。いざとなったら武力をもって侵攻するということか』
香山は眉間に皺を寄せて、ブキャナンを睥睨(へいげい)した。ブキャナンもけだし香山が青筋を立てる事は予期していたらしく、薄笑いを浮かべ余裕をもって接した。香山はさらに眉を引きつらせながら、
「分かりました。あと一つ尋ねたい事があるのですが、小舟(ボート)が沖周りをしきりに動いているのですが、何をやられているのか?」
と質問した。確かにサスケハナ号の周りで、武装したボートが不審な行動を取っている。
「この湾内を測量しているのだ」
ブキャナンは即答する。
「測量? そんな勝手な行動は止めて頂きたい。我が国ではそのような行為は認められていない」
と香山。だが、例の如く反論空しく、
「それは日本の法律。我々はあくまでアメリカの法律に従っているだけ」
と言い切られた。
『万が一戦になった時、浦賀沖の規模を測っておいた方が有効になる。これもまた暗に威圧を与えるための行為か』
テーブルの上を叩きたい衝動に香山は駆られたが何とか抑えた。暫くの無言の後、
「……薪水の補給の要求はありませんか」
と香山が歯軋りしながら尋ねると、ブキャナンは葉巻を取り出して火をつけた。悠々と煙を吐くと、
「一切必要ない。我々には全て揃っている。我々が望んでいるのは国書の受理だけだ」
あしらうようにそう言い放った。香山は反射的に体を前に押し出したが、頬の肉を震わせて立ち止まりすぐに退いた。そんな香山の姿に対してブキャナンは嬲るような視線を送り、ポートワインの香りにも似た葉巻の煙を再度吐き出した。
*
同日の昼八つ(午後二時頃)、香山は同心組頭の福西源兵衛(ふくにしげんべえ)を率いて、浦賀より船を出し、戸田の指示のもと江戸へと向かっていた。幕府の方に直接相談するためである。
蒸し暑い初夏の午後。二人の首筋には否応なく汗が流れる。
『解せぬ』
腕を組みながら思案する香山。強張った表情は相変わらずであったが、先ほどの会談の最中ほど苛立ちはなく冷静さを取り戻していた。
『まず気になるのはアメリカ側のあの高圧的な態度』
蛮国である日本を敢えて圧する事で、文明国のアメリカが威厳を示す。それはペリーの今次の来日外交の基本姿勢である。香山が国書の返答に四日の猶予が欲しい、と言ったにも関わらず、三日しか待てないと言ったアメリカ側の行為を見ても端的にそれは表されている。
『あの高慢な態度は連中の策か? だが、ただ不用意に強気に出てきても、説得力が乏しい。となるとアメリカ側が申した、浦賀に来る事は去年中に通達していた、という台詞が妙に気になってくる』
アメリカ側の礼を失する態度への怒りが、徐々に幕府への疑心へ変わってきた。横にいる福西は、顔に険ばかりを増やす香山を見て、とても談話する状態ではない、と思いずっと黙っていた。
『いや、憶測を気にしていたらキリがあるまい。私に課せられた仕事は異国船の即時撤去だ。余計な事を考えるのはよそう。我が国を脅かす火の粉を追い払うのみ。この国を狙う外夷を退かせるのみ』
香山は頬に垂れる汗を拭うと、そのように納得し一つの節目とした。
確かにアメリカに狙われた日本は、アメリカを脅威とみなしている。だが、アメリカからすれば本来の狙いは日本ではなく、その矛先は清。つまり、中国であったといえる部分が大きかった。
当時、資本主義のトップを走り続けていたのは、綿工業を産業の軸にしているイギリス。市場拡大を図るイギリスはその範囲をアジアに延ばし、その最大の市場がアヘン戦争で門戸を強引に開放した中国であった。だが、イギリスに先鞭をつけられたアメリカも十九世紀前半から中頃にかけて産業革命が進行し、綿工業の急速な発展が好調を示すと同時に、その工業生産高で他国を大きく引き離し、イギリスに次ぐ勢いにあった。その結果、自ずとアメリカもアジア市場への進出を図り始める。以前よりアメリカも中国に対しては毛皮や諸金属の輸出を行っていたが、綿工業の急激な成長に伴い、綿製品の輸出市場として中国はその色合いが濃くなってきた。ただしイギリスを筆頭に欧州列強による帝国主義的外交では、原産物である生糸や綿を列強国側が発展途上国から輸入し、それらを加工し半ば強引にアジアやアフリカ諸国に輸出する、つまり強制的に売りつける、という強硬貿易をしていたため、輸出された国側としては自国の生産物の物価上昇につながり、不況に見舞われる事態に陥った例も少なくない。
だが、そんな相手国の悪化する経済事情など顧みず、イギリス及びヨーロッパに負けじと気を張るアメリカ。
そこで目をつけられたのが日本である。
アメリカは一八四八年(嘉永元年)の米墨戦争(アメリカとメキシコ戦争)の際、その戦争の勝利によって相手国であるメキシコからカリフォルニアを譲り受けている。さらに西部開拓の折、その米墨戦争で得たカリフォルニアでは金鉱が見つかり、空前のゴールドラッシュが始まる。このカリフォルニアこと西海岸から太平洋を臨む日本の地理的状況を鑑みると、中国との往来に際する補給などに要する寄港地として日本は最適であった。
そして、もう一つ大きな要因として、当時アメリカは綿工業と共に捕鯨業が盛んであり(照明などに使う鯨油を得るため乱獲に近い行為をしていた)、漁場拡大及び捕鯨船の停泊地として、日本の位置はアメリカ側としては地政学的に有用性を見出す事ができる。
しかし、やはり中国との市場の密に対する機能としての部分の方が、アメリカにとっての日本に対する需要は高かった。
当時イギリスは市場として日本を高く評価しておらず、中国に貿易を大きくシフトしていた。イギリスは中国ほど日本の市場に対して期待はしていなかった。ゆくゆくはイギリスも日本に交易を求めて来るのだが、それを横目に先にアメリカが日本に接触を求めてきた。日本とアメリカとの当初の通商的図式は、鎖国開放による市場の拡大および近代貿易。だが、その実は傍らに存在する「眠れる獅子」こと中国との交易だった、という二段階式の通商になる。一方、もしこの時、世界の工場としてリーダー・シップを取っていたイギリスが、アメリカよりも早く日本と通商を結んでいれば、今日の日本の外交も大きく変わっていたかも知れない。
「いずれにせよ、江戸へ到着すれば分かる事だろう」
香山は呟いた。福西はそれが独り言なのか、自分に問いかけられた発言なのかは分からず、曖昧に相槌を打って誤魔化した。
夕七つ(午後五時頃)。香山と福西は江戸へ到着し、江戸在府の浦賀奉行、井戸石見守弘道(いどいわみのかみひろみち)に戸田からの報告を伝達していた。浦賀奉行所では浦賀と江戸、各地に二人の奉行制を導入している。浦賀で勤務しているのが戸田で、江戸で勤務しているのが井戸である。
「成る程、アメリカの脅しに屈して国書を受け取ってしまえば、今後の幕府の外交ないし、それこそアメリカとの関係についても多大な影響を及ぼしかねない。とはいえ無下にアメリカ船を追い払うことは、現状からすれば危うく、平穏の取り計らいを考えていきたい、か」
井戸は香山からの報告を聞き、ただでさえ皺の多いその顔に対してさらに皺を増やし、困惑した表情で考え込んだ。
「アメリカの連中はどのような態度だ?」
「かなり強気な姿勢を見せています。それにやたらと高圧的な交渉をしてきます」
井戸は唇を尖らせ、一人頷きながら、
「そうか、やはりな」
と呟いた。
「やはり?」
香山は井戸がさり気なく漏らした台詞に引っかかった。すると訝しい表情をする香山に井戸は気づき、
「ん? いや……」
と答えて言葉を濁らせた。香山は釈然としない井戸の態度が気にかかり、神妙な面持ちをして井戸に尋ねた。
「奉行。実はアメリカ船の艦長が、自分たちが今年浦賀に来航する事は去年の内に通達しておいた、と申していたのですが、心当たりはありませんか?」
「…………」
井戸はしばらく黙り込み、香山から視線を逸らした。
「奉行?」
香山は井戸の顔を覗き込むように再度詰問する。たまらず井戸も口を開いた。
「連中が、そう申していたのか?」
「はい」
「そう、か」
井戸は膝をピシャリと叩き、
「実はな、確かにそのような報告は去年の内に老中から頂いていた」
と淡々と答えた。その瞬間、香山の目は遠くを見るような視線になった。一方、驚嘆した様子は窺えない。
「確かに私もそのような噂は聞いておりました。けれども風説書の写しをお渡し頂いた時には、アメリカ船の来航はない、とおっしゃられたじゃないですか」
香山は抑制をきかせた声ながらも、鋭い口調で井戸に問いかけた。井戸は唾を大きく飲み込むと、
「そうではあるが、当時得た情報ではアメリカ船は弥生(三月)、もしくは卯月(四月)に来航するとの事だったのだ。まさか今になってやって来るとは思わず……それに何分不確かな情報であったのも事実であるし」
しどろもどろしながら言葉を返した。香山はしばらく黙って井戸を見つめた。ただ焦り当惑した表情を浮かべる井戸の姿を見て、香山は救われ難い気持ちに襲われた。
香山は両拳を握り締めながら、
「とはいえ異国船の来航はない、と申される事はなかったのではないですか。つまり、アメリカ船の艦長が申した話は、事実だったという事でしょう。これでは私はいい面汚しです。それにそのような報せがあったならば、その事実を予めおっしゃって頂ければ、しっかりと対策を練る事もできたはず。我々にそれらの事を内密していたのは実に……実に嘆かわしく、あさましき事かと……」
と目に涙を浮かべ、臆面もなく鼻水を垂らし、声を吃らせながら吐いた。さらに台詞の最後は声を詰まらせて言い切れなかった。その表情には悔吝(かいりん)の念が籠っている。自らは浦賀奉行、ひいては幕府の為に最善を尽くし交渉をしようとした。それは与力、奉行、幕府の主従の信頼関係の礎に殉じての事である。だが、上層部は全ての情報を開示せず、いざ黒船が来航したら、素知らぬ顔で香山ら一役人に交渉事を放任している。
信用されていない事への自責、一方で無責任な幕府への憤慨。同時に黒船と幕府、両方の側からコケにされているような感覚に香山は襲われた。香山の頭の中で複雑な思いが募り、交差していく。
だが、香山に恨めしく見つめられている井戸の方に全ての非があるとはいえない。実際、ペリー来航の情報が上意下達した経緯には不透明さがあり、そのために井戸奉行自身もどのように手立てをしてよいものか、考えあぐねる結果になってしまったのである。
事実として黒船来航は突然の出来事ではなく、その予告情報は既に一年前の一八五二年(嘉永五年)の六月の時点で、出島に入港したオランダ船が提出した別段風説書によって長崎奉行にもたらされていた。だが、事が重大なだけに長崎奉行は緘口令(かんこうれい)を敷き、オランダ通詞にも風説書の写しを持ち出す事を禁じた。これまでの別段風説書とは異例の扱いである。しばらくして長崎で得られたアメリカ船の来航予告情報は江戸の幕府へ伝わるのだが、ここでの幕府の対応がまた曖昧で、まったくの誤報であるとか、オランダが自国の国益を守るために謀った虚偽報告であるとか、様々な憶測が飛び確固たる対策を講じなかった。ペリー来航の報告は虚説である、という雰囲気が幕府内で支配的となる一方で、老中の阿部正弘(あべまさひろ)だけは備えあれば憂いなしという算段で、海防掛に海防強化の案を説いていた。しかし、信頼性の薄い情報だけで、予算がかかる海防強化をするのはできない、と勘定所の批判もあり、何の手立ても練られず運命の日に至ってしまった。そして、誤報云々の思惑も叶わず、結局は四隻の黒船はやって来てしまったのである。
「……とにかく今晩は江戸にて一泊せよ。おそらく明日までには国書を受理するか否かの幕府の評議の結論が出ているだろう。明日、お主は評議の結果を携えて浦賀に戻るがよい」
井戸はなだめるように香山に告げた。香山は鼻をすすると無言で気持ち頭を下げた。傍らにいる福西は香山の形だけの平伏を補うかのように大げさに頭を垂れ、やがて二人は退室した。
「…………」
やつれた表情をして無言のまま歩き続ける香山。横にいる福西は気まずそうな面持ちでいる。福西は息苦しい状況を打破するために、
「どうです香山さん、気分を変えて吉原で豪遊でも」
と敢えて声を張って言ってみた。だが、香山は無反応。
「……する気分ではないですよね」
徐々に声を下げながら、福西は申し訳なそうに呟いた。とその時、香山は双瞳(そうしょう)を前方に見据えて、
「私はね、福西君。十年、与力を今まで十年勤めてきたのだ。その間に色々な事があった。異国船の来航はもちろん、新しい台場の建設や、浦賀屋形浦の火事に見舞われた事もあった。その都度私は与力として全力を尽くし、その場の問題にぶつかっていった。少なくとも私はそう自負している。そう、浦賀奉行や幕府を支えていく一念で。その気持ちは今でも変わらないよ」
淡々と、そして、滔々と語った。
「……香山さん」
「私は与力として承った役目を全うするのみ、だよ。だが、今は息抜きをしたい気分だ。遊郭へ顔を出すのも悪くないだろう」
香山のその台詞を聞くと、福西は自然と莞爾(かんじ)した。
『一時的な感情の揺さぶりに流されては、一人前の与力とはいえまい』
己を律する香山。その心の奥底にはやはり同じく与力だった、香山堅兵衛(かやまけんべえ)という養父の後ろ姿が鮮やかに映っていた。
*
翌五日。江戸城では老中の阿部正弘を筆頭に、大目付や目付ら重臣たちによる評議が行われていた。だが、結局国書の受け渡しの可否についての結論は出なかった。ペリー側からの返答期日は迫っているが、とにかくその時間稼ぎがしたいというのが幕府の評議の本音だった。井戸はその結果を香山に報せると、
「浦賀の方もお主が戻らぬと心配だろうから、香山は本日の内に浦賀に戻れ。こちらには福西を残し、評議の結果の下知(げじ)は福西が後で伝える」
実際、香山も浦賀の状況が気になっていたので、なかなか出ない結論にやきもきしているよりも、浦賀に戻る方が良いと考えていた。
『今頃アメリカ船は何をやらかしているのか』
だが、香山のそんな憂慮を他所に、前日のアメリカ船は浦賀の港や入り江の測量に精を出していたものの、六月五日の今日は西暦では七月十日の日曜日。つまりキリスト教の安息日にあたるもので、作業は一時中断され船上で礼拝が行われているだけだった。また当日、通詞の堀達之助と立石得十郎(たていしとくじゅうろう)が情報収集のためサスケハナ号に接近したが、無下に追い返された。ペリーらは幕府が国書を受け取るという意思表示を見せるまで、決して堅牢な態度を崩そうとはしなかった。
香山が福西を江戸に残し浦賀に到着したのは翌六日であった。到着するとすぐに香山は奉行の戸田伊豆守氏栄に江戸での報告を行った。
「そうか、結局返答は出ぬままか」
戸田はしばらく唸った後、目を瞑りながら口を開いた。
「はい。現地にいる我々に時間稼ぎをしてほしい、との事です」
「アメリカ側が定めた返答期日が明日までだというのに難儀な事を押し付ける」
苦笑する戸田。
「ところでアメリカ船の動向はどうですか?」
「うむ、それが芳しくない。昨日はどういうわけか静かだったので安心していたのだが、今日の早朝からいきなり測量をまた始めおった。連中はさらに奥深く湾内に進もうとしている」
「何と……」
戸田は咳払いすると、
「そこで旅の疲れを癒せぬままですまぬが、またアメリカ連中との交渉をしてもらえんか、香山」
「分かりました」
香山は躊躇なく即答した。
「すまんな。ただ向こうは国書の受け渡しについての報せ以外は聞く耳を持たんようになっている。手強いぞ」
香山は軽く会釈すると、
「承知しました」
と言ってすっと立ち上がった。戸田は歩み去っていく香山の後ろ姿を眺めながら、香山に表情がなく態度もやたらとさばさばしている事が妙に気になった。疲れが残っているのだろう。戸田はそう得心した。
香山は、自分が黒船来航の予告を上層部が隠蔽していた事実を知ってしまった件までは、戸田に報せていなかった……。
香山は通詞の堀達之助を従えて、直ちに旗艦サスケハナ号へ向かった。
「アメリカ船がさらに入り江の奥に進もうとしています。連中は本当にこのまま江戸に進攻しようと考えているのですかね」
サスケハナ号へ向かう途中、舟上で立ち尽くす香山の後ろ姿を見つめながら、堀は尋ねた。事実、ミシシッピ号が湾内の奥深くへと侵入している。それは今までの異国船がまだ踏み入れていない領域にも達していた。
「まさか、な」
香山は淡々と力なく呟いた。堀は内心、どうしてそう思われるのですか? と尋ねたかったが、それは止めた。香山の目は精気を失っており、疲労困憊しているのがあからさまだったからだ。これからの香山の事情を考えると、これ以上の煩わしい問いは止めるべき、と堀は判断した。実際、香山は連日の激務と緊張で、肉体的にも精神的にもまいっていた。
『この任は必ず最後まで果たす』
その一念をもってして香山は己を奮い立たせている。だが、疲弊しきっているとはいえ、ただ希望的観測のみで容易に堀の質問に答えたわけでない。香山はアメリカとの交渉に際して、幕府と浦賀奉行を行き来する間に、アメリカ側の意図が徐々に見え始めていた。
『おそらく連中は口先だけで無茶はしない。少なくとも国書の返答が来るまでは江戸へ攻め込むことなどありえない。連中は我々に対して威嚇を行っているだけだ。国書の内容が開国要求に関するものだったら尚更だ。いたずらに寄港地を傷つけたくはあるまい』
香山はそう読んでいた。事実、ペリーも「軍艦をさらに奥深く湾内に進める事により、日本政府を刺激して、より良い回答を出すように促す」と遠征日記に記している。
『だが……』
香山の眼前にサスケハナ号が見え始めた。その様相はまさしく黒き巨艦に相応しい。
『だが、今はまだ幕府の評議で回答を考えあぐねているが、その結論は既に決まっているであろう』
サスケハナ号の船首や船尾に配備された大砲を眺めながら、香山は感慨深く思った。
国書の受領の可否の回答ではないとはいえ、何とかサスケハナ号に香山と堀は乗り込むことはできた。だが、アメリカ側からすれば無駄な交渉と思われているので、二人は冷遇され。また要求も当初はけんもほろろに突っぱねられるだけだった。
「何故、かの蒸気艦(ミシシッピ号)が測量艇を伴って江戸湾へ北上するのか?」
香山は冷静に問う。
「別に他意はありません。ただ万が一に日本側が我々の書簡を受けとらない場合、こちらとしては強引にでも江戸へ向かって渡さなければならないのですよ。その時のために予め海底や入り江の測量を行っているだけです」
ポートマンが香山の質問を訳した後、参謀長のアダムスは丁寧に答えた。だが、その言い方はブキャナンよりも高圧的ではない分、嘲笑の気配が毒々しく香山には窺えた。あからさまな威嚇行為の発言ではあるが、香山は焦る事なく滔々と言葉を返した。
「先日も申し上げたが、勝手な測量は……」
「こちらも過日に言いましたが、我々は我々の法に従っているのです。測量それ自体を行う事は何の問題もないのです」
ポートマンと堀はアダムスが香山の台詞を遮って、勝手に喋り始めたので、お互いまくし立てながら早口で訳した。香山は特に苛立った顔も見せず、アダムスの見下ろした視線を確認すると、無表情で堀に向かって頷いた。
「それにもし今回の来航目的が達成しなければ、我々は来春、ますますの兵力を保持して日本に戻って来なければなりません。浦賀沖では安全な投錨地が確保できないので、江戸により近い場所を望んでいるのですよ」
アダムスの今の発言は、来年の一八五四年(安政元年)に結ばれる事になる、日米和親条約を想定しての意味を含んでいた。
『来春に再度来航する、だと』
表情には出さなかったが、内心、香山は意表をつかれた。と同時に最早日本は鎖国を解き、アメリカとの国交を結ぶのは避けられぬ事態になる、と自覚した。
「なるほど」
香山は平静を装いつつ呟いた。そして、しばらく黙り込んだ。香山が黙ってしまい困惑した堀は、香山とアダムスの顔を交互に視線を動かして所在無く見つめた。その間、アダムスは唇をしきりに舐め、さらに時折鼻で息を吐いていた。
「……とはいえ、まだこちらも国書を受け取らないとは申していまい。にもかかわらず我が国の法を守らないのはいかがなものか。これ以上我々を、ひいてはこの浦賀沖を蹂躙するのならば、こちらも黙ってはいない。その覚悟はおありか?」
怒鳴り声ではないが、低い声でドスを効かせて香山は告げた。さらにここで初めて香山は表情を一変させた。眉間に出きるだけ皺を寄せ、目を細めるだけ細めて、上目遣いでアダムスを睨みつける香山。瞬き一つせずアダムスの目を己の目に焼き付ける。唇を噛み締める。首筋に血管を浮き立たせる。
その迫力に隣にいた堀もおぼつかない通訳になってしまった。だが、訳された意味を半分も理解していないにもかかわらず、アダムスは思わずたじろいだ。隣にいるポートマンも物怖じした様子だった。
「私もあなた方の要求には最善を尽くして邁進するが、あなた方もそれ相応の対応を見せて欲しい。今それに応えるという事は蒸気艦の退去をして他にない。これ以上の進攻は許すべき行為ではない」
アダムスは睨みつけてくる香山からの視線を逸らし、目を香山が腰帯に携えている刀の方に向けた。すると喉仏の隆起以上に唾を飲み込み、
「イ、 イエス」
とただ一言漏らした。疲労で思いがけなくも培ってしまった目の下の隈が、香山が醸し出している異様な強面に相乗効果をもたらし、また眼精疲労し充血した目も同じく迫力を増させていた。その目をして香山はしばらくアダムスを見据えた。アダムスは目の前の小柄な日本人によって、自らの背中に脂汗をかかされている事に気づいた。そして、未開人風情が何を! と虚勢を張るのと同時に、自分たちが交渉している相手は、武と義を重んじるサムライである事を認め始めた。
*
翌七日。国書受理の返答期日。
江戸に在留していた同心の福西源兵衛が、浦賀にその回答を携えて戻ってきた。そして、泥のように眠っていた香山が起床一番に奉行所で聞いた報告は、親書を受け取る、との事だった。
「そうか」
分かっていた答えであった。だが、いざその報せを聞くと香山は、改めて深い溜め息をついた。
「変わる、な」
傍らにいた戸田は何気なしに呟いた。香山の側にいる中島三郎助はいまだ煮え切らない表情をしていたが、奥歯を歯軋りしつつも幕府が出した回答を真摯に受け止めた。
そして、このアメリカからの国書を受け取るという決定は、鎖国という時局の終止符を打つ事を意味していた。
幕閣がその回答を出したのは前日の真夜中であった。期日限界まで評議はしていたが、老中の阿部正弘以下、三奉行と海防掛の間では既に国書受理の合意は達していた。攘夷を推す水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)が最後まで反論していたものの、阿部と親密である福井藩主の松平慶永(まつだいらよしなが)の賛成をもって、結局アメリカ側の意見を汲む事に決定した。ただ幕府としては、「親書は浦賀付近で受け取るが、回答は長崎でオランダ人の長、もしくは清国人(中国人)の長を通じて伝達する」という姿勢を持っている。つまり、一刻も早く江戸の近くから黒船を退帆させたいのである。だが、国書を受け取るとはいえ、長崎で回答を出すという幕府側の考えが、ペリーの意に反しているのは変わらなかった。
兎に角、これで交渉が進展しそうだ。香山はそう思案した。
朝四つ(午前十時頃)。
香山は通詞や同心らを伴って意気揚々とサスケハナ号へ向かい、ブキャナンとアダムスと会見した。だが、
~我々は長崎での回答を欲していない。さらにオランダ人やシナ人(中国人)を通じての受け取りも拒否する。我々は江戸で直接返事を受ける事を望んでいる。また、皇帝(将軍)にあてた大統領からの友好的な書簡が受領されず、しかるべき回答が与えられないならば、我々ひいてはアメリカを侮辱されたものとみなす。そして、我々は浦賀付近の地以外では回答を受け取るつもりはない~
という内容のメモを香山は受け取った。ペリーは相変わらず姿を現さないが、その手書きはペリーが記したものだった。
今まで外国船は長崎のみで外交を行ってきた。そして、その旧態依然の慣習を打破するためにペリーはここでも譲歩する事はなかった。ペリーにはアメリカの威厳を保つと同時に、閉鎖的な日本という国を変えるという理念がある。ペリーは国書を受理するという成果のみに溺れず、自らのその構想を貫徹させ妥協する事はなかった。だが、その徹底性まで摑みきれていない香山は、いまいちアメリカ側の真意が理解できないでいた。今までの高圧的な態度は駆け引きの手段である事は分かってはいたつもりだが、ここまで相手が譲らないとなると、果たして何処までが駆け引きなのか。それとも単なる嫌がらせなのか区別できなくなってきた。
国書を受け取る。
答えは出たのでこれで交渉は終わると睨んでいた香山だったが、アメリカ側は長崎での回答を拒絶したので、結局は浦賀奉行とサスケハナ号を再び何度も行き来する羽目になった。
『私は幕府とアメリカの両方に踊らされているのだろうな』
香山は自嘲する。だが、黒船を退去させるのみ、とたた単純に自らに課していたその使命への考えも甘かったと悔いていた。
『アメリカ船を避けるのみ、という簡単な話ではなかった。これからの日本というものが、大きく変革する一大事であったな。我ながら認識力が足りなかった』
自分は与力である。香山はよりいっそう己の責務を覚えた。
陸と海。香山が行った何度かの往来の結果、久里浜海岸で明後日の九日に国書の授与式が行われる事が決定した。香山はその旨を伝えに通詞の堀達之助を伴いサスケハナ号へ向かった。時刻は既に夕七つ(午後五時頃)を回っている。
案の如くブキャナンの船室に通された香山たち。そこではブキャナンが一人、テーブルの側にウィスキーのボトルとグラスを置き、椅子に深く座っていた。また船窓から夕焼けによって茜色に染まる浦賀の海を、その青い瞳で黙って眺めていた。香山は久里浜で国書の授与を明後日に行う事を告げたが、ブキャナンは一瞥して小さく頷いただけだった。
『愛想のないのはいつもの事だが、ようやっと国書の受け取りの日取りが決まったのだから、少しぐらいは喜んでもいいだろうに』
香山は、事の重大さの認識にブキャナンと自分とでは格差があるのではないか? と察したが、それ以上問い詰める事はなく一礼して去ろうとした。
「Hey」
香山と堀が去ろうとした時、ブキャナンが不意に声をかけた。香山が振り返るとブキャナンはウィスキーの入ったグラスを手に持ち佇んでいた。ブキャナンはしばらく香山を見つめると、グラスに半分ほど残っていたウィスキーを一気に飲み干した。そして、再びグラスにウィスキーを注ぐと、黙って香山の方に差し出した。香山は一瞬だけ眉に皺を寄せると、ブキャナンの顔を窺った。ブキャナンはグラスを差し出したまま、顔色一つ変えていない。それは香山が交渉の際に見ていた、普段と変わらない何時もの彫りの深い異国人の顔。
だが、その手には洋酒を差し出している。
『この男もやり遂げるべき仕事を果たすために、長い航海を経てきたのだな』
香山は一度視線を床に落とすと、次に真っ直ぐとブキャナンの目を見てグラスを受け取った。側にいた堀は僅かに肩をすくめた。
「さんくす」
短くもたどたどしい声で香山は言い放った。香山の慣れない英語に堀は思わず笑いそうになり、咄嗟に顔を下に向けた。
香山はグラスを揺らすと、
『この洋酒、夕焼けに映える浦賀の水面の色に似ている』
船窓から覗ける景色を見ながら、香山はウィスキーをゆっくりと喉に通しつつ、感慨深げにその気持ちに浸った。
夜五つ(午後八時頃)。
月明かりの下、香山は中島とともに浜辺で佇んでいた。香山のその両の眼には浜辺で焚かれる篝火が映っている。夜に紛れて揺れるその炎が何処か神秘的に香山は感じる。
『いつもと変わらぬ火の色だというのに奇妙なものだ』
湿気に満ちた潮風が香山の頬や腋に若干の汗をもたらすが、特に不快な印象は持たなかった。
『今年は暑くなりそうだ』
香山は思う。そして、自分自身がある程度の充足感に満ちている事にも気づいた。国書を受け取るという、結果の如何には賛否があるにせよ、一つの節目はつけられたのではないか。また、戦に発展するような最悪の事態は避けられ、アメリカと幕府の緩衝材として微力ながらも任務はこなせたのではないか、とも。
香山の顔にはうっすらと無精髭が見えるものの、幾分晴れた様子が窺える。
「井戸奉行も式当日には来るそうだ」
「そうですか」
中島は海を眺めながら香山に話しかけ、香山は穏やかな浦賀沖の漣に目を凝らしつつ答えた。潮騒に耳を傾けている両者の間で交わされる言葉は少ない。互いの沈黙の間、緩やかに刻(とき)は流れていく。
「義兄(にい)さん」
不意に香山は呟いた。香山は岡田定十郎(おかださだじゅうろう)の三女のきん子と結婚しており、きん子の姉のすずは中島に嫁いでいるので、二人は義兄弟の間柄なのである。
「戸田奉行が申された通り、これから変わりますかね?」
「どうだろう。なるようになるのではないか」
「なるようになる、か。そうでしょうね」
「それにしても香山君。今回は大儀であったな。よく働いたものだ」
「まだ終わっていませんよ。これから大事な式があります。黒船が浦賀から出て行くまで気は抜けません」
香山は着物の襟を直しながら答えた。
「ま、まあ、そうだな」
中島は香山の真摯な迫力に圧倒されつつも、気まずそうに咳をして誤魔化し、さらに一人頷きながら、
「そうだ、そうだ。久里浜の式では奴もようやっと姿を見せるだろうな」
と告げた。
「奴?」
「黒船連中の長のことだよ。名前は確か……」
「ペリーのことですか。東インド艦隊司令長官のマシュー・カルブレイス・ペリー……」
と自分自身確かめるように話した香山だったが、語尾の方は呟くような言い様になってしまった。ペリーの名を言いながら、ペリーがどのような人物か想像にふけてしまったのである。香山は瞬きも忘れて、
「どんな男でしょうかね」
と中島に尋ねた。中島は、
「それ相応の男であろう。そうでなければ許されん。幕府を動かしたという、それに相応しい男でなければな」
と感情を込めて言った。
「相応しい男、か」
青い瞳をした長身の男。その程度しか香山はペリーのイメージが浮かばなかった。
『確かに相応しい男でなければ報われんな』
香山は大きく溜め息をつく。やにわに遠くから鐘の音が鳴り響く。
「そういえば香山君。お主、異国の酒を飲んだらしいな。どうだった?」
中島が尋ねた。
「そうですね」
香山は遠方にそびえる一隻の黒船を見つめた。黒船は夜の闇の中、その黒さにより周りの海と溶け合っているように見えた。また一方で、月明かりを浴びた黒船はその黒さと月光との対比によって、より際立って映えていた。
「不味くはなかったですよ」
「下戸なのにか?」
「下戸なのに、です」
香山が微笑みながらそう答えると、中島もつられて笑って返した。一方、二人が談笑している間にも、岸辺の周りを囲む焚き火や篝火の炎は、依然として赤く燃え続けていた。
吉田兼好
* *
伊豆半島の最南端、石廊崎(いろうざき)より四十海里離れた大海原。日没の中、深い靄がかかるその海を、巨大な四隻の黒い船が、波を打ち壊しながら突き進んでいた。四隻の船のうち二艦が蒸気艦、残りの二艦は帆走スループ(小型帆船)。各々の蒸気艦がそれぞれの帆船を曳航している。また、四隻の船には八インチ砲や十インチ砲、三十二ポンド砲などを複数装備しており、それはまさしく軍艦の様相を呈していた。片方の蒸気艦の全長は二百尺(約六十メートル)以上、もう片方は二百五十尺(約七十五メートル)以上を有し、幅も三十尺(約九メートル)以上の余裕はあり、それぞれ二千屯、千五百屯は超えると見られる二隻の蒸気艦が、静寂漂う海を航行するその光景は、勇壮かつ独特の物々しさを映し出していた。
*
握り飯に備えてあった沢庵の感触が妙に硬い。
浦賀奉行の与力、香山(かやま)栄(えい)左(ざ)衛門(えもん)はいつもより幾分歯ごたえのあるそれを、干物を食い千切るように噛み締めつつ、熟慮する。とはいえ遅めの昼食をとっている香山にとって、その空腹感からすれば沢庵の微妙な硬さなど、さして気にするほどのものでもなかった。
「今日の演習は晴天に恵まれて良かった」
香山は一人満足気に頷く。
この日は久里浜で砲術師範、下曽根金三郎(しもそねきんざぶろう)のもと行われている砲術演習の三日目。けたたましい騒音の他に特に煩わしい問題もなく事は順調に進んでいる。久里浜の海は清々しいほど青く、水面を颯爽と飛行している鴎を見ればそれはいっそう映える。休憩がてらに香山は、海の青さに劣らないほどの藍色を呈した空を見上げながら、呑気そうに構えていた。
だが、瞼の重さも心地よく、一発放屁をかました後、昼寝でもしてしまおうかと思ったその時だった。三浦半島の南方にある城ヶ島から、三人の漁師が息も切れ切れに演習場に駆け込んできた。
「け、今朝! 浦賀水道に四隻の黒い船が入るのを漁船から見たんじゃ!」
三人の漁師は慌てながらも、見事に斉唱して首筋の汗を飛ばしながら告げた。
「黒い船?」
釈然としない香山。朝早くに寝ぼけて見間違いしたのではではないか? とも考える。だが、しばらくすると三崎役宅詰の使者が飛び込んできて、
「城ヶ島沖合に四隻の黒い船が!」
と叫んだ。腕を組みしばしの思案にふける香山。
「まさか、異国船か!」
香山の脳裏に稲妻のように一つの解答がよぎった。
騒然し始める久里浜の演習場。先ほどまでの長閑な雰囲気は一蹴された。そして、浦賀奉行所の在勤奉行、戸田伊豆守氏栄(とだいずのかみうじよし)の指示のもと、演習は直ちに中止され浦賀奉行所へ戻る事になった。香山は口に頬張れるだけおむすびを頬張り、微妙に硬かった沢庵もついでに詰め込むと、喉を一気にお茶で流して駆け足で移動し始めた。
香山ら一同が奉行所に着いたのは昼八つ(午後三時半頃)。だが、すでに四隻の黒い船は、その姿に相応しいもうもうとした黒煙を立ち上げて、奉行一行の目前を横切り、浦賀沖に到着していた。
一行は額の汗を拭き拭き、船を見上げた。
「何だ、この大きさは!」
実際に間近で見る黒船の巨大さに香山は圧倒された。兎に角、デカい。自らが知る小舟や警備船とはケタが違う。誇らしげに広がっている帆、高々と屹立するマスト、重装備の出で立ちを放つ船体。どれを取っても今まで香山が見た船舶の既知の範囲ではなかった。そして、暫し奉行所の一行と共に呆気にとられた香山の表情が徐々に強張ってきた。
『これから大変な事になるな』
さらに好奇の視線で見ていた香山の目は、与力の鋭い目に変わっていった。
時は一八五三年七月八日(嘉永六年六月三日)。
この季節には珍しく湿り気のない、すっきりと晴れ渡った夕刻の出来事。そして、これこそが今後の日本史に深く刻まれる事になった歴史的時事。蒸気フリゲートの旗艦サスケハナ号とミシシッピ号、帆走スループのサラトガ号とプリマス号、四隻の黒き軍艦を従えた[ペリー来航]であった。
如何にして来航してきたペリー提督率いる四隻の黒船が、いわば鎖国の果てに租界化した日本にどれほどの衝撃を、ここ浦賀に与えたかどうかは知る由はない。だが、浦賀奉行が周囲の物見遊山とは別に忙しく機能し始めなければならないのは、必然であった。
「奉行」
香山は眉間の脂汗を指で擦りながら、戸田からの鶴の一声を待った。戸田は組んでいた腕を勢い良く振り切り、
「川越、彦根、忍(おし)、会津の四藩には異国船の浦賀来航を通達後、江戸湾の固めの徹底と台場の警備を実施。また、領内から集められるだけ人夫を召集し、食料及び天保薪水令に従い薪水の確保を促せ。さらに江戸の井戸奉行にもこの旨を伝達せよ」
と多少早口ではあるが特にまくし立てる事もなく、あくまで淡々とした口調で指示を出した。戸田の沈着した佇まいを見てか、最初戸惑っていた香山以下浦賀奉行の役人も、それらの指示を受けてからは慣れない手つきながら、目前にそびえる黒船への対応と理解をし始めた。
「あの船はアメリカの船なのでしょうか?」
香山は怪訝な表情で戸田に質問した。
「恐らくは」
戸田はただ一言、黒船を凝視してそう即答した。
元より口数の少ない戸田の事ではあるが、戸田の頭の中では許多(あまた)なる対処の選択肢と方法を目論んでいるのだろう。
いつも以上に言葉少ない戸田に対して香山は、その寡黙さをしていっそうの頼もしさを感じた。だが、一つ腑に落ちない点もあった。
「ただ昨年末に頂いたオランダの風説書の写しでは、アメリカ船の渡来はない、と聞いていたのですが?」
敢えて目線を戸田の方に向けず、適当に放るように香山は言ってみた。
オランダ(阿蘭陀)風説書とは、長崎港に入港したオランダ船が幕府に提出する海外情報の書類のこと。オランダ通詞によって訳されたオランダ風説書は、鎖国下の日本にとっては国外の状況を知るための、貴重な情報誌となっていた。また、風説書には通常の海外ニュースが載っているオランダ風説書の他に、特報的なニュースを扱う別段風説書なるものも存在する。別段風説書はイギリスと清(中国)のアヘン戦争(一八四〇年~一八四二年)を、長崎のオランダ商館長が通常の風説書とは別けて詳細に綴った事から端を発し、それ以降はアヘン戦争の情報のみならずヨーロッパやアジア、アメリカなどの国際情勢の近況も記載されるようになった。
「…………」
戸田はダンマリを決め込むかのように、香山のその質問に対しては答える事はなかった。香山は戸田のあまりの口数のなさに寡黙以上の他意を感じ、戸田の表情を一瞥してみたが、やはり口を開く気配はなかった。香山もそれ以上の詰問は止めた。
まずは異国船と接触しなければ何も始まらないし、何も分からない。
香山は警備船に乗り込んで、黒船への接近を試みる事に決めた。
「くそ! 文政令のままだったら異国船なんて来る事はなかったのだ」
舟の漕ぎ手の一人が櫓を握りながら、吐き捨てるように言ってみせた。香山はその言葉に対して、何も言及はしなかったが、一人頷き下唇を噛んだ。
この頃、幕府が外交に対して取っていた政策は天保薪水令であり、文政令ではない。天保薪水令は一八四二年(天保十三年)から実施され、異国船が日本に漂着した場合、食料や水や薪などの必要な物資を与えて、そのまま穏便に帰帆させるという外交策である。一方、文政令は一八二五年(文政八年)から始まり、またの名を異国船無二念打払令(いこくせんむにねんうちはらいれい)と称し、補給などはもっての他で、その名の通りやって来た異国船に対しては、容赦なく大砲を投擲して打ち払う、という過激な外交手段である。
そんなタカ派の文政令から、ハト派の天保薪水令に転じた理由。
それは当時の幕府は鎖国体制を強いていたものの、日本と同じく過度の強硬策の外交を取っていた清が、その外交策に否定的だったイギリスとアヘン戦争を開戦し、その経緯を幕府が重く見ていた事に原因の一つがうかがえる。アヘン戦争によって清が大敗を喫したのを鑑み、それなりの緩和策を取って臨んだ方策が、余計な火種が増えぬ、と算段した天保薪水令であった。
実際、風説書にはフランスのルイ・ナポレオンによる帝政復活や、イギリスにおける第二次ビルマ戦争やムランジェニ戦争などの情報も載っており、産業革命を成したヨーロッパ諸国がアジアやアフリカに帝国主義の趨勢を押し広げ始めた渦中。幕府も「食うか、食われるか」の時代の気配は最低限の理解を示していたので、他国に対していたずらに刺激する事は危ういとしていた。
『それにしてもここ最近、異国船が沖合に出没する回数が多すぎた。あれらは斥候だったのか? さすればこの黒船来航も合点がいく。そうすると風説書の情報は誤報だったのか……』
疑念にかられる香山。だが、自問自答しても真実は分からない。分かっている事は少ないが、やらなければならない事は知っている。それは一刻も早い異国船の退去。
浦賀一帯が慌てふためく一方、招かれざる四隻の黒い脅威は事を進め始めた。黒船が鳥ヶ崎沖に投錨を開始。すると台場から号砲強震の一発。それを合図にして数多の警備船や小舟が四隻の船を取り囲もうとした。その中に香山の乗っている舟も混ざっている。
湾内にひしめく警備船や小舟は、それぞれ四隻の黒船にたどり着き、接触を試みた。だが、皆が黒船に乗り込もうとすると、黒船の乗組員たちは櫓や短剣やピストルで威嚇し、乗船を拒んできた。本来なら近づいて来る者を拒まないで乗船させるのが黒船、つまりは外国の軍艦の慣習だったのだが、今回はそれをしない。香山はその様子を見て、ますます今回来航した四隻の船に対して猜疑心を抱き始めた。
一方、これらの乗船拒否はペリーが講じた一つの手段であることを、けだし香山は察知できていなかった。
ペリー来航を遡ること六年前。一八四七年(弘化四年)にアメリカ東インド艦隊のビッドル提督が、日本への開国要求と通商関係の締結を目的として来日を果たした。ビッドル来航はコランバス号とビンセンズ号の二隻の艦隊であったのだが、その際に浦賀奉行所は四百隻以上もの小舟を出してその二隻の船を取り囲んだ。そして、多数の日本人の乗船を許してしまい収拾がつかなくなってしまった。
結局、幕府は開国を拒否。ビッドルも何の成果を残さないまま、アメリカへ帰国してしまった。
詮ずる所、アメリカ本国ではこの失策がアメリカの威信を傷つけるものだとして、予想以上に重く受け止められた。そんなビッドルの二の轍を踏まないためにも、強硬的な態度でペリーは来日に臨んできたのである。外交の窓口は旗艦のサスケハナ号のみ。また、一度に乗船させるのも三人まで。自分に用のある役人以外はどの船にも日本人は乗せない等々、ペリー自身しっかりと予め明言している。そして、「私が排他的で横暴に振る舞うほど、形式と儀式を尊重する日本人たちは、私を尊敬するだろう」とも。これらの主張をもって、ペリーの今次の来日に対する、開国にかける意気込みが伝わってくる。
「錨を降ろすな! ここに停泊するのは危険であるから即刻退去せよ!」
小舟でサスケハナ号に近づいてきた男は、元より細い目を見開きそう叫んだ。傍らにはもう一人男がおり、彼は『すぐ立ち去り、錨を降ろすな』とフランス語で書かれた旗を掲げている。
「錨を降ろすな、と申しているだろうが!」
「いくら力んで叫んでみても、向こうにジャポンの言葉は伝わりませんよ、中島さん」
「う、うむ。それは分かっておる」
サスケハナ号に小舟で近づいてきたのは、浦賀奉行所の支配組月番与力、中島(なかじま)三郎(さぶろう)助(すけ)。オランダ語通訳の堀達之(ほりたつの)助(すけ)。目くじらを立てて黒船に叫んでいる中島とは対照的に、堀は落ち着いた様子で対応しているようだった。
「旗艦はあの船で合っているのだろうか?」
「ウィンブルという旗が掲げてありましたからね。恐らく合っていると思います。問題は言葉ですよ。どうやらアメリカ船であろうからアメリカ語(アメリカ英語)でないと通じないだろうですし」
「アメリカ語か」
「はい、私はオランダ語の通詞ですので、アメリカ語はまだ不得手で」
「では、交渉が出来るか分からんか?」
溜め息まじりの中島の問いに対して、堀は一瞬黙り込むと、
「何とかしてみますよ」
と俄かに笑みをたたえて答えた。
二人が乗った小舟が十分にサスケハナ号に近づくと、堀は甲板に立っている水兵たちに向かって、
「I can speak Dutch(私はオランダ語が話せる)」
と抑揚のない発音の英語で呼びかけた。すると甲板から一人、長身の男が顔を出し、大げさな身振り手振りで何やら堀に語りかけてきた。堀も苦手とはいえ流暢な英語で対応する。中島も、さすがは頼りになる、と内心溜飲を下げていた。事実、黒船来航の際の堀の仕事がアメリカ側にかわれて、後の日米和親条約の和訳の業務にも堀は携わる事になる。
どうやら二人の会話が一段落したらしく、中島も頃合を見計らい堀に問いかけた。
「何だって、堀君?」
「ええ、どうやらあの男はポートマンという名前らしく、向こう側のオランダ語通訳のようです。向こうにもオランダ語が出来る人間が、一人か二人はいるのではないか、と睨んではいたのですが、やはりいましたね。助かりました」
「オランダ語の通訳?」
「つまり、私が中島さんの言葉をあのポートマンという男に対してオランダ語で伝え、ポートマンはそれをアメリカ語で上の人間に伝える。そして、その返答をポートマンが再び私にオランダ語で伝え、私はそれを中島さんに訳す。そのような会話の流れで私は交渉しようと思っているのですが」
中島は暫く腕を組んで考え込み、
「おお、なるほど。アメリカ語と我々の言葉の間に、オランダ語を介して話し合いをするというのか。さすがは堀君!」
と合点すると、笑顔のまま思い切り堀の背中を叩いた。堀はその勢いに咳き込んでしまった。
堀達之助は交渉するにあたり、艦隊の出身や各々の船の装備、来航の目的などをポートマンに尋ねた。だが、ポートマンは堀の一連の問いに答える気配はなかった。
「どうだね、堀君?」
眉間に皺を寄せながらポートマンと会話している堀が気になり、中島は二人の話の最中に遮って堀に問いかけた。堀は甲板にいるポートマンに向かって一度手を差し出し、「待て」の合図を出してその後中島に顔を向けた。
「うまく運んでないですね。向こう側の言い分では、最も地位の高い役人が来なければ誰も乗船させないし、話し合いの場も設けないと言っているのですよ」
「最も地位が高いとなると、奉行の事を申しているのだろうな」
「恐らく」
「奉行はこちら側の決まりで、投錨中の船に乗って直接交渉はできない。そう伝えてみてくれ、堀君」
堀はポートマンに対して中島の意向を通訳した。だが、ポートマンは顔を何度か横に振り、言葉少なく返答しただけだった。
「駄目ですね。そういう態度ではこちらも話し合いは臨まない、だそうです」
「む! 何と頑なな連中だ」
中島は顎を摩りながら幼子のように地団駄を踏んだ。その振動で舟が揺れ、危うく堀が体勢を崩し海の方へ落ちそうになった。その時、香山の乗る小舟が中島と堀の舟に近づいてきた。
「中島さん、様子はどうです?」
「おお、香山君。いや、なかなかどうして話がまとまらんね。向こうは奉行が相手でないと話し合いはしないと申しているのだよ」
「それでは戸田奉行をここへ呼ぶのですか」
「まさか、な。それでは我らの面目というものが成り立たん」
と中島は声を張って言ったものの、腕を組み考え込んでいる姿勢は変わっていなかった。香山も声を唸らせるのに留まっている。すると思慮に苦しんでいる二人の様子を静観していた堀がポートマンに対して何か語りかけた。堀の言葉を聞いた後、ポートマンは一度甲板から姿を消し、何やら上官の人間と話を始めた。
「何と申したのだね、堀君?」
「この舟にガバナーは乗っていないが、バイス・ガバナーなら乗っている、と伝えてみました」
「がばなぁ? ばいす・がばなぁ?」
「ガバナーは奉行。バイス・ガバナーは副奉行という意味です」
「何? 副奉行など乗っていないぞ」
「分かっていますよ。だから中島さんが取り敢えず副奉行になって下さい」
「な、何と!」
副奉行がいる。つまりはデマである。堀はこの時とっさに機転を利かし、与力の中島を副奉行に仕立てた。実際、この副奉行という役職はアメリカ側ではバイス・ガバナーと訳され、またガバナーという用語を日本語に訳せば、「奉行」もしくは「総督」という意味になるが、英語的解釈からすればより強大な権限を持っている地位の人間を指す含みがあった。
「う~む」
渋い表情をしている中島を見て香山が、
「そんな深く考えてみても仕方ないですよ。嘘だろうが何だろうが、まずは話し合わなければ始まらないし、これが交渉のきっかけになれば儲けものじゃないですか」
と言うと、中島はゆっくり目を閉じた後、黙って頷いた。香山と堀は互いに見合い微笑を漏らした。
「それにしても返答が遅いな」
香山は甲板を見上げ呟いた。
しばらくしてようやっとポートマンが顔を出した。
「副奉行。つまり中島さんだけなら乗船を許すそうです」
堀がポートマンの言葉を訳した。
「一応他の者も乗船できるかどうか聞いてみてくれ」
堀は中島の言葉をポートマンに訳して伝えたが、すぐにポートマンは首を横に振った。それを見て中島は堀の返答を待たず、
「分かった」
と告げて大きく溜め息をついた。
結局、船に乗り込むことが出来たのは中島と通訳の堀のみであった。
『大丈夫だろうか、中島さん。あの人は豪胆なわりに駆け引きという場面では融通がきかない気がするのだが』
一抹の不安を抱えながら香山は二人が船に乗り込むのを見送った。
そんな香山の心配を他所に、中島と堀は半刻後には船から降りてきてしまった。強張った顔の両者を見ておおよその見当はついたが、香山は尋ねるべき懸案を一応は出してみた。
「どうでした?」
堀が香山の問いに対して口を開こうとしたが、眉間に皺を寄せ唸っている中島の手前、堀は中島を一瞥して口を閉ざした。すると中島は香山を凝視して、
「話にならんな」
と吐き捨てるように言った。
中島と堀が乗船するにあたり、その交渉の相手となったのはペリー本人ではなく、副官のコンティ大尉であった。つまり、ペリーは最高位の役人以外は接見しないという姿勢は変えていなかった。従ってペリーは自分の船室に籠りきりで、コンティがペリーの船室と中島たちのいる部屋を往来して話は進められた。
「艦長自らが出てこない?」
「うむ」
「何とまた煩わしいことを」
「我が国での外交港は長崎であるから、長崎に向かってくれと頼んでも、浦賀まで来てわざわざ長崎に戻る気はない、と言い張るだけだし。それでは来航の目的、それに恐らくアメリカ船とは分かってはいるが、形の上で艦隊の国籍なども質問してみたが、向こうはそれも明らかにはしない。挙句の果てには、艦隊を囲んでいる番船や警備船を退去させろ、そうでないとこちら側に武力をもって行使する構えがある、だそうだ。まったく、何様のつもりだ」
中島は時折舌打ちをしながら、鼻息も荒く語った。
「逆に脅しをしてくるのですか。それでは話にならないでしょう」
「確かにそうなのだが、一つ分かっているのは、向こうは国王(合衆国大統領)の親書を日本国皇帝に渡したい、という事なのだ」
「日本国皇帝、というと将軍の家慶様(第十二代征夷大将軍・徳川家慶(とくがわいえよし))のことですね。つまり、連中は国書を渡しに遠路はるばるやって来た、と。そうなるとその国書の内容というのは、旅路の労力に等しくそれ相応のもの」
香山は甲板を見上げて言った。既に乗組員たちは香山らを注視しているわけでもなく、淡々と各々の作業に従事していた。
「やはり開国要求に関したもの、でしょうか」
堀が呟く。香山は堀のその台詞に対して、反射的にこめかみの辺りを掻いた。香山は暫く唸った後、口を開こうとしたが、
「とにかく奴らは高飛車な態度なのだ! 国王の命令が絶対厳守であるから、我々の事情などお構いなし。薪や水の補給をわざわざこちらから申し出ても、十分に備えてあるから要らぬ、の一点張りだ。一つ一つこちらが質問するにしても、あの異人どもときたらぶっきら棒に……」
と中島が顔を紅潮させて勢い良く発した。そんな中島を宥めながら香山は、
「まあまあ、中島さん。それはこれからの交渉次第でどうにかなりますよ。それで今後の対応は?」
「うむ、翌朝再び訪問するという約束はかこつけたのだが、何度も申すが連中は最高位の役人でないと、これ以上の話し合いはしないと言い張るのだ。こればかりはどうにも折れそうにない」
「奉行をよこさないと無理という事ですか」
「であろうな」
小舟が漣に揺れた。
「とにかく一度岸に戻って戸田奉行に報告しましょう」
堀のその一言をして、一行の小舟は岸へと帰っていった。岸辺の方では狼煙が上げられていたり、篝(かがり)火(び)が焚かれていたりして、合図や灯りが絶やされることなく発せられている。
波止場に到着。
香山は身を翻し、水平線に落ちていく太陽を見つめた。普段と変わらない夕暮れが妙に眩しく香山の瞳に映る。
『これほどまでに外国船が高圧的な態度に出てくるとは。異例ではあるが、逆に相手側に確固たる姿勢が窺えるな。よもやこの一件は思いもよらぬほどの大事になるのではないか』
不安と焦燥の中、陸で鳴り響く寺の鐘を背に、香山は内に秘める与力としての自負と使命感を燃やし始めた。
時刻は夜五つ(午後八時頃)の浦賀奉行所。香山は戸田の面前にいた。他に場に居座っているのは、中島と堀。それに浦賀奉行所の与力、近藤(こんどう)良(よし)治(はる)。同じく浦賀奉行所の与力である佐々倉(ささくら)桐(とう)太郎(たろう)。
「なるほど。翌朝にもう一度訪問するとなると、江戸にいる井戸奉行の意見を仰ぐ暇はないな」
戸田は中島と堀の報告を一頻り聞いた後、そう呟いた。
「あの艦隊だけで六十門以上の大砲は装備しています。それに中島さんの報せではあの旗艦はパクサンズ砲(フランス人のパクサンズが考案した、当時最新鋭の炸裂砲弾式の大砲)も置いているという事ですし。只事ではありませんよ、奉行。これは一刻を争います」
佐々倉は詰問するかのように戸田に言い迫った。一方、戸田は気色を変えず黙って頷く。
「町に混乱はありませんでしたか?」
「うむ、野次馬ばかりが多いだけで思った以上の騒擾はなかった。戸惑ってはいるがな」
我々と同じように、と最後に小声で呟き、香山の質問に近藤は答えた。
「いやはや、戸惑っているどころか騒々しくなっとるのはむしろこちらの方だ。あの黒船連中の考えている事が皆目見当がつかん。いや、全く分からん訳ではないが、どうしてあそこまで横紙破りな態度を取っているのだ。およそ友好的とは思えんやり方だ。一体どういう了見なのだ、まったく。武力行使も辞さぬ勢いであるし。本当に何なのだ!」
中島は憤慨していた。戸田は上気する中島に対して、手をかざし落ち着くように促した。それに対して中島は口を噤んだものの、怒気はその顔に残したままだった。
思えば中島三郎助はその気性の激しさをもってして人生を駆け抜けた人だった。中島の父もやはり与力で、三郎助は十四歳にして与力見習いとして奉行所に出仕。後に海防問題に深く関心を持つようになり、軍艦の大砲の射撃や製造や火薬の調合の技術を学び、それが認められ見習いから正規の与力となる。さらに黒船来航以降の後年、榎本武揚(えのもとたけあき)らとともに函館戦争に参加し、一八六九年(明治二年)に胸を撃たれて長男や次男とともに戦死する。
生涯、気魄(きはく)の人であった。
「穏やかな話ではありませんね。先のアメリカ船の来航(ビッドルの来航)とはだいぶ訳がちがう。単純に船の数も違うが、随分と強気な態度だ。あの時は思慮深かったというかもっと弱腰というか、開国要求に対しても我々の方に選択肢はあり、あくまでも向こう側は受け身だった感がありましたが」
佐々倉は堀の表情を窺いながら告げた。堀も頷き同意する。佐々倉と堀はビッドル来航時にその応接掛をしていたので、今回の強硬なアメリカ船の姿勢にはいっそう不信感を抱いていた。
「それに、気になるのはやはりあの武装。パクサンズ砲などをもってして来るとは……」
佐々倉は誰にも聞こえないほどの小さな声で、それと同時に誰にでもなく呟いた。
軍艦兵器にも通ずる所がある佐々倉桐太郎は、一八六〇年(安政七年)の咸臨丸の訪米の折に、運用方兼鉄砲方として勝麟太郎(かつりんたろう)に随行している。その後も軍艦操練所教授方頭取、御軍艦頭取、海軍所頭取などを経て、幕府海軍の指導に当たる事になる。
近藤が落ち着かない様子で口を開いた。
「向こうは国書を渡したがっている、と?」
「はい」
「どちらにしても浦賀では受け取れん。やはり長崎の方へ向かってもらわなくては。ここで受け取ってしまっては幕府の政事そのものに反してしまう。我が国における異国との折衝の場は長崎のみ」
「だが、連中にもう一度問い直してみても、素直に聞き入れるかどうか」
「相当、意固地になっているからな」
「と申しても、我々にも面目というものがある」
「しかし、連中に無理強いさせるのも危ぶまれる。相手の装備を見てみろ」
「その通り」
喧々諤々(けんけんがくがく)の議論の間、暫時沈黙していた戸田は瞠目すると、徐にそう一言切るように告げた。
「何があっても戦だけは避けねばならない。そして、今我々が置かれている状況は椿事に及び、かつてない緊張下にもさらされている、と申しても過言ではない。熟慮と慎重を踏まえて善後策を講じねばならぬのは、至極当然。これからの浦賀奉行所の出方次第で、幕府の外交がひどく変わっていくのかも知れないのだ。よって失策は許されない」
一同は手の内を合わせたように一斉に頷いた。
「これからの交渉は駆け引きが巧みな、香山を中心に進めたいと思う。異存はないか?」
戸田の曇りない一言。香山の背筋に悪寒が走った。
「確かに口が達者な香山君なら適任ではないか」
中島が相槌する。戸田は自らの大きな額を、一度中指で擦ると香山を凝視し、
「どうだ、香山?」
と声を低くして尋ねた。香山も戸田の目を見据え、黙って会釈で返した。香山は体内で徐々に血流が激しく波打つのを感じ始めた。
その日の深夜。
南西の夜空に、楔形の赤い尾を引く、青い彗星が流れた。その奇妙な流星が放つ青い光が艦隊を一瞬包んだ。
〈古代人ならば、この驚くべき天界の現象を、明るい前途を約束する吉兆と解しただろう。特異かつ半野蛮の国を文明諸国の仲間に迎えようとする我々の企てが、流血を見ることなく成功するよう神の加護を祈りたい〉
ペリーは自らの遠征日記に記している。けだし海を渡ったカウボーイは、牧牛よりも品位が劣る野武士を啓蒙しに来た、という少なからず驕慢で恣意的な使命感に満ちている事は想像に難くない。鞘から刀を抜くのを躊躇している野武士に対して、カウボーイはレミントン・リボルバーで狙いを定める。そんな手段を講じながら。
*
翌四日の朝五つ(午前七時頃)、赤い目を擦りながら押送船(おしょくりぶね)に乗って艦隊に向かっている香山栄左衛門の姿があった。舟は二艇ついており、香山の他には通詞の堀達之助、さらにもう一人の通詞、その他の与力を含め計六人がそれぞれ乗り込んでいる。
「眠れましたか、香山さん」
「いや、あまり」
堀の質問に香山は言葉少なに返した。朝方の涼しい頃、穏やかな波に揺られるという舟という環境。寝不足の香山にとって現在置かれている状況は、十分に睡魔を起こす誘因となる。何度か頬を手の平で張り、香山はどうにか眠気を追い払った。
「大丈夫ですか、香山さん。疲れた顔をしていますよ」
まるでこの世の終わりのような容貌をしている香山。ただ単純に寝不足というよりは、憔悴しきった顔をしている。
「うむ、何せ大役だからね。緊張して」
「しっかりして下さいよ。相手に弱い所を見せたら余計付け上がらせてしまいますからね。毅然とした態度で交渉に臨まないと、香山奉行」
堀はいたずらっぽく笑って言った。香山もつられて笑みをこぼし、
「奉行、か」
と呟くと、金と銀の刺繍を施した、自らには相応し難い奢侈な絹の着物の袖口を軽くのばした。
香山は交渉するにあたり、奉行という触れ込みで臨もうとしている。無論、香山は与力であるので奉行という役職は偽装である。だが、相手側が最高位の役人としか話し合わないと言っている以上、昨日中島三郎助が副奉行と偽ったのと同じく、やはり香山も同じ手段をして奉行と名乗らざるをえなかった。
やがて香山たちを乗せた二艇の小舟は交渉場所となる、アメリカ艦の旗艦であるサスケハナ号に到着した。昨日から見慣れている黒船ではあるが、いざこれから交渉に向かうとなると、よりいっそう暗色の威圧感が香山に伝わってきた。
『尻の穴を引き締めていけ』
内心、カツを入れ香山は船に乗り込んだ。
最高位の役人を希望していたアメリカ側。とはいえ浦賀奉行が誰であるかは特定できる事はなく、仮装奉行の香山は自称するのみで、特に疑いの目はかけられず船室へと通された。また、対応するアメリカ側も相手が奉行という事なので、昨日のコンティ大尉と通訳のポートマンに加え、さらに上官である艦長のブキャナン中佐、及び参謀長のアダムス中佐が現れた。だが、決してペリーが姿を見せる事はなかった。浦賀奉行クラスでは自らが表立って現れる事はできない。あくまで自分が交渉するのは日本政府。つまり徳川幕府であるから、幕府の代表でなければ自分は交渉しない。ペリーにとって今回の来日に際するパワー・ゲームは慎重を期する。不用意に姿を見せる事は権威に関わるのである。
ブキャナンの船室に通された香山たちがイスに腰をかけると、床に敷かれた赤絨毯やさり気なく宝飾されたテーブルなどに、彼らが目移りする暇を与えずに交渉が始まった。話の争点は、アメリカ船は直ちに長崎へ回航せよ、である。
「昨日も申し上げましたが、我が国の異国応接の場は長崎のみとなっているので、ここ浦賀では国書は受け取れないのです。例えここで受け取ったとしても、返答は長崎に送られてしまいます。ですから長崎へ廻っていただきたい」
香山は物腰柔らかく、丁寧な口調でブキャナンに問いかける。通詞の堀もポートマンを介して、緊張した面持ちで言葉を探り探り慎重に訳す。だが、ブキャナンは居丈高に、
「提督(ペリー)は長崎に行くつもりはない。そもそも今回我々が浦賀に来航する事は書面をもって昨年中に日本政府(幕府)に通達していたこと。さらに我々はあくまでもフィルモア大統領の命令に従っているので、長崎に行く事は大統領の命令にはないので従えない。浦賀で国書を受け取れないのであれば、我々が江戸へ直接赴き日本国皇帝に渡すのみ」
と述べた。随分と横柄な言い様であったが、香山は「浦賀に来航する事は書面をもって昨年中に通達していた」と訳した言葉を聞き、首を傾げた。注意深く香山は再び堀に尋ねたが、帰ってくる台詞は一緒だった。
『来航する事は予め書類によって報せておいた、だと? もし彼らの言葉が真実だとしたら、私が聞いた報告は虚偽になってしまうが……まさかな』
定めし、アメリカ側の二枚舌であろう。香山はその時はそう踏んだ。
「とにかくここ浦賀では国書を受け取っても……」
気持ちを切り替え、再び長崎への回航の嘆願を香山は始めたが、ブキャナンは一向に首を縦に振らない。相変わらず頑なな態度のアメリカ側に対して香山は苛立ちを隠せず、
「しかるにどうして国書一枚を届ける為だけに、わざわざ軍艦四隻を率いて来航された。おおよそ親善的な態度には見えないものだが」
思わず語気を強めて言う。ブキャナンは通訳のポートマンとしばらく目を合わせ、
「日本国皇帝へ敬意の念を表するためだ」
と短く伝えた。
『何が敬意の念だ。こんな砲艦外交まがいなやり方で』
香山は底意に熱を帯びつつも、これ以上ゴリ押しには話は進められない雰囲気を察していた。相手に譲歩する気配はない。かといって自分たちの側が、話にならぬ、と一蹴してこの場を立ち去る事はできない。一触即発の状態を避ける為にも、この場からこちらが折れなければならない。香山は汗ばむ拳を握り締めながら思慮する。
「分かりました。ですが国書の受け取りに関しては、江戸の方に赴き意見をうかがわないといけないので、四日ぐらいの日数がかかりすぐに判断はできませんが」
香山にとっては妥協案。一方、ブキャナンは口元を軽く緩める。そして、何も答える事無く船室を出た。香山は堀と目を合わせると憮然とした表情をした。しばらくしてブキャナンは戻って来ると開口一番、
「提督は四日も待てないと言っている。待つことができて、せめて三日。また、もし日本政府が適当な人物をよこさず、国書の受け取りを拒否した場合、我々の方から直接江戸に向かう事になるであろう。その際生じる軋轢の如何には、我々は一切関知しない」
とその青い目をして鋭く告げた。
『軋轢の如何、か。いざとなったら武力をもって侵攻するということか』
香山は眉間に皺を寄せて、ブキャナンを睥睨(へいげい)した。ブキャナンもけだし香山が青筋を立てる事は予期していたらしく、薄笑いを浮かべ余裕をもって接した。香山はさらに眉を引きつらせながら、
「分かりました。あと一つ尋ねたい事があるのですが、小舟(ボート)が沖周りをしきりに動いているのですが、何をやられているのか?」
と質問した。確かにサスケハナ号の周りで、武装したボートが不審な行動を取っている。
「この湾内を測量しているのだ」
ブキャナンは即答する。
「測量? そんな勝手な行動は止めて頂きたい。我が国ではそのような行為は認められていない」
と香山。だが、例の如く反論空しく、
「それは日本の法律。我々はあくまでアメリカの法律に従っているだけ」
と言い切られた。
『万が一戦になった時、浦賀沖の規模を測っておいた方が有効になる。これもまた暗に威圧を与えるための行為か』
テーブルの上を叩きたい衝動に香山は駆られたが何とか抑えた。暫くの無言の後、
「……薪水の補給の要求はありませんか」
と香山が歯軋りしながら尋ねると、ブキャナンは葉巻を取り出して火をつけた。悠々と煙を吐くと、
「一切必要ない。我々には全て揃っている。我々が望んでいるのは国書の受理だけだ」
あしらうようにそう言い放った。香山は反射的に体を前に押し出したが、頬の肉を震わせて立ち止まりすぐに退いた。そんな香山の姿に対してブキャナンは嬲るような視線を送り、ポートワインの香りにも似た葉巻の煙を再度吐き出した。
*
同日の昼八つ(午後二時頃)、香山は同心組頭の福西源兵衛(ふくにしげんべえ)を率いて、浦賀より船を出し、戸田の指示のもと江戸へと向かっていた。幕府の方に直接相談するためである。
蒸し暑い初夏の午後。二人の首筋には否応なく汗が流れる。
『解せぬ』
腕を組みながら思案する香山。強張った表情は相変わらずであったが、先ほどの会談の最中ほど苛立ちはなく冷静さを取り戻していた。
『まず気になるのはアメリカ側のあの高圧的な態度』
蛮国である日本を敢えて圧する事で、文明国のアメリカが威厳を示す。それはペリーの今次の来日外交の基本姿勢である。香山が国書の返答に四日の猶予が欲しい、と言ったにも関わらず、三日しか待てないと言ったアメリカ側の行為を見ても端的にそれは表されている。
『あの高慢な態度は連中の策か? だが、ただ不用意に強気に出てきても、説得力が乏しい。となるとアメリカ側が申した、浦賀に来る事は去年中に通達していた、という台詞が妙に気になってくる』
アメリカ側の礼を失する態度への怒りが、徐々に幕府への疑心へ変わってきた。横にいる福西は、顔に険ばかりを増やす香山を見て、とても談話する状態ではない、と思いずっと黙っていた。
『いや、憶測を気にしていたらキリがあるまい。私に課せられた仕事は異国船の即時撤去だ。余計な事を考えるのはよそう。我が国を脅かす火の粉を追い払うのみ。この国を狙う外夷を退かせるのみ』
香山は頬に垂れる汗を拭うと、そのように納得し一つの節目とした。
確かにアメリカに狙われた日本は、アメリカを脅威とみなしている。だが、アメリカからすれば本来の狙いは日本ではなく、その矛先は清。つまり、中国であったといえる部分が大きかった。
当時、資本主義のトップを走り続けていたのは、綿工業を産業の軸にしているイギリス。市場拡大を図るイギリスはその範囲をアジアに延ばし、その最大の市場がアヘン戦争で門戸を強引に開放した中国であった。だが、イギリスに先鞭をつけられたアメリカも十九世紀前半から中頃にかけて産業革命が進行し、綿工業の急速な発展が好調を示すと同時に、その工業生産高で他国を大きく引き離し、イギリスに次ぐ勢いにあった。その結果、自ずとアメリカもアジア市場への進出を図り始める。以前よりアメリカも中国に対しては毛皮や諸金属の輸出を行っていたが、綿工業の急激な成長に伴い、綿製品の輸出市場として中国はその色合いが濃くなってきた。ただしイギリスを筆頭に欧州列強による帝国主義的外交では、原産物である生糸や綿を列強国側が発展途上国から輸入し、それらを加工し半ば強引にアジアやアフリカ諸国に輸出する、つまり強制的に売りつける、という強硬貿易をしていたため、輸出された国側としては自国の生産物の物価上昇につながり、不況に見舞われる事態に陥った例も少なくない。
だが、そんな相手国の悪化する経済事情など顧みず、イギリス及びヨーロッパに負けじと気を張るアメリカ。
そこで目をつけられたのが日本である。
アメリカは一八四八年(嘉永元年)の米墨戦争(アメリカとメキシコ戦争)の際、その戦争の勝利によって相手国であるメキシコからカリフォルニアを譲り受けている。さらに西部開拓の折、その米墨戦争で得たカリフォルニアでは金鉱が見つかり、空前のゴールドラッシュが始まる。このカリフォルニアこと西海岸から太平洋を臨む日本の地理的状況を鑑みると、中国との往来に際する補給などに要する寄港地として日本は最適であった。
そして、もう一つ大きな要因として、当時アメリカは綿工業と共に捕鯨業が盛んであり(照明などに使う鯨油を得るため乱獲に近い行為をしていた)、漁場拡大及び捕鯨船の停泊地として、日本の位置はアメリカ側としては地政学的に有用性を見出す事ができる。
しかし、やはり中国との市場の密に対する機能としての部分の方が、アメリカにとっての日本に対する需要は高かった。
当時イギリスは市場として日本を高く評価しておらず、中国に貿易を大きくシフトしていた。イギリスは中国ほど日本の市場に対して期待はしていなかった。ゆくゆくはイギリスも日本に交易を求めて来るのだが、それを横目に先にアメリカが日本に接触を求めてきた。日本とアメリカとの当初の通商的図式は、鎖国開放による市場の拡大および近代貿易。だが、その実は傍らに存在する「眠れる獅子」こと中国との交易だった、という二段階式の通商になる。一方、もしこの時、世界の工場としてリーダー・シップを取っていたイギリスが、アメリカよりも早く日本と通商を結んでいれば、今日の日本の外交も大きく変わっていたかも知れない。
「いずれにせよ、江戸へ到着すれば分かる事だろう」
香山は呟いた。福西はそれが独り言なのか、自分に問いかけられた発言なのかは分からず、曖昧に相槌を打って誤魔化した。
夕七つ(午後五時頃)。香山と福西は江戸へ到着し、江戸在府の浦賀奉行、井戸石見守弘道(いどいわみのかみひろみち)に戸田からの報告を伝達していた。浦賀奉行所では浦賀と江戸、各地に二人の奉行制を導入している。浦賀で勤務しているのが戸田で、江戸で勤務しているのが井戸である。
「成る程、アメリカの脅しに屈して国書を受け取ってしまえば、今後の幕府の外交ないし、それこそアメリカとの関係についても多大な影響を及ぼしかねない。とはいえ無下にアメリカ船を追い払うことは、現状からすれば危うく、平穏の取り計らいを考えていきたい、か」
井戸は香山からの報告を聞き、ただでさえ皺の多いその顔に対してさらに皺を増やし、困惑した表情で考え込んだ。
「アメリカの連中はどのような態度だ?」
「かなり強気な姿勢を見せています。それにやたらと高圧的な交渉をしてきます」
井戸は唇を尖らせ、一人頷きながら、
「そうか、やはりな」
と呟いた。
「やはり?」
香山は井戸がさり気なく漏らした台詞に引っかかった。すると訝しい表情をする香山に井戸は気づき、
「ん? いや……」
と答えて言葉を濁らせた。香山は釈然としない井戸の態度が気にかかり、神妙な面持ちをして井戸に尋ねた。
「奉行。実はアメリカ船の艦長が、自分たちが今年浦賀に来航する事は去年の内に通達しておいた、と申していたのですが、心当たりはありませんか?」
「…………」
井戸はしばらく黙り込み、香山から視線を逸らした。
「奉行?」
香山は井戸の顔を覗き込むように再度詰問する。たまらず井戸も口を開いた。
「連中が、そう申していたのか?」
「はい」
「そう、か」
井戸は膝をピシャリと叩き、
「実はな、確かにそのような報告は去年の内に老中から頂いていた」
と淡々と答えた。その瞬間、香山の目は遠くを見るような視線になった。一方、驚嘆した様子は窺えない。
「確かに私もそのような噂は聞いておりました。けれども風説書の写しをお渡し頂いた時には、アメリカ船の来航はない、とおっしゃられたじゃないですか」
香山は抑制をきかせた声ながらも、鋭い口調で井戸に問いかけた。井戸は唾を大きく飲み込むと、
「そうではあるが、当時得た情報ではアメリカ船は弥生(三月)、もしくは卯月(四月)に来航するとの事だったのだ。まさか今になってやって来るとは思わず……それに何分不確かな情報であったのも事実であるし」
しどろもどろしながら言葉を返した。香山はしばらく黙って井戸を見つめた。ただ焦り当惑した表情を浮かべる井戸の姿を見て、香山は救われ難い気持ちに襲われた。
香山は両拳を握り締めながら、
「とはいえ異国船の来航はない、と申される事はなかったのではないですか。つまり、アメリカ船の艦長が申した話は、事実だったという事でしょう。これでは私はいい面汚しです。それにそのような報せがあったならば、その事実を予めおっしゃって頂ければ、しっかりと対策を練る事もできたはず。我々にそれらの事を内密していたのは実に……実に嘆かわしく、あさましき事かと……」
と目に涙を浮かべ、臆面もなく鼻水を垂らし、声を吃らせながら吐いた。さらに台詞の最後は声を詰まらせて言い切れなかった。その表情には悔吝(かいりん)の念が籠っている。自らは浦賀奉行、ひいては幕府の為に最善を尽くし交渉をしようとした。それは与力、奉行、幕府の主従の信頼関係の礎に殉じての事である。だが、上層部は全ての情報を開示せず、いざ黒船が来航したら、素知らぬ顔で香山ら一役人に交渉事を放任している。
信用されていない事への自責、一方で無責任な幕府への憤慨。同時に黒船と幕府、両方の側からコケにされているような感覚に香山は襲われた。香山の頭の中で複雑な思いが募り、交差していく。
だが、香山に恨めしく見つめられている井戸の方に全ての非があるとはいえない。実際、ペリー来航の情報が上意下達した経緯には不透明さがあり、そのために井戸奉行自身もどのように手立てをしてよいものか、考えあぐねる結果になってしまったのである。
事実として黒船来航は突然の出来事ではなく、その予告情報は既に一年前の一八五二年(嘉永五年)の六月の時点で、出島に入港したオランダ船が提出した別段風説書によって長崎奉行にもたらされていた。だが、事が重大なだけに長崎奉行は緘口令(かんこうれい)を敷き、オランダ通詞にも風説書の写しを持ち出す事を禁じた。これまでの別段風説書とは異例の扱いである。しばらくして長崎で得られたアメリカ船の来航予告情報は江戸の幕府へ伝わるのだが、ここでの幕府の対応がまた曖昧で、まったくの誤報であるとか、オランダが自国の国益を守るために謀った虚偽報告であるとか、様々な憶測が飛び確固たる対策を講じなかった。ペリー来航の報告は虚説である、という雰囲気が幕府内で支配的となる一方で、老中の阿部正弘(あべまさひろ)だけは備えあれば憂いなしという算段で、海防掛に海防強化の案を説いていた。しかし、信頼性の薄い情報だけで、予算がかかる海防強化をするのはできない、と勘定所の批判もあり、何の手立ても練られず運命の日に至ってしまった。そして、誤報云々の思惑も叶わず、結局は四隻の黒船はやって来てしまったのである。
「……とにかく今晩は江戸にて一泊せよ。おそらく明日までには国書を受理するか否かの幕府の評議の結論が出ているだろう。明日、お主は評議の結果を携えて浦賀に戻るがよい」
井戸はなだめるように香山に告げた。香山は鼻をすすると無言で気持ち頭を下げた。傍らにいる福西は香山の形だけの平伏を補うかのように大げさに頭を垂れ、やがて二人は退室した。
「…………」
やつれた表情をして無言のまま歩き続ける香山。横にいる福西は気まずそうな面持ちでいる。福西は息苦しい状況を打破するために、
「どうです香山さん、気分を変えて吉原で豪遊でも」
と敢えて声を張って言ってみた。だが、香山は無反応。
「……する気分ではないですよね」
徐々に声を下げながら、福西は申し訳なそうに呟いた。とその時、香山は双瞳(そうしょう)を前方に見据えて、
「私はね、福西君。十年、与力を今まで十年勤めてきたのだ。その間に色々な事があった。異国船の来航はもちろん、新しい台場の建設や、浦賀屋形浦の火事に見舞われた事もあった。その都度私は与力として全力を尽くし、その場の問題にぶつかっていった。少なくとも私はそう自負している。そう、浦賀奉行や幕府を支えていく一念で。その気持ちは今でも変わらないよ」
淡々と、そして、滔々と語った。
「……香山さん」
「私は与力として承った役目を全うするのみ、だよ。だが、今は息抜きをしたい気分だ。遊郭へ顔を出すのも悪くないだろう」
香山のその台詞を聞くと、福西は自然と莞爾(かんじ)した。
『一時的な感情の揺さぶりに流されては、一人前の与力とはいえまい』
己を律する香山。その心の奥底にはやはり同じく与力だった、香山堅兵衛(かやまけんべえ)という養父の後ろ姿が鮮やかに映っていた。
*
翌五日。江戸城では老中の阿部正弘を筆頭に、大目付や目付ら重臣たちによる評議が行われていた。だが、結局国書の受け渡しの可否についての結論は出なかった。ペリー側からの返答期日は迫っているが、とにかくその時間稼ぎがしたいというのが幕府の評議の本音だった。井戸はその結果を香山に報せると、
「浦賀の方もお主が戻らぬと心配だろうから、香山は本日の内に浦賀に戻れ。こちらには福西を残し、評議の結果の下知(げじ)は福西が後で伝える」
実際、香山も浦賀の状況が気になっていたので、なかなか出ない結論にやきもきしているよりも、浦賀に戻る方が良いと考えていた。
『今頃アメリカ船は何をやらかしているのか』
だが、香山のそんな憂慮を他所に、前日のアメリカ船は浦賀の港や入り江の測量に精を出していたものの、六月五日の今日は西暦では七月十日の日曜日。つまりキリスト教の安息日にあたるもので、作業は一時中断され船上で礼拝が行われているだけだった。また当日、通詞の堀達之助と立石得十郎(たていしとくじゅうろう)が情報収集のためサスケハナ号に接近したが、無下に追い返された。ペリーらは幕府が国書を受け取るという意思表示を見せるまで、決して堅牢な態度を崩そうとはしなかった。
香山が福西を江戸に残し浦賀に到着したのは翌六日であった。到着するとすぐに香山は奉行の戸田伊豆守氏栄に江戸での報告を行った。
「そうか、結局返答は出ぬままか」
戸田はしばらく唸った後、目を瞑りながら口を開いた。
「はい。現地にいる我々に時間稼ぎをしてほしい、との事です」
「アメリカ側が定めた返答期日が明日までだというのに難儀な事を押し付ける」
苦笑する戸田。
「ところでアメリカ船の動向はどうですか?」
「うむ、それが芳しくない。昨日はどういうわけか静かだったので安心していたのだが、今日の早朝からいきなり測量をまた始めおった。連中はさらに奥深く湾内に進もうとしている」
「何と……」
戸田は咳払いすると、
「そこで旅の疲れを癒せぬままですまぬが、またアメリカ連中との交渉をしてもらえんか、香山」
「分かりました」
香山は躊躇なく即答した。
「すまんな。ただ向こうは国書の受け渡しについての報せ以外は聞く耳を持たんようになっている。手強いぞ」
香山は軽く会釈すると、
「承知しました」
と言ってすっと立ち上がった。戸田は歩み去っていく香山の後ろ姿を眺めながら、香山に表情がなく態度もやたらとさばさばしている事が妙に気になった。疲れが残っているのだろう。戸田はそう得心した。
香山は、自分が黒船来航の予告を上層部が隠蔽していた事実を知ってしまった件までは、戸田に報せていなかった……。
香山は通詞の堀達之助を従えて、直ちに旗艦サスケハナ号へ向かった。
「アメリカ船がさらに入り江の奥に進もうとしています。連中は本当にこのまま江戸に進攻しようと考えているのですかね」
サスケハナ号へ向かう途中、舟上で立ち尽くす香山の後ろ姿を見つめながら、堀は尋ねた。事実、ミシシッピ号が湾内の奥深くへと侵入している。それは今までの異国船がまだ踏み入れていない領域にも達していた。
「まさか、な」
香山は淡々と力なく呟いた。堀は内心、どうしてそう思われるのですか? と尋ねたかったが、それは止めた。香山の目は精気を失っており、疲労困憊しているのがあからさまだったからだ。これからの香山の事情を考えると、これ以上の煩わしい問いは止めるべき、と堀は判断した。実際、香山は連日の激務と緊張で、肉体的にも精神的にもまいっていた。
『この任は必ず最後まで果たす』
その一念をもってして香山は己を奮い立たせている。だが、疲弊しきっているとはいえ、ただ希望的観測のみで容易に堀の質問に答えたわけでない。香山はアメリカとの交渉に際して、幕府と浦賀奉行を行き来する間に、アメリカ側の意図が徐々に見え始めていた。
『おそらく連中は口先だけで無茶はしない。少なくとも国書の返答が来るまでは江戸へ攻め込むことなどありえない。連中は我々に対して威嚇を行っているだけだ。国書の内容が開国要求に関するものだったら尚更だ。いたずらに寄港地を傷つけたくはあるまい』
香山はそう読んでいた。事実、ペリーも「軍艦をさらに奥深く湾内に進める事により、日本政府を刺激して、より良い回答を出すように促す」と遠征日記に記している。
『だが……』
香山の眼前にサスケハナ号が見え始めた。その様相はまさしく黒き巨艦に相応しい。
『だが、今はまだ幕府の評議で回答を考えあぐねているが、その結論は既に決まっているであろう』
サスケハナ号の船首や船尾に配備された大砲を眺めながら、香山は感慨深く思った。
国書の受領の可否の回答ではないとはいえ、何とかサスケハナ号に香山と堀は乗り込むことはできた。だが、アメリカ側からすれば無駄な交渉と思われているので、二人は冷遇され。また要求も当初はけんもほろろに突っぱねられるだけだった。
「何故、かの蒸気艦(ミシシッピ号)が測量艇を伴って江戸湾へ北上するのか?」
香山は冷静に問う。
「別に他意はありません。ただ万が一に日本側が我々の書簡を受けとらない場合、こちらとしては強引にでも江戸へ向かって渡さなければならないのですよ。その時のために予め海底や入り江の測量を行っているだけです」
ポートマンが香山の質問を訳した後、参謀長のアダムスは丁寧に答えた。だが、その言い方はブキャナンよりも高圧的ではない分、嘲笑の気配が毒々しく香山には窺えた。あからさまな威嚇行為の発言ではあるが、香山は焦る事なく滔々と言葉を返した。
「先日も申し上げたが、勝手な測量は……」
「こちらも過日に言いましたが、我々は我々の法に従っているのです。測量それ自体を行う事は何の問題もないのです」
ポートマンと堀はアダムスが香山の台詞を遮って、勝手に喋り始めたので、お互いまくし立てながら早口で訳した。香山は特に苛立った顔も見せず、アダムスの見下ろした視線を確認すると、無表情で堀に向かって頷いた。
「それにもし今回の来航目的が達成しなければ、我々は来春、ますますの兵力を保持して日本に戻って来なければなりません。浦賀沖では安全な投錨地が確保できないので、江戸により近い場所を望んでいるのですよ」
アダムスの今の発言は、来年の一八五四年(安政元年)に結ばれる事になる、日米和親条約を想定しての意味を含んでいた。
『来春に再度来航する、だと』
表情には出さなかったが、内心、香山は意表をつかれた。と同時に最早日本は鎖国を解き、アメリカとの国交を結ぶのは避けられぬ事態になる、と自覚した。
「なるほど」
香山は平静を装いつつ呟いた。そして、しばらく黙り込んだ。香山が黙ってしまい困惑した堀は、香山とアダムスの顔を交互に視線を動かして所在無く見つめた。その間、アダムスは唇をしきりに舐め、さらに時折鼻で息を吐いていた。
「……とはいえ、まだこちらも国書を受け取らないとは申していまい。にもかかわらず我が国の法を守らないのはいかがなものか。これ以上我々を、ひいてはこの浦賀沖を蹂躙するのならば、こちらも黙ってはいない。その覚悟はおありか?」
怒鳴り声ではないが、低い声でドスを効かせて香山は告げた。さらにここで初めて香山は表情を一変させた。眉間に出きるだけ皺を寄せ、目を細めるだけ細めて、上目遣いでアダムスを睨みつける香山。瞬き一つせずアダムスの目を己の目に焼き付ける。唇を噛み締める。首筋に血管を浮き立たせる。
その迫力に隣にいた堀もおぼつかない通訳になってしまった。だが、訳された意味を半分も理解していないにもかかわらず、アダムスは思わずたじろいだ。隣にいるポートマンも物怖じした様子だった。
「私もあなた方の要求には最善を尽くして邁進するが、あなた方もそれ相応の対応を見せて欲しい。今それに応えるという事は蒸気艦の退去をして他にない。これ以上の進攻は許すべき行為ではない」
アダムスは睨みつけてくる香山からの視線を逸らし、目を香山が腰帯に携えている刀の方に向けた。すると喉仏の隆起以上に唾を飲み込み、
「イ、 イエス」
とただ一言漏らした。疲労で思いがけなくも培ってしまった目の下の隈が、香山が醸し出している異様な強面に相乗効果をもたらし、また眼精疲労し充血した目も同じく迫力を増させていた。その目をして香山はしばらくアダムスを見据えた。アダムスは目の前の小柄な日本人によって、自らの背中に脂汗をかかされている事に気づいた。そして、未開人風情が何を! と虚勢を張るのと同時に、自分たちが交渉している相手は、武と義を重んじるサムライである事を認め始めた。
*
翌七日。国書受理の返答期日。
江戸に在留していた同心の福西源兵衛が、浦賀にその回答を携えて戻ってきた。そして、泥のように眠っていた香山が起床一番に奉行所で聞いた報告は、親書を受け取る、との事だった。
「そうか」
分かっていた答えであった。だが、いざその報せを聞くと香山は、改めて深い溜め息をついた。
「変わる、な」
傍らにいた戸田は何気なしに呟いた。香山の側にいる中島三郎助はいまだ煮え切らない表情をしていたが、奥歯を歯軋りしつつも幕府が出した回答を真摯に受け止めた。
そして、このアメリカからの国書を受け取るという決定は、鎖国という時局の終止符を打つ事を意味していた。
幕閣がその回答を出したのは前日の真夜中であった。期日限界まで評議はしていたが、老中の阿部正弘以下、三奉行と海防掛の間では既に国書受理の合意は達していた。攘夷を推す水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)が最後まで反論していたものの、阿部と親密である福井藩主の松平慶永(まつだいらよしなが)の賛成をもって、結局アメリカ側の意見を汲む事に決定した。ただ幕府としては、「親書は浦賀付近で受け取るが、回答は長崎でオランダ人の長、もしくは清国人(中国人)の長を通じて伝達する」という姿勢を持っている。つまり、一刻も早く江戸の近くから黒船を退帆させたいのである。だが、国書を受け取るとはいえ、長崎で回答を出すという幕府側の考えが、ペリーの意に反しているのは変わらなかった。
兎に角、これで交渉が進展しそうだ。香山はそう思案した。
朝四つ(午前十時頃)。
香山は通詞や同心らを伴って意気揚々とサスケハナ号へ向かい、ブキャナンとアダムスと会見した。だが、
~我々は長崎での回答を欲していない。さらにオランダ人やシナ人(中国人)を通じての受け取りも拒否する。我々は江戸で直接返事を受ける事を望んでいる。また、皇帝(将軍)にあてた大統領からの友好的な書簡が受領されず、しかるべき回答が与えられないならば、我々ひいてはアメリカを侮辱されたものとみなす。そして、我々は浦賀付近の地以外では回答を受け取るつもりはない~
という内容のメモを香山は受け取った。ペリーは相変わらず姿を現さないが、その手書きはペリーが記したものだった。
今まで外国船は長崎のみで外交を行ってきた。そして、その旧態依然の慣習を打破するためにペリーはここでも譲歩する事はなかった。ペリーにはアメリカの威厳を保つと同時に、閉鎖的な日本という国を変えるという理念がある。ペリーは国書を受理するという成果のみに溺れず、自らのその構想を貫徹させ妥協する事はなかった。だが、その徹底性まで摑みきれていない香山は、いまいちアメリカ側の真意が理解できないでいた。今までの高圧的な態度は駆け引きの手段である事は分かってはいたつもりだが、ここまで相手が譲らないとなると、果たして何処までが駆け引きなのか。それとも単なる嫌がらせなのか区別できなくなってきた。
国書を受け取る。
答えは出たのでこれで交渉は終わると睨んでいた香山だったが、アメリカ側は長崎での回答を拒絶したので、結局は浦賀奉行とサスケハナ号を再び何度も行き来する羽目になった。
『私は幕府とアメリカの両方に踊らされているのだろうな』
香山は自嘲する。だが、黒船を退去させるのみ、とたた単純に自らに課していたその使命への考えも甘かったと悔いていた。
『アメリカ船を避けるのみ、という簡単な話ではなかった。これからの日本というものが、大きく変革する一大事であったな。我ながら認識力が足りなかった』
自分は与力である。香山はよりいっそう己の責務を覚えた。
陸と海。香山が行った何度かの往来の結果、久里浜海岸で明後日の九日に国書の授与式が行われる事が決定した。香山はその旨を伝えに通詞の堀達之助を伴いサスケハナ号へ向かった。時刻は既に夕七つ(午後五時頃)を回っている。
案の如くブキャナンの船室に通された香山たち。そこではブキャナンが一人、テーブルの側にウィスキーのボトルとグラスを置き、椅子に深く座っていた。また船窓から夕焼けによって茜色に染まる浦賀の海を、その青い瞳で黙って眺めていた。香山は久里浜で国書の授与を明後日に行う事を告げたが、ブキャナンは一瞥して小さく頷いただけだった。
『愛想のないのはいつもの事だが、ようやっと国書の受け取りの日取りが決まったのだから、少しぐらいは喜んでもいいだろうに』
香山は、事の重大さの認識にブキャナンと自分とでは格差があるのではないか? と察したが、それ以上問い詰める事はなく一礼して去ろうとした。
「Hey」
香山と堀が去ろうとした時、ブキャナンが不意に声をかけた。香山が振り返るとブキャナンはウィスキーの入ったグラスを手に持ち佇んでいた。ブキャナンはしばらく香山を見つめると、グラスに半分ほど残っていたウィスキーを一気に飲み干した。そして、再びグラスにウィスキーを注ぐと、黙って香山の方に差し出した。香山は一瞬だけ眉に皺を寄せると、ブキャナンの顔を窺った。ブキャナンはグラスを差し出したまま、顔色一つ変えていない。それは香山が交渉の際に見ていた、普段と変わらない何時もの彫りの深い異国人の顔。
だが、その手には洋酒を差し出している。
『この男もやり遂げるべき仕事を果たすために、長い航海を経てきたのだな』
香山は一度視線を床に落とすと、次に真っ直ぐとブキャナンの目を見てグラスを受け取った。側にいた堀は僅かに肩をすくめた。
「さんくす」
短くもたどたどしい声で香山は言い放った。香山の慣れない英語に堀は思わず笑いそうになり、咄嗟に顔を下に向けた。
香山はグラスを揺らすと、
『この洋酒、夕焼けに映える浦賀の水面の色に似ている』
船窓から覗ける景色を見ながら、香山はウィスキーをゆっくりと喉に通しつつ、感慨深げにその気持ちに浸った。
夜五つ(午後八時頃)。
月明かりの下、香山は中島とともに浜辺で佇んでいた。香山のその両の眼には浜辺で焚かれる篝火が映っている。夜に紛れて揺れるその炎が何処か神秘的に香山は感じる。
『いつもと変わらぬ火の色だというのに奇妙なものだ』
湿気に満ちた潮風が香山の頬や腋に若干の汗をもたらすが、特に不快な印象は持たなかった。
『今年は暑くなりそうだ』
香山は思う。そして、自分自身がある程度の充足感に満ちている事にも気づいた。国書を受け取るという、結果の如何には賛否があるにせよ、一つの節目はつけられたのではないか。また、戦に発展するような最悪の事態は避けられ、アメリカと幕府の緩衝材として微力ながらも任務はこなせたのではないか、とも。
香山の顔にはうっすらと無精髭が見えるものの、幾分晴れた様子が窺える。
「井戸奉行も式当日には来るそうだ」
「そうですか」
中島は海を眺めながら香山に話しかけ、香山は穏やかな浦賀沖の漣に目を凝らしつつ答えた。潮騒に耳を傾けている両者の間で交わされる言葉は少ない。互いの沈黙の間、緩やかに刻(とき)は流れていく。
「義兄(にい)さん」
不意に香山は呟いた。香山は岡田定十郎(おかださだじゅうろう)の三女のきん子と結婚しており、きん子の姉のすずは中島に嫁いでいるので、二人は義兄弟の間柄なのである。
「戸田奉行が申された通り、これから変わりますかね?」
「どうだろう。なるようになるのではないか」
「なるようになる、か。そうでしょうね」
「それにしても香山君。今回は大儀であったな。よく働いたものだ」
「まだ終わっていませんよ。これから大事な式があります。黒船が浦賀から出て行くまで気は抜けません」
香山は着物の襟を直しながら答えた。
「ま、まあ、そうだな」
中島は香山の真摯な迫力に圧倒されつつも、気まずそうに咳をして誤魔化し、さらに一人頷きながら、
「そうだ、そうだ。久里浜の式では奴もようやっと姿を見せるだろうな」
と告げた。
「奴?」
「黒船連中の長のことだよ。名前は確か……」
「ペリーのことですか。東インド艦隊司令長官のマシュー・カルブレイス・ペリー……」
と自分自身確かめるように話した香山だったが、語尾の方は呟くような言い様になってしまった。ペリーの名を言いながら、ペリーがどのような人物か想像にふけてしまったのである。香山は瞬きも忘れて、
「どんな男でしょうかね」
と中島に尋ねた。中島は、
「それ相応の男であろう。そうでなければ許されん。幕府を動かしたという、それに相応しい男でなければな」
と感情を込めて言った。
「相応しい男、か」
青い瞳をした長身の男。その程度しか香山はペリーのイメージが浮かばなかった。
『確かに相応しい男でなければ報われんな』
香山は大きく溜め息をつく。やにわに遠くから鐘の音が鳴り響く。
「そういえば香山君。お主、異国の酒を飲んだらしいな。どうだった?」
中島が尋ねた。
「そうですね」
香山は遠方にそびえる一隻の黒船を見つめた。黒船は夜の闇の中、その黒さにより周りの海と溶け合っているように見えた。また一方で、月明かりを浴びた黒船はその黒さと月光との対比によって、より際立って映えていた。
「不味くはなかったですよ」
「下戸なのにか?」
「下戸なのに、です」
香山が微笑みながらそう答えると、中島もつられて笑って返した。一方、二人が談笑している間にも、岸辺の周りを囲む焚き火や篝火の炎は、依然として赤く燃え続けていた。
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