鏡鑑の夏と、曼珠沙華

水無月彩椰

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八月二十四日

晩夏の黎明

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──これから夏が死んでゆくのだと思うと、不意に僕の心臓は、堪らないほどの寂寥の感に締め付けられた。瞳に晩夏の黎明を焼き付けながら、そのまま手持ちの日記帳を開く。まだ何も書き込まれていないそこに、僕はシャープペンの芯を軽く乗せた。


『都会の喧噪には、ほとほと飽き果てた。そうしてコンクリートに毒された自然の表皮、継ぎ接ぎのフィルムのごとく訪れては去りゆく四季の一片──露往き霜来ると言えども、これほど雑然とした無秩序に身を置いていては、心に余裕など持てない。

──だから、存在しないあの夏に、焦がれているのだ。縁無しの紺青の空、ただ立ち昇るだけの入道雲、アスファルトに揺らぐ夏陽炎、降り注ぐような蝉時雨──その悠然さに、僕は、きっと。

そのために僕は、手を伸ばして、背伸びをしたのだ。自分の夢想する夏というものの断片に、ほんの少しだけでも触れたいから。虚像の夏を、ほんの少しだけでも鮮明に映し出したいから。これは誰のためでもなくて、僕自身のためでしかない。それならばいっそ、喧噪な都会から悠々しい田舎に逃げてみたかった。』


そこまで筆を走らせて、句点の結びから芯を離す。書き始めの文章は、一頁の半分ほどを埋めていた。残る半分は、まだ清廉無垢な面持ちをして飄々と澄ましているように見える。けれどそれも、やがて僕のエゴに侵されてしまうのだろう。頁の隅に落ちている枝葉の影はやはり、軽風に悠然と吹かれているきりだった。

──その一刹那に、紙に擦れていたシャープペンの芯の音が、裾が奏でていた衣擦れの音が、ピタリと止んだ。けれど、僕の頭の中では、まだその余韻が残っている。書き終えた句点の結びの音ですらも、何となく覚えていた。あれはエゴイズムの音がした。

そうして涼風すずかぜが、その音を柔らかに描き消していく。髪の合間を、耳を、頬を、指先で撫でるようにして、また去っていく。皮膚の上をわずかに残った清涼の気は、やや傾きかけてきた落陽の熱気にさえ融和していた。それでも盛夏には及ばない。やはり、これから夏は死んでゆくのだ──涼風はその遺骸だった。

矢庭に日記帳から顔を上げる。今まで縮こまっていた僕の影法師がふっと動き出して、何かを凝視しているらしい。それは眼前に広がっている稲田だった。煌びやかな黄金で頭を垂れている稲穂が、淡みを帯びて白みがかった薄藍の空に映えている。そうして、遥か向こうの小さな鉄塔は、昊天こうてんを突き抜けていた。

陽線に焼けたアスファルトからは、せ返るような埃っぽさが立ち込めている。それと綯い交ぜになって、日記帳の紙の匂いだとか、あの稲穂の匂いだとかが僕の鼻腔にまで漂流してきた。まるで──と言ってしまえばそれまでの、まさに夏らしい夏だった。


「……あっ」


アスファルトの道路を隔てた、砂利混じりのあぜの脇に、曼珠沙華がたった一輪だけ咲いている。殆ど稲穂に隠れてしまっているようで、控えめとも儚げとも──どちらかといえば、すぐに手折られてしまいそうな路傍の花みたく、それでも凛としていた。だから僕はいま気付けたし、今まで気付けなかったのかもしれない。

真っ直ぐに伸びた茎の先端からは、紅の花弁が妖艶にその腕を開いている。誰かを誘い込んでいるような佇まい──それが、もしかしたら僕かもしれないような気がして、何とも言えない心地がした。また吹き抜けた涼風に靡いた散形花序の花弁は、どこかに哀愁と郷愁とを秘めている。それが隠し切れずに横溢おういつしていた。

──シャープペンを握る指に力を込める。

『僕は虚像の夏に焦がれているけれど、暮れにふらりと訪れては消えゆくあの曼珠沙華だけは、少しだけ、嫌いだ。』

ただ浮かみ現れた言葉を、そのまま書き綴ってゆく。惰性で剥き出しにしたエゴイズムが、日記帳の下半分を染めていった。また心臓が締め付けられるように痛い。とめどない哀愁と郷愁が、一挙にして僕に何かを訴えかけてくる──結びの一文でさえも。

『──曼珠沙華は、あの子の好きな花だから。』
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