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八月三十日
夏の砂時計
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頬を掠めていく驟雨に降られながら、僕は人目もはばからずに、あやめを抱き締めていた。否、どちらかといえば、抱きついていたと言った方が、自然なのかもしれない。降り始めのぺトリコールが、濛々と匂っている。
心臓が握りつぶされそうなほど、或いは無数の硝子片が刺さったか、とにかく何とも形容しがたい疼痛のようなものが、僕の胸のあたりを苛んでやまない。咽喉から言葉を絞り出そうとしても、その角張った全てが粘膜を引き剥いで、そうして、糜爛したような肉叢に触れていくのが、怖くて堪らなかったのだ。
ただ嗚咽だけを口許から漏らして、とうに涙か雨粒か分からないものに視界を滲ませて、本当なら泣きたいのは彼女のはずなのに、どうしてだか僕が、子供みたく泣きじゃくっていた。あやめを死なせてしまった負い目が、黒洞洞たる底無しの圧となって胸を締め付けていく。できることなら、四年前に戻りたかった。自分の傲慢な怠惰を罵倒しきって、すぐにでも彼女に、会いに行くべきだった。
「ごめん」の一言で済むはずがない。なのに、それさえも、僕は言えないままでいた。嗚咽以外のものを吐き出せず、模範解すらも答えることができず、たといそうしても、身体がそれを拒絶する。咽喉の奥底から得体の知れぬ何かが込み上げてくるたびに、僕は否応なしに、それを飲み込まざるを得なかった。そうでもしなければ、屍肉でも吐いてしまいそうな、そんな不快感があったから。
「……彩織ちゃんはきっと、悪くないよ。仕方がなかったんだよ。たまたまあの二年半、会えなかっただけ。たまたまあの一年間、私が嫌がらせされて、たまたまあの夏に、お父さんが死んじゃっただけ。だって、この夏は、来てくれたよ。今、こうして話してるよ。悪いっていうなら、それは、私の方。現実に耐えきれなくて、逃げちゃった私が悪いの」
抱擁のそれにも似た背中の温もりが、悲痛を帯びた彼女の声につられて増していくような気がした。これはきっと、あやめから僕に向けた上辺の慰めに違いない。そう分かりきっているはずなのに、抱いている呵責の念も、心做しか和らいだような気がした。こんな酷い話が、あっていいものだろうか。どうして彼女は、こんな時まで僕を庇えるのだろう。
「──でも、もういいんだ。今更、昔のことなんかに、かまけてらんないから。だから私は、何も気にしてないんだよ。彩織ちゃんも気にする必要なんてないし、それに──」
あやめの声が、不意に耳元から離れる。揺れた彼女の髪が僕の頬をくすぐって、ほんの一瞬間だけ、涙に張り付いていた。朧気を透した少女の指先が、僕の眦に触れて、拭う。生ぬるいというよりも、柔らかな温かさだった。その名残が少し、物悲しい気がした。
「──きっとこれが、最後の夏休みだから」
その刹那に、意識がほんの一瞬間だけ暗転したような錯覚に襲われた。眩暈のように明滅する視界のなかで、僕はと胸を衝かれたか、吐ききれない胸の悪さだけに苛まれている。郷愁と哀愁が、一挙に押しかけてきたようだった。現実がその靄を晴らしつつあった。
──最後の夏休み。その言葉を、僕はもう、彼女の口から聞いてしまったのだ。暗々裏に心の何処かで見付けていたらしい現実へと、いよいよ対面せざるを得なくなってきた。それを自ら告白したのは、あやめだ。僕は今の今まで、目を背けていたままだったのに、彼女はどうして、ここまで強いのだろう。
「──だから私たちは、この夏を楽しまきゃいけないんだよ。全力で、楽しむの。四年ぶんの夏休みを、この夏の終わりまでにさ」
それならきっと、これは、あやめの覚悟だと思った。僕が今の今でも抱ききれないでいるものだ。二人の時間は、もう殆ど残されていないのだろう。だからこそ限られた最後の夏休みを、こんな悲哀と悔恨に塗れたままで終わらせたくなかった。せめて自分なりの大団円で、幕引きを迎えたいような気がした。
そう分かりきっているはずなのに、僕はどうしても頷ききれない。頷いてしまったら、渺々たる彼女の運命というものが、この昊天に、音も香もなく消え失せてしまいそうだったから。過去を懐かしむことしかできなくなるのが、嫌で堪らなかった。まだ見ぬ未来を懐かしむことの方が、よほど幸せなのに。
──でも、と言いかけて止めた。でも、も何も無いのだ。今の二人には、もはや過去を懐かしむだけの余裕と、ほんの僅かな未来を追いかけるだけの余裕しか残されていない。たったそれだけが、この死にかけの夏を陽炎のように立ち込めて、そうして消えかかっている。これもきっと、運命なのだろうか。
「……ねぇ、彩織ちゃん。この夏は肌身離さず、ノート持ってたよね。それに何を書いたっけ? 私に教えてくれた風景の描写とか、一日の出来事とか、あるんだよね。けどいちばん最初に話してくれたのはさ、私が行きたい場所をノートにまとめることでしょう。それをもう一度、やってみようよ。今度は二人のやりたいことを、ノートにまとめるの」
半透明の手が、雨粒に彩られた日記帳へと触れる。それはこの夏を書き綴っておくための唯一のもので、同時に、その証明だった。僕たちは間違いなく、この夏に生きている。
「ねぇ、きっと、もうすぐ終わっちゃうんだよ。二人の時間も、この夏も、全部。……だからせめて、その思い出だけは、ノートに綴っておきたいの。私たちだけの秘密だねって、心の中に仕舞っておきたい。それで、最後の日には、せめて笑えるようにさ──」
堰を切ったようなあやめの言葉は、そこで途切れてしまった。感情の濁流が他の全てを呑み込んで、ただ嗚咽だけを滔々と吐き出していく。一度は途切れたはずのそれも、元の姿を思い出したかのように、再び震え始めた。そうして僕も、その情動に感化されてしまったらしい。咽喉のあたりが、やけに熱かった。眦を伝うそれも、もはや隠せない。
──だから僕は、せめて頷いた。行く末の決まりきった運命に、不本意ながら従うことへの覚悟を、ようやく抱いたのだ。過去を懐かしむことも、未来を懐かしむことも、もう出来ない。けれどその代わりに、この夏を精一杯に楽しむことは、まだ出来るのだ。四年ぶんと言わなくとも、今まで過ごしてきたどの夏よりも夏らしい、そんな最後の夏休みを。
「……それならさ」
努めて僕は軽快に言って、涙を親指の腹で拭う。咽喉の熱いのも震えそうなのも我慢しいしい、そうして日記帳に触れた彼女の手をとって、僕はあのシャープペンを手渡した。
「今度は、あやめちゃんの番にしよう」
紅涙がそこに落ちて、芯に融けていった。
心臓が握りつぶされそうなほど、或いは無数の硝子片が刺さったか、とにかく何とも形容しがたい疼痛のようなものが、僕の胸のあたりを苛んでやまない。咽喉から言葉を絞り出そうとしても、その角張った全てが粘膜を引き剥いで、そうして、糜爛したような肉叢に触れていくのが、怖くて堪らなかったのだ。
ただ嗚咽だけを口許から漏らして、とうに涙か雨粒か分からないものに視界を滲ませて、本当なら泣きたいのは彼女のはずなのに、どうしてだか僕が、子供みたく泣きじゃくっていた。あやめを死なせてしまった負い目が、黒洞洞たる底無しの圧となって胸を締め付けていく。できることなら、四年前に戻りたかった。自分の傲慢な怠惰を罵倒しきって、すぐにでも彼女に、会いに行くべきだった。
「ごめん」の一言で済むはずがない。なのに、それさえも、僕は言えないままでいた。嗚咽以外のものを吐き出せず、模範解すらも答えることができず、たといそうしても、身体がそれを拒絶する。咽喉の奥底から得体の知れぬ何かが込み上げてくるたびに、僕は否応なしに、それを飲み込まざるを得なかった。そうでもしなければ、屍肉でも吐いてしまいそうな、そんな不快感があったから。
「……彩織ちゃんはきっと、悪くないよ。仕方がなかったんだよ。たまたまあの二年半、会えなかっただけ。たまたまあの一年間、私が嫌がらせされて、たまたまあの夏に、お父さんが死んじゃっただけ。だって、この夏は、来てくれたよ。今、こうして話してるよ。悪いっていうなら、それは、私の方。現実に耐えきれなくて、逃げちゃった私が悪いの」
抱擁のそれにも似た背中の温もりが、悲痛を帯びた彼女の声につられて増していくような気がした。これはきっと、あやめから僕に向けた上辺の慰めに違いない。そう分かりきっているはずなのに、抱いている呵責の念も、心做しか和らいだような気がした。こんな酷い話が、あっていいものだろうか。どうして彼女は、こんな時まで僕を庇えるのだろう。
「──でも、もういいんだ。今更、昔のことなんかに、かまけてらんないから。だから私は、何も気にしてないんだよ。彩織ちゃんも気にする必要なんてないし、それに──」
あやめの声が、不意に耳元から離れる。揺れた彼女の髪が僕の頬をくすぐって、ほんの一瞬間だけ、涙に張り付いていた。朧気を透した少女の指先が、僕の眦に触れて、拭う。生ぬるいというよりも、柔らかな温かさだった。その名残が少し、物悲しい気がした。
「──きっとこれが、最後の夏休みだから」
その刹那に、意識がほんの一瞬間だけ暗転したような錯覚に襲われた。眩暈のように明滅する視界のなかで、僕はと胸を衝かれたか、吐ききれない胸の悪さだけに苛まれている。郷愁と哀愁が、一挙に押しかけてきたようだった。現実がその靄を晴らしつつあった。
──最後の夏休み。その言葉を、僕はもう、彼女の口から聞いてしまったのだ。暗々裏に心の何処かで見付けていたらしい現実へと、いよいよ対面せざるを得なくなってきた。それを自ら告白したのは、あやめだ。僕は今の今まで、目を背けていたままだったのに、彼女はどうして、ここまで強いのだろう。
「──だから私たちは、この夏を楽しまきゃいけないんだよ。全力で、楽しむの。四年ぶんの夏休みを、この夏の終わりまでにさ」
それならきっと、これは、あやめの覚悟だと思った。僕が今の今でも抱ききれないでいるものだ。二人の時間は、もう殆ど残されていないのだろう。だからこそ限られた最後の夏休みを、こんな悲哀と悔恨に塗れたままで終わらせたくなかった。せめて自分なりの大団円で、幕引きを迎えたいような気がした。
そう分かりきっているはずなのに、僕はどうしても頷ききれない。頷いてしまったら、渺々たる彼女の運命というものが、この昊天に、音も香もなく消え失せてしまいそうだったから。過去を懐かしむことしかできなくなるのが、嫌で堪らなかった。まだ見ぬ未来を懐かしむことの方が、よほど幸せなのに。
──でも、と言いかけて止めた。でも、も何も無いのだ。今の二人には、もはや過去を懐かしむだけの余裕と、ほんの僅かな未来を追いかけるだけの余裕しか残されていない。たったそれだけが、この死にかけの夏を陽炎のように立ち込めて、そうして消えかかっている。これもきっと、運命なのだろうか。
「……ねぇ、彩織ちゃん。この夏は肌身離さず、ノート持ってたよね。それに何を書いたっけ? 私に教えてくれた風景の描写とか、一日の出来事とか、あるんだよね。けどいちばん最初に話してくれたのはさ、私が行きたい場所をノートにまとめることでしょう。それをもう一度、やってみようよ。今度は二人のやりたいことを、ノートにまとめるの」
半透明の手が、雨粒に彩られた日記帳へと触れる。それはこの夏を書き綴っておくための唯一のもので、同時に、その証明だった。僕たちは間違いなく、この夏に生きている。
「ねぇ、きっと、もうすぐ終わっちゃうんだよ。二人の時間も、この夏も、全部。……だからせめて、その思い出だけは、ノートに綴っておきたいの。私たちだけの秘密だねって、心の中に仕舞っておきたい。それで、最後の日には、せめて笑えるようにさ──」
堰を切ったようなあやめの言葉は、そこで途切れてしまった。感情の濁流が他の全てを呑み込んで、ただ嗚咽だけを滔々と吐き出していく。一度は途切れたはずのそれも、元の姿を思い出したかのように、再び震え始めた。そうして僕も、その情動に感化されてしまったらしい。咽喉のあたりが、やけに熱かった。眦を伝うそれも、もはや隠せない。
──だから僕は、せめて頷いた。行く末の決まりきった運命に、不本意ながら従うことへの覚悟を、ようやく抱いたのだ。過去を懐かしむことも、未来を懐かしむことも、もう出来ない。けれどその代わりに、この夏を精一杯に楽しむことは、まだ出来るのだ。四年ぶんと言わなくとも、今まで過ごしてきたどの夏よりも夏らしい、そんな最後の夏休みを。
「……それならさ」
努めて僕は軽快に言って、涙を親指の腹で拭う。咽喉の熱いのも震えそうなのも我慢しいしい、そうして日記帳に触れた彼女の手をとって、僕はあのシャープペンを手渡した。
「今度は、あやめちゃんの番にしよう」
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