野獣に餌付けしてしまったらしい

ハル

文字の大きさ
30 / 30

しおりを挟む
 視界がぼやけて濃い霧の中にいるようだけど、匂いも霧があるようなごく薄い水に触れているような感覚がない。だから、これは現実ではないことがわかる。

 独り、ここにいて寂しさと安心感という二つの混ざりあわない感情が沸き上がる。

「やっぱり一人じゃつまらない。」

 いつも隣にいる人を思い浮かべてしまう。
 終わりが見えない無感情な光景にまるで少し前の自分のようだけど、ここまで何も周囲を拒絶はしていない。私には湊君という推しがいたから。
 だんだん暇になって目をこらして前方を見ても当然何も見えない。しかし、この景色をずっと見ているのも飽きてきたので歩き出す。

 歩いても歩いても全く変わらない景色
 夢は今の自分を鮮明に映していると誰かが言っていたけど、それは嘘だと思う。

「今、私は充実していると思うけどな。」

 自分を省みて客観的にそう思う。仕事もプライベートもこんなに満喫したことがない。それなのに、こんなに何も見えない真っ白な景色しかない。

 この中で一人だと思うと寂しさがどんどん増してきて、さっきまで感じていたはずの安心感は無くなってしまう。

「怖い。」

 初めて感情が言葉になって自分の口から出る。それに、視界がぼやけて見えるからきっと涙を年に似合わず流している。
 それでも、歩みを止められないのは、なぜか分からない。立ち止まればいいのに、しゃがんで夢が覚めるのを待てばいいのに、それを私は許せない。そんな選択肢が最初から存在しないように、私の足は動いている。

 すると、霧が晴れて人の影が見えてくる。

「お父さん?」

 その人が僅かに見えて、数時間前に画像で見た顔と同じなので驚く。こっちは静止画ではなく動いているのでなおさらだ。

 父はこちらを見て手を振っている。それが自分に向けられたと思った私はゆっくりと進もうと一歩踏み出すと私の隣から誰かが父の方に向かって走っている。二人は穏やかに笑い合い抱きしめ合う。父と抱き合っている女性を見て勘違いをして恥ずかしくなった自分はもういない。

「・・・お母さん。」


 おっとりとして鏡で見ている自分の顔と似ている、血のつながりを強く感じさせる女性は確実に私の母だ。彼らを見ていると体格は父、顔は母から受け継がれたことがわかる。
 それから、二人を見ていると父と母はベンチに座り、座った母のお腹はもう臨月近いとわかるほどに大きくなっており、そのお腹を父は優しくなでている。

「名前は考えた?」

 母はそんな父に微笑みながら尋ねると彼は頷く。

「もう考えた。いづき、イタリアの漢字で使用される伊と月で伊月。この子には自分が身に着けた力で月のように暗い中でも誰かを、自分さえもほのかに照らす子になってほしい。」
「とても良い名前ね。性別はまだ確定ではないけれど、どちらでも大丈夫ね。」
「そうだろう?」

 父はとても誇らしげに笑う。
 二人の穏やかな会話。そんな記憶があるはずがないのだけど、こんなに現実味があるのだからきっと本当に会ったことなのだろう。
 そう確信し私は自分の名が力を帯びた気がした。

”名前は親からもらう唯一の贈り物”

 そんな言葉を小さい頃に聞いた気がした。

 そして、場面は変わり、母が亡くなり幼い私を大切に抱いた父は母の写真の前にケーキを置いて私を見る。

「お誕生日おめでとう、伊月。お母さんも喜んでいる。」
「うん!ありがとう、お父さん、お母さん。」

 まだ幼かったから何もわからず父の言葉を全て飲み込んでいるだけに見える。そんな光景を見ながら、幼い自分が着ている洋服に驚く。その洋服には戦隊ヒーローシリーズがプリントされている。本当に小さい時から好きだったのだと知る。
 本当に幸せな光景だ。その中で目立っているのは洋服にプリントされた架空のヒーローと母の写真と父と私の三人の中央に堂々としているケーキだ。そのケーキにはとても見覚えがあり、それを見ていると頭が重くなる。

『お誕生日おめでとう、伊月。大きくなった伊月がこれを気に入って大きな口を開けて幸せそうに食べてくれたら嬉しい。』
『気が早いですね!先生。』

 その言葉と光景が頭に流れて来て私はハッと顔をあげる。
 父と一緒にいた人がすぐにわかった。煌に連れて行ってもらった最初のお店、そこの大将だった。見た目は少しだけ若かったが十分に面影が残っていた。それで、なんだか目に熱がこもる。

「お父さん。私、お父さんのことを思い出した。」

 母の記憶はおそらく私の中にあまりない。けれど、煌の話からすれば父の記憶は私の中で十分なほど満たされているはずだから思い出したのはごく一部だろう。

「あのケーキを食べたいな。」

 私は初めて自分の望みを口から出す。
 すると、辺りが一気に暗闇に覆われて不安で周囲を見渡すと足がついていたはずの地面がフッと消えて体が浮いた気がする。そう思ったら、一気に落ちるような感覚がある。

「伊月がおいしいって言ってくれたら嬉しい。」

 落ちる瞬間、父のそんな温かい声が聞こえる。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

城内別居中の国王夫妻の話

小野
恋愛
タイトル通りです。

五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~

放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」 大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。 生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。 しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。 「すまない。私は父としての責任を果たす」 かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。 だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。 これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。

離婚すると夫に告げる

tartan321
恋愛
タイトル通りです

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

妻を蔑ろにしていた結果。

下菊みこと
恋愛
愚かな夫が自業自得で後悔するだけ。妻は結果に満足しています。 主人公は愛人を囲っていた。愛人曰く妻は彼女に嫌がらせをしているらしい。そんな性悪な妻が、屋敷の最上階から身投げしようとしていると報告されて急いで妻のもとへ行く。 小説家になろう様でも投稿しています。

彼が指輪を嵌める理由

mahiro
恋愛
顔良し、頭良し、一人あたり良し。 仕事も出来てスポーツも出来ると社内で有名な重村湊士さんの左薬指に指輪が嵌められていると噂が流れた。 これはもう結婚秒読みの彼女がいるに違いないと聞きたくもない情報が流れてくる始末。 面識なし、接点なし、稀に社内ですれ違うだけで向こうは私のことなんて知るわけもなく。 もうこの恋は諦めなきゃいけないのかな…。

王太子殿下が、「国中の未婚女性を集めて舞踏会を開きたい」などと寝言をおっしゃるものですから。

石河 翠
恋愛
主人公のアレクは、ある日乳兄弟である王太子に頼みごとをされる。なんと、国中の未婚女性を集めて舞踏会を開きたいというのだ。 婚約者がいない王太子による、身分の垣根を越えた婚活パーティー。あまりにも無駄の多い夜会であること、何より「可愛い女の子のドレス姿が見たい」という下心満載の王太子にドン引きしつつも、王太子の本音に気がつき密かに心を痛める。 とはいえ王太子の望みを叶えるべく奔走することに。しかし舞踏会当日、令嬢の相手をしていたアレクは、怒れる王太子に突然からまれて……。 転生後の人生を気ままに楽しむヒロインと、ヒロインにちっとも好意が伝わらないポンコツ王子の恋物語。 ハッピーエンドです。 この作品は、他サイトにも投稿しております。 表紙絵は、チョコラテさまの作品(写真のID:4099122)をお借りしております。

今日結婚した夫から2年経ったら出ていけと言われました

四折 柊
恋愛
 子爵令嬢であるコーデリアは高位貴族である公爵家から是非にと望まれ結婚した。美しくもなく身分の低い自分が何故? 理由は分からないが自分にひどい扱いをする実家を出て幸せになれるかもしれないと淡い期待を抱く。ところがそこには思惑があり……。公爵は本当に愛する女性を妻にするためにコーデリアを利用したのだ。夫となった男は言った。「お前と本当の夫婦になるつもりはない。2年後には公爵邸から国外へ出ていってもらう。そして二度と戻ってくるな」と。(いいんですか? それは私にとって……ご褒美です!)

処理中です...