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第一部
忍び寄る現実 7
しおりを挟む「どうして理人が雪野といるのか混乱してる。あいつが雪野に何を言って、何をしたのか、それを考えたらどうしようもなく怖くなった。怖くて仕方ないんだ」
シートに背を預けて額に腕をやる創介さんの姿を見つめる。
「全部、自分がして来たことなのに、怖いと思うなんて情けねーよな。本当の俺を、おまえに知られるのかと思ったら耐えられなくなった……」
額にあった手が、創介さんの顔を覆う。
『おまえと違って俺は、ろくでもない兄貴だからな。……と言うか、”兄”と名乗る資格すらねーよ』
二人で旅行した時、創介さんが零した言葉が脳裏を過る。
「俺は――」
薄暗い車内で、フロントガラスに積み重なっていく雪が膜となって次第に微かな明かりさえ失われ始める。怯える創介さんを隠してあげて欲しいとそう願った。
「創介さんっ」
創介さんの、投げ出されていた方の腕に手を伸ばした。ここに引き留めるみたいに必死に掴んだ。
「本当に、榊君から何も聞いていません! 榊君が創介さんの弟さんだったなんて、今、創介さんから聞いて知ったんです」
気付けば私はそう叫んでいた。大学四年生だってことと、狛江で一人暮らしをしているってこと。お母さんを心配していること――本当にそのことしか榊君は私に話さなかった。兄である創介さんのことも、自分の家のことも、私には話していない。
「私が知っている創介さんは、私が見ている創介さんだけです。それだけで十分です。これから先も、それだけでいい――」
創介さんが知られたくないと怯えて苦しむくらいなら、私は何も知りたくない。知らないままでいい。
「おまえは、本当にバカだ。大馬鹿だ……」
それはまるで泣いているみたいに濡れた声だった。いつもみたいに優しい腕が、私を強く抱きしめた。
「おまえが知っている以上に、俺がどうしようもない男だったらどうするんだ。言葉にするのも憚られるくらい、汚れきった最低な男かもしれない」
「それでもいいです。私の中には、私の知っている創介さんがいる。もし、知らない創介さんがいるんだとしても、私の目の前にいる創介さんが消えるわけじゃない。創介さんは創介さんです。どんな創介さんでも私は――」
好きなんです――。
しがみつくように離れてしまわないように、力の限り創介さんの胸に顔を押し付ける。
「だから、怯えたりしないで。苦しまないで――」
涙が零れ落ちるままに叫べば、創介さんが私の頭を両手で掴んですぐに唇を塞いだ。それは、激しくて、感情をぶつけるような口付けだった。重なったと同時に奥深くまで侵入して来る。
エンジンの切れた車内は、時間とともに気温が下がってきているのに、私の口内は熱くてたまらない創介さんの舌が埋め尽くそうとする。その熱さで涙腺まで刺激してくる。狂おしいほどに荒ぶるキスで、何度も歯がかち合う。気付けばシートに身体を押さえつけられていた。
「――んっ」
「……ごめん。ごめんな、雪野」
息が苦しくなっては離れる唇の隙間から、喉の奥から絞り出されるような創介さんの声が零れ落ちて行く。
「ごめんっ――」
零れて行く哀しい言葉を堰き止めるようにまた唇が重なるのに、その哀しみは外へと落ちて行こうとする。
謝らないで。謝ったりしないで――。
「……おまえには、もっといい男が似合う。俺みたいな男じゃなく――」
創介さんの大きくてごつごつとした二つの手のひらが私の顔を包んで、また唇を離す。目を開くと、鋭い切れ長の目が透明の膜に覆われていた。哀しみに満ちた目が私を見つめる。
そんな目で見ないで――。
ゆらゆらと揺れる黒い目は苦しそうに閉じられて、私の目尻の雫を唇で掬った。
「もっと、おまえのことを、大切にできる男が――」
優しく触れながら、そんなこと言わないで――。
涙に濡れた唇が、私の唇に再び重なる。しょっぱい味が入り込んで、胸の奥まで流れて行く。すべてを振り払いたくて、必死で唇を絡める。離れないように重ねて絡めて。怖くなって、創介さんの身体に、唇にしがみつくように自分をぶつけた。
今の自分の顔を見られたくない。そんなことを言う創介さんの顔を見たくない。
「そう思うのに、俺は――っ」
雪がフロントガラスに積み重なって、音さえも届かなくさせる。車内を満たす濃密な空気が、重く二人にのしかかる。
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