鏡鑑の夏と、曼珠沙華

八月三十日

恋は盲目、終の晴眼

縁側の上に日記帳を広げて、僕とあやめは隣り合わせに座っていた。今朝の驟雨しゅううは気まぐれに過ぎ去って、雨催いの曇天も、その切れ間に陽光を射している。それが彼女の瞳を透とおして、ぺトリコールの匂う地表を玲瓏な様で煌めきながら、紙面に光を落としていた。

眩しさに目を細める少女の、その横顔を僕は、ようやく見ることができたのだ。四年越しの夏に、その終わりに──飽きるほど見てきた情景でさえ、僕は見蕩みとれていた。シャープペンを持つ細やかな指先と、紙に擦れている芯の音と、ときおり加減を間違って折ってしまった時の、僕の方を向いて苦笑する彼女の横顔が、似合いすぎるほどに綺麗だった。


「……うん」


誰にともなく頷いたあやめは、虚空に融けて靡なびいている黒髪を、中指で耳に掛ける。それから僕を一瞥して、日記帳を掲げてみせた。

『この夏を、二人で一緒に楽しむこと。』

ところどころ芯が折れて、そこだけ筆跡が濃くなっている。けれども文章はその一言だけで、後はただの白紙だった。きっと彼女も僕も、暗々裏に思いを似通わせていたのかもしれない。エゴというには純粋で、お願いというには軽率な、そんな最後の約束事を。

だから僕は、そのまま微笑して頷いた。あやめも口元に喜悦きえつの色を浮かばせて、静かに日記帳を閉じる。それだけで充分だった。わざわざ何を書く必要もなくて、夏の過ごし方を、僕たちはもう、知っている。どう楽しむかも、いまさら気にすることではなかった。


「今日は、何処に行こうか」
「彩織ちゃんと一緒なら、何処でもっ」


屈託のない笑みで、あやめは僕を見詰める。焦点の合った真っ直ぐな眼差しが、無邪気な子供のように見えて、どこか懐かしかった。飽きるほど見ていても、まだ懐かしい。きっとそれは、否、それはもう、もはや──。


「あ、でも──」


少女は矢庭に立ち上がると、その真白いワンピースを虚空に翻ひるがえらせた。履いたサンダルでぬかるんだ地面を蹴りながら、軽やかに一歩二歩と進んでいく。昊天こうてんと入道を写す水鏡が波紋を立てて、的皪てきれきとした水飛沫を辺りに散らしていった。足元を濡らしたそれにも彼女は気にしないまま、さながら盛夏の向日葵ひまわりのように、或いは陽炎のように、笑った。


「──最後はやっぱり、この村がいいな」


◇


僕は片手に日記帳を、あやめは麦わら帽子を冠かむって、二人はいつものように軒先から歩を踏み出した。日差しにやや温まった手を繋ぎながら、とうに慣れてしまったこの感触を、今はより愛おしく思っている。梢を彩る青葉の騒めきを聞いて、木々の幹から覗く神社の境内を見下ろしつつ、僕たちは昔から飽きるほど歩いてきた、例の坂道に差し掛かった。


「……夏だね」


木漏れ日の眩しさに目を細めながら、けれどもそれを手で遮ることはなく、彼女は何かを噛み締めるように微笑む。紺碧こんぺきの空を仰ぐ木々は、先の驟雨に満たされたか、やけに青々として枝葉を揺らしていた。そうしてアスファルトに映る影法師を、彼女は踏んで渡っている。靡く黒髪も、翻るワンピースも、透き通っているからかやはり、涼しげだ。


「──あっ」


矢庭に、あやめは立ち止まる。半歩だけ先を進んでいた僕はその足を戻すと、アスファルトの薄墨、あるいは雑草の浅緑を透かしている彼女の、凝然たる目線の先を追ってみた。路傍から立ち込める土草のそれが、軽風に乗りながら鼻腔を柔らかにくすぐっていく。

緩やかな坂ばいの向こうには、古びたアスファルトと黄金色の稲田を挟んで、陽光に爛燦らんさんと瞬きながら、線路は敷石とともに地を辷すべっている。傍らに点々と映えるのは、あの華奢で、それでいて妖艶な、曼珠沙華の花弁はなびらだった。頭上の昊天と入道雲を仰ぎながら、軽風に悠然と靡いて、けれども香ることはなく、隣にいる少女の存在だけを、感じていた。


「入道雲……」


頬を伝う汗がアスファルトに融けたように、あやめの声色も、その際きわによく似ていた。だからだろうか──彼女が今にでも泡沫ほうまつになってしまうような気がして、僕は我知らず、手汗に滲んだ半透明の夏を、固く握り直す。哀愁の塊が、心地の悪い胸臆きょうおくに巣食っていた。

繋いだ手の合間を、ひときわ強い風が埋めていく。梢と葉は緑の匂いを振り撒いて、珠たまに濡れた髪の毛も、紺青こんじょうの陽線に照り返っていた。背中に張り付いた服の感触が涼やかに、けれどもまた、木漏れ日に撫でられてゆく。

吹き抜けた夏風は坂道を下ると、そのまま、陽炎の立ち込める昊天へと融けていった。僕はあの余韻に浸りながら、漠々ばくばくたる様の入道雲を、あやめと横並びに見つめ続けている。アスファルトの熱気が履物の裏に移って、それを熱いと感じる頃に、彼女はまた零した。


「あの入道雲、大きいね」
「……見えるんだ」
「うん。モノクロだけど」


喜悦の笑みを洩らしながら、あやめは汗に張り付いた前髪を、中指の先で拭い取る──その微笑を僕は、どんな面持ちで受け取れば良いのか、よく分からないでいた。なんとも言えない二極端の間の捍格かんかくが、手触りの悪い感情となって、胸の内にとぐろを巻いている。

──これが、もはや疑いようのない、彼女と過ごせる最後の夏なのだろう。だからこそ、この夏を、あの景色を、色彩を、眩しさを、近く迫る終ついの時まで、僕と一緒に見つめ続けたい。けれどそれは、暗澹あんたんたる行く末を僕たち自身に突き付けていることと同じだった。そう分かっているはずなのに、あやめは──否、分かっているからこそ、磊落らいらくに、笑みを洩らしていた。


「だから──取り敢えず彩織ちゃんは、私に色を分けてくださいな」


青天井から降り注ぐ青い日差しが、彼女の瞳を射していく。それが狂おしいほどに愛おしくて、そうして、婉美えんびだった。盛夏に咲いた向日葵のような笑顔が、この晩夏にもよくよく似合っている。やっぱり僕は物語の主人公ではないけれど、せめてこれだけは、言いたい気がした。


「うん。──僕が、君の世界に色を分けてあげるよ」