鏡鑑の夏と、曼珠沙華

水無月彩椰

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八月二十四日

このたび、これから

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世間話と夕食を満喫した僕は、いつもより遅めの入浴を済ませていた。祖父が買ってくれたらしい作務衣さむえを袖に通しながら、そういえば昔、『僕は短丈の服って好みじゃないんだよね』と言ったのを覚えていてくれたようで、我知らず口元が綻んでいる。脱衣場から居間に戻ると、それに気付いた小夜が声をかけてきた。


「ねぇ、彩織ちゃんさぁ、このノートって何なん?」


既に片されて綺麗になった卓子テーブルの傍から、彼女はそれを取り上げた。僕が脱衣場に行った後にでも気が付いたのだろう。
 「日記帳。こっちに来る記念に書いてみようかなって」
 そう返事し、もと座っていた座布団に腰を下ろす。向かいの叔父と叔母は寝息を立てながら畳の上に寝転がっていた。祖母がいないのは、もう祖父と一緒に寝てしまったのかもしれない。


「へぇ、俺なんか小学校の夏休みきり書いとらん。文章を書くのが好きとか得意とかいうんならなぁ。彩織ちゃんそうなんか?」
「まぁ。本を読むのとか好きだし、文芸部も入ってる」
「ってことは、小説とか書いたりするん? ウチに読まし!」
「ふふっ、嫌だよ、恥ずかしい。書籍化したら読んでね」
「えぇー……。ってことは、何か賞とかに出してるん?」
「うん、何ヶ月か後に締切のやつがあるから、それに向けて新作を書く予定。ただ最近スランプで、上手く書けなくて……」


悄然とした語調でそう零すと、二人は「スランプ?」と口を揃えた。「ホントにあるんか……。どんな感じや?」と叶兄が訊く。

 
「うーん、文章が上手く浮かばなくなる。筆が乗らないまま時間だけ過ぎてくから、結構辛いよ。なんとか書けたとしても自分で納得できないから、最後には気分転換するしかなくて──」
「……あっ、ウチ分かった。わざわざ四年ぶりに来たの、本当はスランプ克服のためやろ? こういう時に都会は疲れるもんなぁ」


小夜は頬杖を突きながら、「分かるよ、分かる」と頷いている。「いくら都会が羨ましくても、田舎の良さってのはここやね」
 実のところ、帰省の理由はまさに彼女の指摘した通りだった。夏と田舎が舞台の小説を書きたいと思って意気込んだものの、唐突なスランプに見舞われてしまったために、こうして気分転換と現地取材を兼ねて、いよいよ四年越しの帰省と相成ったのだ。

だから例の日記帳は、創作ノートの役割も兼ねている。もちろん実地での風景や心情を描写する訓練にもなるし、なにより思い付いたことを即座に書き出せるというのは相当に魅力的だ。それが紙という媒体に残るのも、いち物書きとしてはロマンがある。


「にしても俺、スランプで田舎に帰省とか旅に出るって、ドラマとか映画の話ばかりやと思ってたわ。実際にあるんやなぁ……」
「ウチもや……。こうなると、彩織ちゃんが主人公の物語とか始まるんやない? いや、もう始まっとるんか! あはははっ」


叶兄と小夜は揃って胡座に座り直すと、顔を見合わせて笑った。なるほど、確かに始まっているのかもしれない。たとい帰省先で麦わら帽子をかぶった白ワンピース姿の少女に出会わなくとも、近所に散歩へ出かけるだけでも物語の一頁にはなる。だからこうして皆と談笑しているのもきっと、同じ理屈だろう。明日からは、久しく訪れたこの近辺を色々と散策してみようと思った。

──不意に洩れた欠伸あくびを、やや噛み殺しながら手で隠す。旅程の疲労が、ようやく安堵した今になって出てきたらしい。そう自覚したら、途端に目蓋が重くなってきたような気がする。それを目ざとく察してくれたのだろう、叶兄はまたも笑いながら言った。


「あははっ! 彩織ちゃん、おねむか。兄ちゃんと寝るか?」
「ふふふっ、もう寝ないよ……。そんな歳じゃないし」
「じゃあ小夜と寝たらえぇ! 昔は三人で一緒に寝てたろう」
「えー! ウチだってもう一人で寝んと落ち着かんもん……」
「はぁ、どう考えても冗談やろ。本気にするんがおかしいわ」


呆れたように首を横に振った叶兄は「まぁ、ええか」と苦笑すると、まずは僕を指さして、それから指先を上に向けた。「彩織ちゃんの部屋は、二階や。そんでもっていちばん奥な。しばらく泊まるやろうから、余裕のある部屋にしといた。来客用のなっ」


「おぉー、ありがとう」
「布団とかは押し入れに入っとるから」
「うん、行ってくる。おやすみ」


日記帳を手に持って、僕は緩慢と立ち上がる。叶兄の「おう、おやすみ!」という覇気のある声と、小夜の「おやすみぃー」という抜けたような声を背中に受けながら、居間を後にした。廊下から階段を上っていくと、三部屋あるうちの一つだけ扉が開け放たれている。どうやら、あそこが僕に割り与えられた部屋らしい。

照明を点けてみると、そこは何の変哲もない八畳間の和室だった。部屋の中央に座卓と座椅子があって、右手側に押し入れがある。叶兄が言うには、布団などはそこに入っているようだ。正面の窓枠には障子で仕切りがされていて、外の様子は見えない。だからだろう。部屋の中はまだ、僅かに熱気の籠った感じがした。

生ぬるい空気が肌にまとわりついてくる。僕は日記帳を座卓に置くと、小走りで窓に駆け寄った。障子の開く小気味良い音と、鍵を下ろした軽快な音とが連なって、窓を開けるまでの煩わしさというのも、不思議なことに忘れている。頬に伝い始めた水滴を手の甲で拭った途端に、吹き込んできた涼風は確かに匂っていた。晩夏の宵をあるたけ運んできたような、そんな匂いがする。

窓枠から身を乗り出すと、そこには黒洞洞こくとうとうたる夜ばかりが広がっていて、まるで自分が盲目か何かになってしまったのではないか──と、ほんの一瞬間だけでさえも勘違いしてしまうほどには、僕は森閑の音色というものを聞きすぎるくらい聞きすぎていた。
 
黄昏に映えた絳霄こうしょうすらも呑み込んで、宵はその遺骸でさえも遺してはくれない。ただ、強いて言うならば──微かに瞬く端白星はじろぼしと、銀砂みたような星屑だけが、白昼の昊天の残骸に思えた。けれど、それすらもまた、いずれは暁に呑まれていくのだ──。それと同時に僕の意識も、脳髄を蝕む睡魔に喰われかけていた。
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