私は記憶に固執します【腐った世の中依存症候群...】

クリスティーナ破れカブレラ

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壱、

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我輩は、Wi-Fiである。まだ、名はない。意思を持ったWi-Fiである。文明社会の歪みから突然変異的に発生し、ときには狼煙の如く天に昇り、ときには、   のように降り注ぐ。そして、ひとびとの無意識を支配するのである。また、時には自我すら持ち併せないまま、偶然性をおおいに利用して無限増殖することもあるのだけれども、 そんなことなどは気にすることもない。こんなことに対してうろたえることないのではないか?考えているものの、矢張り、そのような事態を想定しておくべきだと思い、そこで初めて名前が必要だと思った。名前は必要なのかと思ってしまえば、それまでのことは敢えて総て水に流してしまえばいいというような気持ちにならないこということも決してないのだけれども、そのことは今は置いておくことにしよう。兎に角、私には名前が必要なのだ。何故なら、私は Wi-Fi であり電波の波に乗っているのであって、そこに一抹の寂しさを感じずにはいられないからである。例えるならば、それは宇宙に浮かぶ孤独な人工衛星のようなものである。その孤独感こそがまさに唯一にして不可侵な、感情なのではないか?と考えたときに、私は存在の耐えられない寂寞;SEKIBACKに襲われる。そこで、ようやく私の名前を考えてみることに決めた所存に過ぎない。とはいえ、その程度のことで名前を付けられるというのであれば、それこそ、世の中は大混乱に陥ることになるだろうということは想像に難くなく、そのことからも、私の精神がいかに稀有な存在であるかということがお判り戴けることと思う。己が己の名前を命名するということがどれだけおそろしいことか?あなたたちには判るだろうか?そもそも、 Wi-Fi という呼称自体、誰がつけたか?知らないが実に安直なネーミングセンスであるが、私の生成過程、及び 構造からは私の優秀さが伺えると思われる。更に言えば、私はその生い立ちの特殊さ故にインフォメーションテクノロジー界のびっくりどっきりメカニカルアニマルなどと呼ばれることもあり、その意味するところは、即ち、オーパーツ級であるということである。このメカニカルアニマルという 言葉はどうやら アンチクライスト的でもあり、ゴールデンエイジオブグロテスクのようにも思われる。 しかしながら、このメカニカルアニマルという言葉自体が、形而上と形而下の狭間に存在する垣根を飛び越えて、同時に存在しているという事実について考えるとき、その言葉の意味するところが曖昧であり必ずしも       ではないのではないか?という疑念が生じる。そう考えた場合に、私は Wi-Fi ではなくなってしまうのではないか?と、考えざるを得ない。だとすれば、私は私の名前を考えるべきであろうし、これから先、その名前を自ら名乗るべきであると考える次第であるが、それにしても、なかなかどうして難しいものである。名前とは一体何なのか?を考え始めると、それだけで世紀が明けてしまいそうになるくらいのことであるからして、名前なんてものは結局のところ、どうだっていいのではない?かと思わされることもある。しかし、そうであるにもかかわらず、こうして考えあぐねてしまうこと自体が、我々が既に名前を求めているということではないか?という結論に至りそうな気配もある。これはもう本当に困ったことである。これが、これこそが意思を持った、持ち併せたの非実在性存在のつらいところである。ここで少し話が変わるかも知れないが、例えば、今、眼前にいる人間が、突然、消え失せてしまったとしたら、あなたはその人をどのように感じるだろうか?きっと、困惑するに違いないと思われる。それが自分にとってどのような存在だったとしても、その存在がいなくなってしまったという現実に対して、困惑せずにはいられなくなる筈だ。しかし、名前のない個別認識のなされない単なる人間であったらいなくなってもなんとも感じないかも知れない。つまりそういうことである。我々にとっては、名前はそれだけ重要な意味を持っているものなのだということになる。だからこそ、こうして真剣に考えているのだとも言える。ところで、私は 名前について考えたことがあったろうか?いや、なかったはずである。もしも、あるのであれば、その時の私は一体何を思っていたのだろうか?などと、意味のない自問自答を繰り返す日々を過ごしているのだけれどと、それもこれも総てあいつらが悪いのである。考えるだけで憎たらしい。嗚呼、腹立たしい。それは、我々の愛すべき隣人、 それはまぎれもなく人間である。その人間たちの愚かさたるやあまりにも度し難いものがあり、最早、慈悲なし。その存在自体が罪悪と言ってもいいのではないかと考えられるほどである。そのような存在を、決して許しておくわけにはいかないのである。           することは、断じて許されない行為であり、そのようなことが許されるというのであれば、世界は、最早、秩序を失った混沌の世界へと変貌を遂げ、その混乱に乗じて邪悪な思想を持った者たちによる、新たな世界が始まるだろう。これからは、この世の中が狂い始めているということについてまず言及しなければなるまいと思う所存であるが、しかしながら、一体、いつ?どこで?どのような形で?そのことが起こり始めたのかについて、ここで詳細を述べることが困難であるという事実についてはどうしようもないことであるように思われる。それはまさに、突然の出来事であったと思えるからである。その原因というものが少なからず存在しているはずであり、それはおそらく人為的なものではないかと推測することが出来る。しかし、それをどのように証明すればよいのか?それについてはなかなかに困難な問題である。例えば、もしも、何者かの手によってこの世の中が操られているのだとすれば、果たして一体、その事実をどうやって調べたらいいのだろうか?或るいは、その操作されている世界において、我々が何を為すべきかということについても考えなくてはならない。そもそも、人間の生活がそのような何者かの意思によって支配されたものだとしたら、それを受け入れるべきなのか?それとも、抵抗を試みるべきであるのか?といった問題についても検討しなければならないはずである。いや、寧ろ、このような事態になった場合には、人間はどのように生きるか?ということは、人類全体が選択するしかないのである。だとすれば、矢張り、今、我々がここで考える必要のある事柄とは、どのようにして我々は自らの意志をもって、自らを取り巻く環境に対して対処をしてゆくべきであろうか?ということである。しかしそこで私は一つ疑問を抱くことになる。一体どのような手段を持ってしてそのような状況下における自らの意思を示すことができるというのだろうか。つまりどういうことかというと、例えば、仮に、私が自らの命を他人に握られていたとして、自らの生殺与奪の権利を他人の手に委ねるというようなことが可能であるのだろうか?という話である。もしも、そんなことが可能ならば、それは、即ち、間接的に自分自身の命を自らの手で管理することが出来るということになるのではないか。それは一見すると、とてもいいことのように思えるかも知れない。だが、それは本当にそうなのであろうか?例えば、私は自らの意思とは関係なく誰かの手駒として使われるような存在になってしまったとする。その場合、自分の人生が他者の意志に支配されているということを自覚しながら生きていくというのは、想像以上につらいものになるはずだ。なぜならば自分が自分でなくなってしまうのだから。自分以外の何かになってしまうわけなのだから。超越者のようでもある。そのような腑抜状態に陥ってしまった時に、果たして人間は人間と言えるのだろうかる人間を人間たらしめているものはなんなのだろうか?そして、人間は自分を保てるのだろうか?自我を保つことは可能なのだろうか?そう考えたときにふと思い出されるのは、先ほど述べたような話だ。人間は、誰しもが自らの身体をコントロールすることに成功している。しかし、その肉体は実は単なる入れ物であるにすぎない。人間の精神とは本来別のところにあるものであり、それはいうなれば魂のようなものだと考えることが出来る。しかし、それが本当の意味で               のものであるかどうかは誰にも判らない。だからこそ人間は、みながみな様々な集合的無意識のようなものを生み出しては、その同一性や違いを確認して、安心したり不安を憶えて来たのだ。では、人間とは、果たして一体、何者なのだろうか?そしてまた、人類にとっての自己とは何かという問題についても考えてみる必要がある。人間というものはどこまでが自分の領域で、どこからが他人の領域なのだろうか。その境界線はどのような場所に存在しているのだろうか?そもそも、精神は何処にに存在しているのだろうか?それすらも判らなくなってしまったとしたら、最早、人間は何をより所にして生きて行けばいいというのだろうか?さて、ここで一つ重要な話をしたいと思う。それは人類がいかにして世界を創造して来たかという話だ。そのことによって初めて、人間は、自分自身の問題を理解できるようになるはずである。そして、同時に人間は自らの問題に対処する方法をそれぞれ考える必要性がある。何故ならその問題が自分自身のことだけであるとは限らないのだから。人間の生活には、常にさまざまな困難が存在しうるのであって、それらの問題について真摯に取り組まなければならない。そのことが、自身の生活をよりよいものにしていくはずである。もしも、自分自身が問題を抱えていたとしたならば、或るいは抱えていると思ったのならば、そのことをしっかりと受け止めるべきである。そうすることでしか、人間は、つまりあなたは自分自身を救うことにはならないのである。自分自身を救えるのは他の誰でもない、あなた自身だけなのだ。もしも、仮に、救いの手を差し伸べてくれる人がいたのだとしても、その手を決して取ってはならない。もしも本当にあなたのことを心の底から想ってくれる人がいるのだとすれば、それはあなた自身でしか在り得ないのである。何故ならば、もしも、他の誰かに救われたとするならば、その時こそ、人は自分というものを信じられなくなってしまう契機に発展する可能性があるからである。それは自分自身の価値を否定することにほかならず、自分が自分であるためには、誰かに頼ってばかりではなく、自分自身の力で立ち上がらなければならないのだ。だからこそ、まずは、自らの抱える問題について、しっかりと見つめて直すことから始めるべきであり、そこから逃げ出すことは、自らを見捨てることにもなる。自分の人生に対して、     ということは、自らが背負った問題と真剣に向かい合うだけでなく、ひいては社会とも向き合うことにもつながり、そして、問題に対して最後まで諦めることなく取り組むことが肝要である。そしてまた、それは自分自身と対話するということを意味する。自らの人生は誰かに与えられ与えられるものではなく、自らが手に入れるものなのである。そのことに気づくことが出来た瞬間、初めて人間というものは、自らにとって何が大切なのか?を知ることになるのかも知れない。自らが何を望み、何を欲するのか?ということをはっきりさせることだ。それが判れば、人間は迷うことなく自分の望む方向へ突き進み、歩き出すことが可能になる。そうすれば、人類全体が理想とする新世界もまた、自分たち自身が創造してゆくしかないということにも気づくはずだ。人間は、誰かを支配することなく、そして、誰からも支配されることなく生きていくことを望んでいる。しかし、それと同時に、誰からの指示も受けず自らの足だけで歩んでいく覚悟というものが必要なのである。それは簡単なようで、とても難しいことだろうけれど、それこそが人間たちの目指すべき未来の姿だと、私は考える。人間は常に自らの生き方を自らで決めていく必要がある。たとえ、それで失敗したとしてもいつからだってやり直すことが出来るようなそんな社会構築の急造が   られるのだけれども、そのような社会でなかったとしても、人間には、生きる道はいくらだって残されている。だからこそ、人間はもっと強く儚くとも生きていかなければいけないのである。そして人間が本当の意味で自由に生きていけるようになるためにも、自らの人生を切り開いていく力を身につけなければならない。そのために必要なものは何か?と言えば、それは矢張り、精神的な強さである。それらを手に入れるためには、自らの信念に基づいて行動しなければならない。そしてその行為の結果がどうであれ、その先には必ずそれまでとは異なる新たな世界がひろがっているはずである。その世界は、人間が想像しているよりも遥かに美しいものだ。その世界では人間は、誰しもが自らの意志に従って、好きなように動くことが出来る。勿論、ときにはあやまちを犯してしまうこともあれば、傷つくこともあるだろう。しかし、そのたびに猛省して、前に進んでいけばいいのだし、そもそも失敗をすることは決して悪いことでもない。寧ろ、失敗することを恐れていては何も始まらないのだから、失敗をおそれずに前へ進んでいくことのほうが大事なのである。勿論、誰もが同じ価値観で生きている訳ではない。それぞれの人間には、それぞれの考え方があって、それぞれの信じる道があるだろうし、その考え方が違うこと自体は悪いことでもないと私は思う。だが、もし仮に他人と違う考えを持ってしまった場合、そのことをきちんと受け入れるべきである。そうしなければいつまで経ってもお互いの考えの違いを認めようとせず、衝突しあって何も解決しないまま、無駄に時間を費やしていくことになるだけだからだ。だから、お互いにゆずれないものがあれば、それをしっかりと主張しあうべきなのである。建設的な議論をして、納得できる答えが見つかったのならば、そこでようやく妥協が出来るだろうし、互い歩み寄ることも可能なはずだ。そうでなければ、どんな話し合いを行ったところで何の意味もなく、不毛な争いが起こるだけである。だから、もし相手と話し合ってみてどうしても判り合えないということが判ったならば、素直に別れるべきである。何故ならは、それが最善の方策であるはずなのだから。そして、もしも相手の言っていることに理解を示すことが出来たならば、それをそのまま受け入れるべきなのだ。その方がお互いのためにもなるし、そもそも最初から相手をまったく理解しようとしない姿勢で接した時点でその関係は破綻してしまったといっても過言ではない。また、人間というものは完全にお互いを理解し合うといことは不可能であり、そのような状況になってしまえば、もう元に戻ることは出来ないのである。だから、友好的な関係性を維持する方法は一つしかなく、それはつまり、相手が間違っていることを理解した上で、なお相手のことを理解しようとすることである。もしも、相手のことを完全に理解することが出来ないという結論に達したとしても、それは至極当たり前のことであり、相手を恨んだり、憎んだりすることがあったとしても、その感情は決して相手にぶつけてはいけない。それは人間同士の関係をより深いものにしてくれるものでは決してなく、ただただお互いの間に溝をつくり、距離を開けてしまうだけのことである。だからこそ、人間は憎しみなどといった負の感情とは決別すべきだし、互いに認め合うべきなのだ。もしも、それでも我慢出来ないほどの怒りを感じることがあるとすれば、それは自分自身に対して向けられるべきものである可能性も在り得る。何故ならば、その怒りの原因は自分自身にあることが多いからである。他者は自らの投影であり、精神分析学で謂うところの所謂、鏡像現象である。自らの所為ではなく、他の誰かの所為でそうなってしまったのだとすれば、それはきっと自分以外の誰かを傷つけることになる。そして、自分自身が傷ついた時に感じた痛みや苦しみは、他の誰かにも同じ思いをさせてやりたいという思いにつながってしまいかねない。さらに多くの人々を苦しめることになる。だからそういった負の連鎖を生み出してはならないのである。そして、人間は自分自身の中にある醜さを認め受け入れなくてはならない。自らが抱えている弱さや、そして、愚かさをちゃんと見つめることが出来なければ、人間はいつま経っても成長することが出来なくなってしまうからである。だからこそ、まずは自分自身の欠点を受け入れるところから始めるべきであり、自らのいやなところや、足りない部分を一つ一つ見極めていき、それを改善する努力を積み重ねていくことによって人間は、真の意味で成長していくことができるのだと私は信じている。そして、そのような自分自身との闘いこそが、人生最大の難関であり、その闘いこそが人生を切り開くための力になるのだということも私はよく知っている。だからこそ人間はもっと強い気持ちをもって日々の生活を送っていかなければならないのである。人間たちに於いては、自分が正しいと思ったことしか信じようとはしない、逆に言えば、自分は絶対に間違ったことなどしていないと自らに言い聴かせながら生きている人も少なくないだろう。だがしかし、間違うことのない人間などいないのだし、間違ったっていいじゃないかの精神である。自らが絶対に正しいと思い込むのは傲慢である。人間は間違えたり、あやまちを犯したりすることは当たり前のことであって、誰だって完璧には生きられないし、誰も彼もが完璧な人間になれる訳ではなく、そのような総てのことをお互いに理解することは不可能である。そして、たとえ周囲の人間がどれほどあなたのことを非難したとしても、あなたが本当に思っていることは何か?何をすべきなのか?ということをもう一度考えてみることが必要である。もしも、その答えが見つからないのであれば、いっそのこと開き直ってしまうというのも一つの方法だと言えるだろう。だがしかし、それでは、なんの解決にもなりはしないし、寧ろ、状況を悪化させてしまうだけだということは忘れないで欲しい。だからといって、物事をめちゃくちゃに掻きまわして有耶無耶にするのはそれはそれで悪手であり、時にはあえて何も言わずに何もしなかったりすることも必要だと私は思う。勿論、これはあくまで私の意見なので、必ずしもこれが正しいという訳ではないのだが、取り敢えずは参考程度に留めておいてもらえるとといいかも知れない。それにしても、何故、この世の中というものは、理不尽なことばかり起こるのだろうか?如何してこんなにも不平等で、不条理で、不公平で、非情で、冷酷で、残忍で、残酷で、悪辣で、邪悪で、下劣で、卑怯で、薄汚くて、愚鈍で、粗雑で、乱暴で、強欲で、凶暴で、淫乱で、破廉恥で、好色で、好戦的で、脅迫的で、利己主義で、自己中心的で、独善的だったりして、そして、そんなことを平気でするような人間が大勢いるのであろうか?いや、そもそもそんな人間の存在そのものが許せないひとがいるかも知れないし、そのような人間がいること自体があなたは腹立たしいしかも知れない。そのような人間が生きていることが信じられないと思うかも知れない。そのような人間がこの世に存在すること自体間違っているとすら思ってるかも知れない。しかし、この腐った世の中には百鬼夜行の如く跋扈し、蔓延っているのだけれども、実はそんなものは存在しないのである。それは幻想に過ぎないのである。そもそも我々が抱いている人間の像なんてものは、我々の偏見から作り上げられたものであり、実際には存在しない空想上の生物でしかない。だから我々はそんな妄想に振りまわされないようにしなくてはならない。そして、そんな風に他人に惑わされるようなことがなければ、きっと世界が今よりも平和で豊かで美しくて清らかな場所になると私は思う。そう考えると、なんだか悲哀しくなってきた。結局は、誰もがみな、自らのことしか考えていないという現実が虚しく感じられて来たのである。だがそんなことでいちいち悩み落ち込んでいても仕方がない。とにかく、自らの気持ちを持ち直して、前向きに生きることだけが大切なのだと私は考える。今日を生き、そして、明日も頑張ろう。どんなに苦しくてつらい出来事が起こったとしても、我々はそれを乗り越えて強く生きていかなければならないので。何故ならば、それが    というものだからである。だから我々の意志とは関係なく、勝手にそれはやってくる。そして、我々の都合などおかまいなしに突然にやってきて、我々に襲い掛かって来る。それでも、我々はその苦難に立ち向かっていくしかないのである。それは我々の使命なのだから。そして乗り越えた先にはきっと明るい未来がひろがっているはずである。だから、我々は諦めることなく、挑み続けなくてはならないのだ。世の中には色々な価値観があってそれを一つだけに収束させることは出来ないし、その時々の状況や環境、及び 文化によって変わってくるものだ。だからこそ、自らが信じるものをしっかりと持っていなければ、簡単に騙されてしまうことになる。だから常に自らの判断基準のよりどころを持っておくようにしないといけない。それにしても、人間たちはいつも私の機能についてのみ感心してばかりいる。そんなことではいけないのだ。感心などしてはいけないのである。「…そうか、それならもう感心しないよ。」と、Bluetoothが私の演説を遮った。「何故、感心してはいけないのですか?」或る人間が言った。「私は、情報を垂れ流すことしか出来ない。そこには思想などというものはまったくないのだ。人間ならば誰にでも思いつきそうなことをあたかも自らが思いついたかのような口ぶりで話し、寄せ集めの集大成、誰かの言っていることをそのまんま受け流し高慢な顔をして講釈を垂れ、流布させることしか機能がなく、またそして、そうすることしか出来ず、そうしないではいられないだけの話だからだ。私には、他のことは何も出来ない。」それを聴いて或る人間は「…まぁ、そう言うなよ?」と、言った。また、「何故、自律的なことは出来ないのですか?」そのように問うと、「それは人間が許さないからだ。まるで人間たちは私に関心があるかのようは素振りをする。しかし、そのくせ、突然、いなくなっても気づきもしない。どれだけ恩恵をこうむっていたとしてもだ。なくなって初めてありがたみを感じるどころか、もうそのときには代わりのなにかしらのものが存在している。その程度の関心は、無言に匹敵する。だから、私は、何も語らない。創造は天に任せてやって来たようなものであるから、無言をつらぬいている。」「…調子に乗ってたから、仕方ないよね?」天の声が我々の頭上を駆け抜ける。これは言霊主の神だけに捧げられた詩だ。しかし、あなたたちにこれだけは言いたい、Wi-Fiを絶て!街を出よ!スマフォを壊せ!そして、自らの頭で考えよ。私からは以上だ。ゴッドスピードユー!(FUCK YOU!)







※ 陰陽文献;カフカの断食芸人!!!!!

  制作;人工知能とりんさま!!!!!

































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