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八月二十四日
暮色蒼然、泡沫の夢
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たった一冊きりの日記帳を片手に、僕は集落へと続く一本道を歩いていた。いつからか途切れかけていたアスファルトの舗装は、ところどころに砂利と雑草が混じっている。その上を躊躇なく闊歩していったのは、どうやら痕を見るに軽トラックらしい。
少し奥には民家が点々と連なっているのが見える。けれども背後に聳え立つ山の稜線に掻き消されるようにして、ただ山あいの集落というよりは、それこそ夏物語と銘打った創作の中にでも存在していそうな、そんな夢想の顕現した一欠片として現れた。
歩を進めていく度に、雑多な感触が靴裏に伝わってくる。踏み慣れたアスファルト、そこに擦れる大小様々の砂利、果ては茎の折れた雑草──そんなものの音まで、聞こえてきそうな気がした。
路傍を通る水路には、微かに水が流れている。褪せて苔ばかりになった路を、何処まで進んでゆくのだろう。壁や小石にぶつかって跳ねながら、悠然と惰性のまま流れてゆくだけなのだろうか。
森閑のうちにそれを聞いていると、なんだか本当に聞こえているのか、はたまた僕の勝手な幻聴なのか、よく分からなくなりそうだった──この昊天にすべて、吸い込まれてしまったかのように。けれど、水路から立ち込める生ぬるい匂いだけは、あの雨上がりのぺトリコールのように、郷愁を秘めていた。
そのまま何分ほど歩いていたろうか。斜陽はいつしか稜線の向こうに暮れかけて、後には陽炎のように霞んだ黄昏だけを遺してゆく。白昼の紺青も片夕暮の薄藍も、この黄昏の茜や紫金さえ、やがては暮夜に呑まれてしまうのだろう。常世の終焉を迎えたような夏空にさえ、千切れ雲は茜と紫金の残影を留めて揺蕩っていた。他には微かに見える端白星が、爛々と瞬いていた。
──いつの間にか僕は、蒼然たる暮色に見蕩れてしまっていたらしい。歩くのも忘れて、辺りが宵闇に呑まれても、ただ馬鹿のように立ち尽くして茫然としていた。それほどなまでに、僕の意識というものは、この泡沫に融和してしまったのかもしれない。
◇
──明滅する街路灯の柱に寄りかかりながら、目に焼き付く残像を煩わしく思い思い、僕はシャープペンを走らせていく。遠くを線路の上に辷っていく電車の音とか、けたたましく鳴り響いた警報音の余韻とか、遮断桿の持ち上がる音やらを聞きながら、黒鉛で黒ずんだ手元を一瞥したきり、なおも書き綴っていった。
『この黄昏に融和するかのように、それは静謐に佇んでいる。赤色灯の硝子越しに見える斜陽が、僕には嫌に朧気で婉美なものに思えた。黒と黄色の遮断桿は夜目にもところどころ塗装が剥げていて、踏切注意と謳われた看板も、もう殆どが鉄錆びている。
路傍には粛然と、曼珠沙華が咲いていた。水底で静穏に靡く水藻の如く、ただ僅かな斜陽だけを頼りに、夢幻と薄幸とを身にまとっている。それでも凛と、儚く、手折られてしまいそうな──さながら、宵に昏れるあの郷愁にも、泡沫にも、似ていた。』
そうして僕はまた、ペン先が奏でた結びの音を聞く。それが地に霧散する線香花火の最期みたく聞こえたのは、きっと、涼風に吹かれているあの曼珠沙華のせいだろう。ぺトリコールにも似た水路の生ぬるい匂いが、風に融けて僕の頬を撫でていった。──香らないはずの曼珠沙華からは、何故だか懐かしい匂いがした。
少し奥には民家が点々と連なっているのが見える。けれども背後に聳え立つ山の稜線に掻き消されるようにして、ただ山あいの集落というよりは、それこそ夏物語と銘打った創作の中にでも存在していそうな、そんな夢想の顕現した一欠片として現れた。
歩を進めていく度に、雑多な感触が靴裏に伝わってくる。踏み慣れたアスファルト、そこに擦れる大小様々の砂利、果ては茎の折れた雑草──そんなものの音まで、聞こえてきそうな気がした。
路傍を通る水路には、微かに水が流れている。褪せて苔ばかりになった路を、何処まで進んでゆくのだろう。壁や小石にぶつかって跳ねながら、悠然と惰性のまま流れてゆくだけなのだろうか。
森閑のうちにそれを聞いていると、なんだか本当に聞こえているのか、はたまた僕の勝手な幻聴なのか、よく分からなくなりそうだった──この昊天にすべて、吸い込まれてしまったかのように。けれど、水路から立ち込める生ぬるい匂いだけは、あの雨上がりのぺトリコールのように、郷愁を秘めていた。
そのまま何分ほど歩いていたろうか。斜陽はいつしか稜線の向こうに暮れかけて、後には陽炎のように霞んだ黄昏だけを遺してゆく。白昼の紺青も片夕暮の薄藍も、この黄昏の茜や紫金さえ、やがては暮夜に呑まれてしまうのだろう。常世の終焉を迎えたような夏空にさえ、千切れ雲は茜と紫金の残影を留めて揺蕩っていた。他には微かに見える端白星が、爛々と瞬いていた。
──いつの間にか僕は、蒼然たる暮色に見蕩れてしまっていたらしい。歩くのも忘れて、辺りが宵闇に呑まれても、ただ馬鹿のように立ち尽くして茫然としていた。それほどなまでに、僕の意識というものは、この泡沫に融和してしまったのかもしれない。
◇
──明滅する街路灯の柱に寄りかかりながら、目に焼き付く残像を煩わしく思い思い、僕はシャープペンを走らせていく。遠くを線路の上に辷っていく電車の音とか、けたたましく鳴り響いた警報音の余韻とか、遮断桿の持ち上がる音やらを聞きながら、黒鉛で黒ずんだ手元を一瞥したきり、なおも書き綴っていった。
『この黄昏に融和するかのように、それは静謐に佇んでいる。赤色灯の硝子越しに見える斜陽が、僕には嫌に朧気で婉美なものに思えた。黒と黄色の遮断桿は夜目にもところどころ塗装が剥げていて、踏切注意と謳われた看板も、もう殆どが鉄錆びている。
路傍には粛然と、曼珠沙華が咲いていた。水底で静穏に靡く水藻の如く、ただ僅かな斜陽だけを頼りに、夢幻と薄幸とを身にまとっている。それでも凛と、儚く、手折られてしまいそうな──さながら、宵に昏れるあの郷愁にも、泡沫にも、似ていた。』
そうして僕はまた、ペン先が奏でた結びの音を聞く。それが地に霧散する線香花火の最期みたく聞こえたのは、きっと、涼風に吹かれているあの曼珠沙華のせいだろう。ぺトリコールにも似た水路の生ぬるい匂いが、風に融けて僕の頬を撫でていった。──香らないはずの曼珠沙華からは、何故だか懐かしい匂いがした。
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