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壱、

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「むなしすぎぎるぜ、マイ・ライフ!」と、呟く程に、私は絶望の波に打ちひしがれていた。
不意に思いつき、自室の壁に黒いスプレーで、『キミ、シニタマフコトナカレ』と、誰に宛てるでもなくメッセージを遺書にし、自殺でもしてしまおうかと、徐にスプレー缶を手に取ったこともあったが、莫迦らしいのでやめた。
私の心は、二六時中抑えつけられていた。と、同時にそれに突き動かされ、又、惹かれていくような予感もしていた。
それは、純真無垢でありながら計り知れない狂気を秘め、そして、軽やかにこの世とあの世の境界線を越えてしまうような、そんな得体の知れない魂であった。
その、不安定で不確かな、実体のないものの持ち主、それはすなわち、カヲルであった。みすぼらしくて美しいもの方が、又は壊れかかっていると言えばいいのか、その方が私たちにとって親しみがあることを、証明するかのような人間だった。
例えるならば、洗い晒しの、新品のジーンズを汚してしまった時の口惜しさと、古着のジーンズを汚した時の、誇らしくも感ぜられる感情の差異だとか。(嗚呼、なんと我が生活の慎ましいことか。)
鬱木カヲル。ゼリーを開ける時に飛び散る液体と、ボディ・ソープの注ぎ口に垂れている固体を忌み嫌い、それらをとても恐れていた。
父親はアダルト・ヴィデオのモザイク撤廃を公約に掲げ、若者たちからリスペクトを受けている、自由解放新党という政党の党首だった。(しかし、その公約は未だ守られていない!)その権力は、この薄暗い田舎町全体を覆っていおり、町の全てを牛耳っていた。そして、田舎の金持ちが建てる、城のような、無駄にデカ過ぎる家に住んでいた。しかし、カヲルは、自転車の後輪が常にパンクしていて、それを修理しないというパンクな生き方をしていた。
この地域一帯は、米軍の所有する広大な基地によって、とり囲むように覆われていたが、主に一般市民は基地の内側に、セレブリティは基地の外側に住んでいた。カヲルは、基地外で生まれたのだった。そして、母親はカヲルを生んですぐ、米兵から感染したインモラル出血熱という奇病にかかり、紅すぎるほどの鮮血を吐いて死んだ。その吐く血はとても美しかったらしい。それがカヲルの自慢だった。
そんなカヲルは、容姿端麗というワケでないが、中性的な魅力を持ち、不意に美しい微笑を浮かべ、やりたいことをやりたい時にやり、自由に、本能のままに生きていた。必要以上に世間様を恐れて、他の人間を寄せ付けないオーラを放っており、他者の、親切を思って寄せられる好意の行為は悉くはね返された。映画やドラマで描かれるような聖者では、決してなかった。
例えば、傷口を見せびらかして、へららへららと笑い続け、喜んでいたり。その傷口を手当てしようと試みれば、カヲルは食って掛かって来る。
カヲルと何故親しくなったかは記憶に無く、気付くと、よく一緒に遊んでいた。二人ともトモダチは殆どいなかった。
カヲルの部屋でテレビを観ていると、内容を把握しているのか、いないのか、全くの無表情でテレビを鋭い目付きで睨み付け、クスリとも笑わなかった。しかし、若い女性に大人気の二枚目俳優、織田裕三がテレビに出て来ると、瞬発的にチャンネルを換えてしまう。その手の速さは、女学生がケータイ電話でメイルを打つスピードよりも速く。
私が織田裕三のことが嫌いなのを、知ってか知らずか、また、自分が嫌いなのか?聞いたことが無いから、それはわからない。
「このCD聴いていい?」
と言えば、目を合わせずにゆっくりと頷く。
そんな感じで会話という会話は、それ程存在しなかった。
ある夏の日の午後、カヲルと町の外れの切通しを歩いていた。すると、スケート・ボードに乗って現れたのは、この町に最近増殖し始めた、新しいタイプの不良グループ。スキーで言う処のストックのような役割を備えた(それは鋭く尖っており)、特殊な鉄製の安全靴を駆使してスピードを調節しながら私たちを取り囲んだ。へらへら笑いながら。
後ろからセカンド・バッグを引っ手繰る際、近づく時の音を消すために奴らは最高級の植物性油を使う。だから、ハイ・スピードで周りを取り囲まれたら、もう逃げられない。
一人の屈強そうな銀髪の若い男が近づいて言った。カヲルに顔をにじり寄せて。
「あんた、オトコォ?オンナァ?」
カヲルは初めて会う人間に、そうよく言われた。
カヲルはそれに答えもせず、突然、唇に吐く息を絡ませ小刻みに震えさせ、振動音を発しながら、若者に近づいて行った。
プルプルプルプルプル…。
「なんだ、テメェー!?」
プルプルプルプルプル…。
「オイ、何だって聞いてんだよ!?」
プルプルプルプルプル…。
「テメーェ、フザケんなよ!?」
そして、聞き取れるか聞き取れないかのウィスパー・ヴォイスで(私には聞こえたが)こう言った。
「ボクは見た目はかわいいけれど、一寸怖いよ…。」
「あぁ!?」
羽交い絞めにされるカヲル。その姿を唖然としながら見ていた。そして、恰も狂乱の音楽が流れているような錯覚を起こした。繰り広げられる暴力の宴。しかし、直後、一同は不可思議な現象を目にした。カヲルが髪を鷲掴みにされ、地面に頭を打ち付けられたと思ったら、その次の一瞬、もう、頭を掴んで押さえつけてる方にカヲルが変わっていた。瞬きをする間程の時間で。
それから、カヲルは、まるで襤褸人形を振り回すかのように若者を弄び、相手の意識は既に飛んでいた。呆気に取られている一同を他所に、急いでカヲルを制止、なんとか引っ張り出して、全身全霊で駆け出した。
我に返った不良少年たちは、
「ブッ殺すゾ!!コラ!」
「死んだぞ、テメェーら!!」
「一寸待てやぁ、コラァー!!」
待てと言われて、待つ莫迦がいるものか!飛び交う怒号をシカトして、近くに捨ててあった自転車に乗って、立ちこぎで猛ダッシュ。後ろにカヲルを乗せて、一心不乱で逃げたのだった。
「戻ってぇ。戻ってぇ…。」と、口の中でボソボソ呟きながら後ろを見ているカヲルに私は言った。「あっちへ行ってはいけないんだ!死ぬだけだぞ!!」それでも、カヲルはずっと、「戻ってぇ。戻ってぇ…。」と呟いていた。
もう、ここまで追って来ないだろうという処まで来てからカヲルに聞いた。「さっき、なんか一瞬にしてさ、なんか、立場ってゆーか、人間自体が入れ替わったように見えたんだけど、どーやったの?」と、聞いたが、カヲルは美しい微笑を浮かべながら、「今度ね、『ジャスティス』っていう映画を観に行くの!」と答えただけだった。何のことやら?それに、そんな映画は、今やってないし!
それから暫く、報復とかされるかと思ってビクビクしていたが、何にも起こらなかった。(自由解放新党の力か?)
その事件だけが、カヲルが自発的に他者に対してアクションを起こした出来事だった…。
何故、友人関係を続けているのかは自分でもよくわからないが、私は大学を出て、何もしないでプラプラしているのでカヲルとよく遊んだ。大学は出たものの、やりたいことが見つからず、まさに現代の若者の象徴であるかのように、就職もせずプーラ、プラ。夢もチボーもなく。何もしない日が一日二日なら楽しいが、それが毎日と成れば、時間を潰すのに苦心する。その時間は粘り気が強く、粉々に玉砕出来ぬのだ。それで、平日の昼間、用もないのに古本屋に出向いたりする。
しかし、ある日、大好きなサブカルチャー・コーナーに行きたいのだけれど、独り言を言っている人が恐くて近づけないことがあった。
独り言を呟きながら古本屋の分類を外し、自らの法則によって本を分類、移動し続けている。それにつけてもその独り言は、私がとても好きな映画のワン・シーンの台詞だった。嗚呼、こんな奴と私は同等なのか。と憔悴し、同時に開き直って、一体、どんな奴だろう?と思って顔を覗こうとしたら、それはカヲルだった。美しい横顔が、満面の笑みを作っていた。全身古着でコーディネートしており、ファッション・センスは以前から敵わなかった。スカートなんて引きづっちゃてるケド。
ある日、カヲルの家を訪れたらば、田舎の金持ちが建てる城のような家は、巨大なケータイショップに化けていた。中では皆一様に、死化粧を施した風情の肉感的な金髪娼婦のような女たちが、店内に拡がる広大なカウンター越し、一斉に足を組み、又、一斉にケータイ電話を弄っていた。その中で、一人俯いていた少女がカヲルに似ていたような気もした。途方に暮れて。
それが一年前の今日(に、該当する月日)。その店はすぐに潰れ、今はお見合いパブ『罠化粧』となっている。
思えばカヲルは、とても人間らしさに溢れていた。
私はやはり、純真無垢でありながら計り知れない狂気を秘め、そして、軽やかにこの世とあの世の境界線を越えてしまうような、そんな得体の知れない魂を追い続け、そして、求めていたのだ。
やりたいことをやりたい時に行い、自由に、本能のままに生き、しかし、必要以上に世間様を恐れて、他の人間を寄せ付けないオーラを放つ。他者の、親切を思って寄せられる好意の行為は悉くはね返され、映画やドラマで描かれるような聖者では、決してなく。
その、不安定で不確かな、実体のないものの持ち主、カヲル!カヲル!カヲル!!
狂人は、死ぬ間際に一度正気に戻るというが、カヲルはどうだろう?果たして、カヲルは、もしかしたら本当は正常だったのかも知れない。しかし、正常と異常の差なんて存在しないかも知れないじゃないか!
日々繰り返し報道される、残酷な殺傷事件の犠牲者。無表情で連続殺傷事件のニュースを読み上げるアナウンサーの周りに横たわる屍が、私にははっきりと見える。それぞれの希望と絶望に満ち溢れた未来は、その時点で、プッツリ途切れてしまう。
「あなたは、不慮の事故から逃れることはできますか?」と、問われれば、不意に人間なんて死んでしまうし、明日死ぬかもしれない。そして、人生は一度きりなんだと、改めて自覚させられる。
そして、誰しもが狂気を潜めている。一生のうちにそれを露呈するかしないか。突然、魔は人間を刺し殺すこともある。世間を賑わした凶悪犯罪の容疑者は、皆一様に犯行を一度思い留まっているという。それは、思い留まった直後に偶発的な些細な出来事(例えば、清涼飲料水を自動販売機にて購入しようとして、当たりが出ただとか。そう、本当に些細な。)によって、「もう、やるしかない!」と、執念の糸に無理矢理絡ませ、狂気に駈り立てるのだという…。
「犯人の精神鑑定が、実施される模様です。」
と、落ち着いた口調で、清楚に、そして、ダークネスを装いながら連続殺傷事件のニュースを読み終えた新人女子アナウンサーは、顔を上げると、「さて、コマーシャルの後は、皆さんお待ちかねの、『プチ・セレブ必見! ファッション がんばっていきまっしょい!』のコーナーでーす!!」と満面の笑みを浮かべ、溌剌として言い放った。その顔はとても美しかった。そして、そんな時にはふと、カヲルのことが思い出されるのだった。
そこで私は誓うのだった。よし、明日から、廊下を十三歩で渡り切らなければ不吉な出来事が起きる、というジンクスを捨てて、もっと自由に生きてみよう。
しかし、そのアナウンサーは、直後、泡を吹きながら前のめりに倒れた。すると、傍らに座っていた神経質そうな文化人が突然ではあるが、徐に立ち上がって駆け寄り、その女子アナウンサーの横腹を思い切り蹴り上げてこう言い放った。
「この、役立たずの屑野郎がぁ!!」



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