ヘンリー

鳥井ネオン

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「こんなことは良くないよ」

 店長は僕に言う。さんざん僕の身体で楽しんだあとで。

「君のことは好きだけど、これは良くない。もうこういうことはやめよう」

 僕たちは飲料の倉庫にいる。

 気温十度で息が白い。僕はコートの、店長はユニフォームのジャンパーの前をしっかり閉じる。お互いに好きでもない男同士が下半身を露出させてヤる。いろんなリスクが高いことは知ってて。むしろ知ってるからこそやるのかもしれない。僕たちはみんなイカれてる。この世界がクソすぎるせいだ。

「奥さんのこと愛してるんですね」

メロドラマの真似をして言ってみる。店長は答えない。男はどうして沈黙で肯定するんだろう。

「娘さんかわいいって。僕にも写真みせてください」
「こんな関係になった責任は僕にもあるし、開き直るつもりはないんだよ。だけどこれは良くない。今日で終わりにしよう」

 人の言うこと聞いてんのかよ、娘の写真見せてって言っただけだろ。脳内の声がキヨカズみたいになる。底辺の、犯罪者の、ロクデナシの口調。

「いいですよ」

 僕は微笑む。接客と同じ、中身なんて何もないスマイル。ヘンリー、あなたなら簡単に見破れる。僕が泣き喚く寸前だってあなたなら分かる。

「じゃあ、手切金ください」

 店長の表情が固まる。なにを言われたのか理解するまでの数秒間、世界は静止する。

「なに?」

 やさしい声だ。まだ聞き違いの可能性を捨ててない。かわいそうなヨシナガ店長。たぶん僕より可愛くない、確実に僕より上等な、平凡で優しい妻を愛してる四十五歳。青果部門出身。店長歴五年。

「手切金ください。じゃないとバラします。無理矢理迫られたって言います」

 本当なら関わるはずがなかったんだ。一生お互いに知らないままで終わるはずだった。住む世界がぜんぜん違う男。気の毒な、本当に気の毒な男。優しくて間抜けで真っ当な。

「このまま病院に行けばDNAが残ってるんで。レイプされたって言います。それがイヤなら払ってください」

 薄暗いなかでも分かる。店長は青ざめて、状況がうまく信じられないでいる。合意だったのに。安全だと思ってたのに。そもそも自分から誘ったわけじゃないのに。店長の頭のなかで失うかもしれないものがリストになってく。仕事。家族。友人。つまり彼のぜんぶ。

「どうして」
「だって好きじゃないから」

 ヘンリー、僕は笑ってる? まさか泣いてないよね。もう自分で自分の表情さえ分からない。泣いてたらダサすぎるから、残酷に笑ってることを願う。

「僕はコンテンツだったんだから、使用料を支払ってくださいよ」

 ヘンリー、僕は昔お坊ちゃまで、何ひとつ不自由のない暮らしをしてたんだ。いつもきれいな服を着て、ピカピカの靴を履いて、テニスとバイオリンなんて習っちゃって。パパのお酒を盗んだりはしたけど、ここまで最悪なやつじゃなかった。僕はこんなヤツじゃなかったって、あなたはちゃんと知ってるでしょう?

「いくら」

 店長の声は震えてる。僕ははじめて少しだけ店長を好きになる。あわれで無害な男。ほんのちょっとの好奇心のせいでこんな事態に陥るなんて。

「いくらだろう」

 ヘンリー、教えて。僕はいくらって答えればいいのかな。適正価格なんてないんだから、バカみたいに安いか高いかどっちかが面白いよね。

「五十ポンド」

 あなたが最初に買ったギター。少年だったあなたがリサイクルショップで見つけて買ったアコースティックギターの代金。僕はそれを請求する。

「え?」
「五十ポンド」

きょとんとする店長がおかしくて、少し声を出して笑う。白い息。ずっと立ってたから疲れたし寒くて仕方ない。

「給料と一緒に振り込んでください。あと、廃棄待ちのパスタ。あれぜんぶ貰いますね」

 固まったままの店長を残して倉庫を出る。いったん店内のバックヤードに戻る。業務用の黒いビニール袋を取り出して広げる。廃棄待ちの乾燥パスタをそれに詰め込む。

 お疲れさまでーす!

 鮮魚部門の誰かが通る。お疲れさまでーす! 精一杯明るくそれに応えて、黒いビニール袋を担ぐ。イカれたサンタクロースみたいに。

「さよなら」

 誰にともなく言ってみた。平凡で退屈なこのバイトが好きだった。ここにいれば安全な気がした。だけど違った。どこにいたって同じ。僕が僕である以上、どこに行ったってそこはクソみたいな場所に変わるんだ。
 
 ヘンリー。
 ねぇ、ヘンリー。
 
 これって歌になる? これって物語? あなたの創作のネタになる? 五十ポンドと廃棄のパスタが報酬の男娼。ロクデナシの恋人はカネのためにだれかの生命を危険にさらす。現実世界の底辺。最低最悪な人種。正しい人たちの場所には行けない。まぎれてもバレて追い出される。人畜無害な顔したクソ野郎。

 ヘンリー。こわいよ。
 お坊ちゃまだったころ、僕の家族は神様を信じてた。十字架があって、お祈りの言葉があって、いつもそれを唱えさせられた。

 神様は見てるって教わった。ぜんぶ許してくださるって教わった。僕はそれを信じようとした。だけどできなかった。神様に話しかけるなんて笑っちゃって無理だった。

 こんなふうにはできなかった。こうやってあなたにしてるみたいに、毎日話しかけて細胞のなかにまで存在を感じるなんてできなかった。痩せこけた異国のオジサンを信じるなんて不可能だった。

 あなたにならできるのに。あなたにならいくらでも告白して許しを乞えるのに。ぜんぶ信じてぜんぶ捧げてあなたの一部になっちゃえるのに。
 
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