ヘンリー

鳥井ネオン

文字の大きさ
上 下
6 / 10

6

しおりを挟む
「今日、人が来る。ごめんな」

 休日で家にいたキヨカズはクリームシチューを作ってくれてた。仕事が終わって帰ってきて、ご飯ができてるって最高だ。だけど僕は知ってる。キヨカズが食事を用意してくれるのは何かやましいことがあるときだけだ。

「友だち?」

 手を洗ってテーブルにつく。リサイクルショップで買って十年使い続けてるダイニングセット。キヨカズがホテルの厨房からくすねてきた食器と僕が景品でもらったスプーン。シチューの固形ルーは廃棄品だ。僕たちは中古品と盗品と贈答品のなかで生きてる。

「いや。知り合い」
「あいさつした方がいい? それとも邪魔しない方がいい?」

 僕たちの家は部屋が二つとダイニングキッチンしかない。部屋のひとつは寝室だから、来客向けの家じゃない。キヨカズがだれかを家に呼ぶなんて異例だ。

「放っといていい。寝室で休んでな。ごめんな、急に」
「いいよ」

 答えながら、何だか変だな、と思う。キヨカズはロクデナシだけど一匹狼タイプのロクデナシで、基本的に人を招いたり招かれたりはしない。キヨカズの友だちには数えるほどしか会ったことがないし、家に来たことなんて一度もなかった。十年間一緒にいるのに僕はキヨカズの交友関係を知らない。

「珍しいね、家でなにするの」
「話」
「話?」
「カネになりそうな話」

 そういうことか。僕はもうそれ以上何も言わない。ただ黙って、それがそんなに危険な内容じゃないことを願う。

 キヨカズは警察に捕まったことはない。犯罪行為はいっぱいしてるくせに前科も前歴もなくて、身体にタトゥーなんかもない。だからどんな審査もパスできて一流ホテルでも働ける。

 僕はキヨカズを信頼してる。信頼っていうのは言い方を変えれば降伏ってことだと思う。僕はキヨカズに侵略されて、占領されて、降伏した。僕はキヨカズの植民地だ。だれかの人生の道連れになるってことはすごく幸せで、だけどときどき恐ろしくて仕方ない。

 あなたがここにいてくれればいいのに、ヘンリー。何もしてくれなくていいから、ただそばにいて、僕の話を聞いてくれたらいいのに。僕がどんなに怯えているか、あなたならば分かると思う。日常ってやつがどんなに恐ろしいかあなたにならば話せると思う。僕はいつも、いつもいつもいつもいつも、今日世界が滅びればいいって願ってる。だってそうすればもう考えなくてすむから。

 今月の支払いだとか食品のストックだとか電気代がどこまで値上がるのかとか。キッチンのスポンジの交換だとかアカウントのパスワードだとか髪をいつ切るべきかとか毎日三食なにを用意して食べるべきかとか。
 愛してる男がいつか刑務所にぶち込まれるんじゃないかとか。
 
 ヘンリー、あなたの自伝を読んだよ。あなたの人生になにが起きたのか、何回も何回も読み直した。

 僕はあなたの鼓動を感じる。あなたの目で世界を見て、あなたの肌で痛みを感じる。

 僕はあなたの母親が死ぬのを見る。あなたの父親に殴られて、雪で覆われた灰色の街を歩く。リサイクルショップで見つけたギターを弾いて、質の悪いマリファナを吸う。あなたが聞いた銃声を聞いて、一瞬の衝撃で意識を失う。

 ヘンリー、駆け落ちしたての最初のころ、僕たちは今よりももっと狭い部屋で今よりもずっとひどい生活をしてた。今も最低賃金で働いてるけど、それよりもずっとひどかった。

 僕たちには定職がなくて、キヨカズがくすねてくるお金と食料の配給で暮らしてたんだ。冬は本当に寒くて、部屋の中でもコートに包まってひたすら時間が過ぎるのを待ってた。そしてあなたの歌を聴いてた。

 キヨカズがモールで拾った音楽プレーヤーは旧式すぎて売れなくて、だから僕のものになった。誰のものだったのかも分からないそのプレーヤーにあなたの曲は入ってた。二千曲ちょっとの曲のなかで、好きだと思ったのはあなたの十二曲だけだった。それが僕とあなたとの出会いだった。あなたは拾ったプレーヤーのなかにいたんだよ、ヘンリー。このエピソードはきっと気に入ってくれるよね。

 あなたの曲はきれいで悲しい。灰色で、絶望に満ちてて、あたたかい。あなたは僕の秘密を知ってた。会ったこともないのに僕のことを知り尽くしてて、僕は涙が止まらなかった。

 ヘンリー、僕はあなたが、この世界にいてくれて嬉しい。同じ時代に生きててくれて、魂のカケラを歌にして分けてくれて、本当に本当に嬉しい。ねぇヘンリー、お願いだから戻ってきてよ。僕はここだよ。ここにいるんだよ。好きでもない男に抱かれて、愛してる男はロクデナシで、僕は救いようのないクズで、だけどここであなたを待ってるよ。
しおりを挟む

処理中です...