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第一部
忍び寄る現実 6
しおりを挟む「雪野、何、してる……?」
榊君の肩越しに、創介さんの姿が見えて。
「創介さん……?」
何をどう言えばいいのかまるで頭に浮かばない。酷く疲れた顔をしていて、いつもどこか風格のあるスーツ姿さえも疲労が色濃く表れていた。綺麗な青色のネクタイも大きく歪んでいる。これほどまでに弱々しく見えた創介さんは初めてで、咄嗟に榊君を突き飛ばしていた。その拍子によろめいた身体で、榊君がゆっくりと創介さんの方に振り返った。
「……どうして、理人と?」
顔色を失った創介さんから絞り出された声は、まるで呻き声のようで。
榊君のことを知ってるの――?
創介さんがひどく動揺しているように見えて、疑問よりも先に創介さんの元へと駆け寄ろうとした。それを引き留めるように榊君が私の腕を引っ張る。
「戸川さん、行かないでっ!」
「雪野っ!」
真っ青な顔をして、創介さんが我を忘れたように私を呼んだ。
「雪野、来るんだ!」
勢いのままに私の腕を鷲掴み、抱き寄せた。
「二度と、雪野に近付くな。雪野にだけは手を出すな!」
私を自分の身体の後ろへとやる。地を這うような創介さんの低い声に、私は目を見開いた。声だけじゃない。冷たさの中に怯えのようなものを滲ませた目で、榊君を鋭く睨みつけていた。
「来いっ!」
力の限り腕を引き寄せられて、引きずられるように創介さんの後を追う。その背中は怒りに満ちていた。すぐ傍にいるのに、全然知らない人のように見える。いつも気遣うように私に触れていくれた創介さんはそこにはいない。力任せに掴まれた腕は、軋むように痛かった。どこへ向かっているのかも分からない。もしかしたらどこにも向かっていないかもしれない。
「ま、待って。創介さん、待ってくださいっ!」
怖くなって声を振り絞った。ようやく立ち止まり、私に振り返った創介さんの表情は心をどこかに奪われてしまったようだった。
「乗れ!」
何も言葉はくれない。その代りに乱暴に創介さんの車に放り込まれる。
「創介さん、どこに行くの?」
運転席に乗り込んだ創介さんは、私をちらりとも見ない。何かに耐えるように唇を固く閉じ、ただ前だけを見ていた。自然と上がるスピードに、身体が恐怖を覚える。
「創介さんっ」
ただハンドルを握る創介さんに、私の声はきっと届いていないのだろう。私はただ助手席で身体を強張らせることしかできなかった。
夜の道路を走り抜け滑り込むように止まった先は、いつか来た駐車場だった。
――疲れて一人になりたい時、よく来るんだ。
そう教えてくれた日の創介さんを思い出す。
急ブレーキの反動で、身体が一瞬浮いた。悲鳴を上げたようなブレーキ音が消えると、創介さんはハンドルに置いた両手に額を載せた。
「創介さん――」
「どうして、理人といた? 理人と、何をしていた」
呼びかけた声は、もうずっと聴いたことのない創介さんの低く乾いた声で遮られた。
「理人って、榊君のことですよね? 十二月に新しくバイトとして入って来た人で。今は一緒に働いています。それだけです」
「じゃあ、あれは何だ? どうして抱きしめられていた? あいつに、何を言われた!」
創介さんがハンドルから顔を上げる。狭い車内を創介さんの怒号が切り裂いた。こんなにも激しい怒りをぶつけられ、大きな声で怒鳴りつけられたのは初めてだった。勝手に震えてしまう身体のまま、ただ創介さんを怯えるように見た。
「雪野、答えろ! どうして、何も答えられない?」
運転席から創介さんの手が伸びる。乱暴に掴まれた肩は、あまりの力の強さに鋭い痛みに襲われた。
「そ、創介さん……っ」
こうして会えたのはあの旅行の日以来なのに、目の前にいる創介さんは、ただ私に怒りをぶつけてくるだけだった。でも、私の肩を掴む手が震えているのに気付いた。
恐る恐る、でも、真っ直ぐに創介さんを見つめた。その目は酷く揺れていて、怒りの裏に怯えがあるのが透けて見えて。苦しそうに呼吸を繰り返している姿は、むしろ何かを怖がっているようだ。
「創介さん……っ」
それが何なのか分からないけれど、抱きしめずにはいられなかった。
「創介さん、聞いて」
創介さんも震えている。抱き締めた瞬間にそれが伝わった。その首にきつく腕を回し、創介さんの背中と頭を懸命に引き寄せる。
「榊君とはまだ知り合って一か月くらいなんです。私にとっては、一緒に働く仕事仲間です。それ以上の関係なんてない。だから落ち着いて……」
私の声が創介さんに届いているのか分からない。それが怖かったけれど、何度もその濡れた黒髪を撫でた。
「雪野……」
乱れていた呼吸が少し落ち着いて、創介さんがぎこちなく腕を私の背中に回してくれた。それは、初めて抱きしめるみたいにたどたどしくて、私の胸を締め付けた。落ち着かせるように、今度はその背中をさする。
「――悪かった。乱暴にして」
「ううん。大丈夫です」
創介さんの大きな身体が、しがみつくみたいに私を抱きしめた。
私の肩をそっと掴むと身体を離した。肩を掴んだまま項垂れた創介さんから、掠れた声が漏れ出る。
「……あいつに、好きだとでも言われたか? だから、抱きしめられていたのか?」
どう答えればいいのだろう。こうして言葉に詰まることが答えになってしまうというのに、愚かな私は何も言えないままだった。
「ご、ごめんなさい――」
「いや、俺がおかしいんだ。俺には、おまえにこんな風に責める資格はないのにな……」
創介さんは俯いたままで、その表情を見ることはできない。自嘲気味に呟かれる言葉はそのまま私の胸に突き刺さる。
「二人の姿を見て、何かを考える前に、我を忘れて取り乱した」
「創介さん――」
「おまえには、一番会わせたくない男だったから」
「え……?」
創介さんは、確かに、榊君を見て『理人』と言った。創介さんは榊君を知っている――。
「――理人は、俺の弟だ」
私の肩から手を離し、運転席に投げ出すように身体を沈めた創介さんが、目を閉じてそう言い放った。その言葉をその意味のままに受け取ることが出来なくて、ただ創介さんを見つめた。
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