ヘンリー

鳥井ネオン

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 僕はバックヤードで廃棄の処理をしてて、処理済みの食品を盗んでる。

 期限切れのナマモノなんかはさすがにダメだけど、まだ全然食べられるのに袋が破損しただとか在庫過剰だとかで捨てられる食品を、端末で処理したあと捨てる代わりにこっそり持ち帰ってる。

 もちろん違反だしバレたら即クビだしそもそもそんなことする情けない奴なんてこの店で僕だけだ。僕以外の従業員はみんな学生だったり主婦で母親だったりしてすごく常識的で良い人ばかりだ。店長が愛するこのカゲツ屋桜通り店を汚してるのは僕だけだし、店長もそのことを知ってて、だから僕に興奮するのかもしれない。

 店長は好きでもない僕とヤルことでもっと家族を愛せるのかもしれない。

 廃棄を持ち帰ろうとしてた僕と目が合ったとき、店長はめちゃくちゃ困った顔をした。あんなに困った顔の大人を見たのははじめてで、僕もつられて困った顔をした。と、思う。

 ごめんなさい。店長がなにか言う前に僕は謝った。もちろん悪いと思ってたわけじゃない。その場をうまく切り抜けようとしただけだ。生活が苦しくて。そう言ったのは嘘で本当だった。僕もキヨカズも最低賃金で働いてて貯金なんて一切ない。だけど廃棄の食品を盗まないと飢え死にするほどには困ってなかった。

 店長は僕を見逃した。すごく優しい、同情と憐れみに満ちた、捨てられた小動物を見るような目をして。
 
 そのときたぶん、店長のなかで僕は彼のものになったんだと思う。はっきり言って勘違いだし、うざいしきもい。なのに僕は自分から店長にすり寄って、相談って名目で二人きりになって、誘惑して、ヤッた。

 ねぇヘンリー、僕は本当に自分で自分が分かんないよ。このことを話せるのはたぶん世界であなたしかいなくて、だからどうかそんなに遠くには行かないでほしいんだ。僕はずっとあなたに話しかけつづけるし、あなたは僕の親友だし、僕はあなたのしもべなんだよ。

 ヘンリー、僕は正気じゃないのかもしれない。だけどさ、ヘンリー、この世界で完全な正気で生きてる人なんているのかな? 

 どこにも安全な場所なんてないのに。だれも助けてなんてくれないのに。自分のスペックは変えられないし、五分後に死んじゃうかもしれないし、あと八十年生きなきゃなのかもしれないし、何もかもどんどん値上がって最低時給で働いて冬はクソ寒くて光熱費はバカ高くて愛のためにぜんぶ捨てたのに愛ってやつに追いつめられて世界中で爆発があってロックスターは銃弾に倒れて僕はどんどん歳だけとって怖くて淋しくて淋しくて淋しくて生きてることがめんどくさくて死ぬような勇気もなくてただ毎日どうにか必死でバランス取りながらいやでいやでいやでいやでたまらない日常で笑顔ってやつを捻り出してるのに。

 自分は正気だって人がいたら、それこそ狂ってるんじゃないかな?
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