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第二部
立ちはだかる試練 11
しおりを挟むそれから数日後。鳴り出した電話に、びくっと肩が上がった。取った受話器の向こうから聞こえて来た声に、何かを考える前に緊張した。身体は、本当に正直だ。
(――この前お話した講演会のことなんだけれど、雪野さん、来てもらえないかしら。突然来られなくなってしまった方がいて。ああいう会合は、出席者が多ければ多いほどいいのよ。お願いできる?)
それは、栗林専務の奥様からだった。
その会合は、明日だという。かなり急な誘いだった。急だからこそ、よほど困っているのだろう。
明日なら、急ぎの仕事はない――。
あのお茶会でのことが一気に蘇って来て躊躇ったけれど、困っている時には助けるべきだと思った。でもそれは、ただの親切心からだけではない。
ここで栗林専務の奥様に応えておけば、創介さんのためにもなるかもしれない――。
そう思ったからだ。
「分かりました。私でお役に立てるなら、ぜひ、出席させてください」
心を決めて、そう答えた。
「――また、休み取りたいって?」
「本当に、申し訳ありません」
翌日、私はまた係長に頭を下げる。
あのお茶会から、まだ一週間と少し。
係長がそう言うのも仕方がない。
「……でも、今日の午後だけなんだね?」
「はい、午後からお休みいただければ」
栗林専務の奥様の話によれば、都内のホテルで午後2時開始ということだった。だから、午前中に仕事をしてから向かっても十分間に合う。
「本当に、ご迷惑おかけして、すみませんっ」
もう一度深く頭を下げた。
「分かったよ」
本当に、仕事のこと考えなければいけない。このままでは家庭のことも仕事も、どちらにも迷惑をかけてしまう。自分の席に戻ってから、ふっと息を吐く。
この仕事は、地味で細かなことが多くて、決して楽しいと思えるものではない。でも、していることが少しでも誰かの役に立っているという感覚がある。
もう少し、働きたいと思っていたけれど……。
創介さんは私が働くことを賛成してくれていた。でも、もうあまり考える時間は残されていなのだと悟る。
会合当日、午前中で仕事を切り上げ、電車に乗り会場へと向かった。
『恵まれない子供たちを支援する団体の名誉理事の方の講演と、出席者の女性たちが集まっての立食パーティ―みたいなものだから。会場はホテルだしすべてホテルの方たちがしてくれます。今度はあなたが何かしなくちゃいけないっていうことはありません。ただ、来てくだされば大丈夫よ』
栗林さんからは、そんな説明を受けただけだ。急な話だったから、正式な案内状ももらっていない。場所と時間を教えられただけだ。
他に、何か気を付けておくことはないか。初めての場所だ。前回の失敗を繰り返さないように出来るだけ情報を得ておきたいと思って奥様に聞いてみたけれど、服装さえきちんとしていれば、気軽な気持ちで来てくれればいいと言われただけだった。
開催日をヒントに何か情報は得られないかと自分でもインターネットで調べてみた。でも、それらしきものはヒットしなかった。情報を得るにはあまりにも時間がない。もしかしたら、本当に限られた人にだけ出席が許された会合で、セキュリティー上、大々的には公表されていないのかもしれない。
何が起きても動じないように――。
そう身構えることくらいしか出来なかった。
立食パーティーもあると聞いていたから、少し明るめのベージュのワンピースにセットのジャケットを羽織り、真珠のアクセサリーを身に着けた。
開始時刻十分ほど前に、会場に到着した。都心の高級ホテルの大広間、受付を探している中で何か違和感を感じる。
どうして、みんな、着物を着ているのだろう――。
既に会場に入っている人も、同じように受付に向かう人たちも、誰もが着物を着ていた。よく分からないことの不安が込み上げながら、受付へと向かう。
「栗林様からご招待を受けている、榊雪野と申しますが――」
栗林専務の奥様から、受付で自分の名前を告げればいいようにしておくと言われていた。
「はい、うかがっております。では、こちらを……あの――」
受付の方がこの日の予定表を私に渡そうとした時、何かを言いづらそうにしながら口を開いた。
「本日は、お着物着用での出席をお願いしていたのですが、お聞きになっていないですか?」
「……え? そうなんですか?」
だから、皆、着物を――?
「はい。本日の講演をなさる宮川史子様のご提案で、日本の文化としてこれからも着物というものを日本女性として伝えて行こうという趣旨に皆様御賛同されて、そのような形になっております」
着物なんて、十分後には始まろうという今からではどうしようもできない。
「着物の着用は必須ですか? それとも、この服装でも参加できますか?」
「……ちょっと、主催者の方に確認してみますが。ただ、本日の一番の趣旨になるので――」
会場入り口のこの日のイベント名が書かれていた。
『日本女性として、世界に、そして未来に伝える、着物文化』
見渡す限りの着物を着た女性たちの私を見つめる視線に、ふっと立ちくらみを起こしそうになる。
「――あら、雪野さん……創介さんの奥様」
会場の方から、自分を呼ぶ甲高い声がした。それは、栗林専務の奥様だった。
「雪野さん、どうなさったの? 何か問題でも?」
落ち着いていて気品ある着物を着こなした奥様が、こちらへと向かって来る。
――あの方、もしかして、最近ご結婚された、榊創介さんの奥様?
栗林専務の奥様の声で、そんな周囲からの囁き声と視線が届く。聞こえなくていいものばかり聞こえて来て、余計に身体を強張らせてしまう。
「あの、榊様のお召し物のことで……。お着物を着用することを御存じなかったみたいで」
受付の方が私の代わりにそう栗林専務の奥様に伝えていた。それを聞きながら、頭の中でどうするべきか考える。
「本当に? お伝えしましたよね? 服装だけはきちんと決まりを守ってくださいと。あら、それとも、お着物お持ちじゃなかった? それならそう言ってくだされば、私の方で準備してさしあげたのに。雪野さんはまだお若いから、お着物にはなじみがないのね」
耳に響くその声に、思わず目を瞑る。一体私をどうしたいのか。その理由や目的は分からないけれど、とにかく、この場で恥をかかせたいのだということは分かった。ここで私がどう反論したところで、状況を悪くする。創介さんに余計に恥をかかせることになる――。
目まぐるしく頭の中で自分がどうするべきか考えを巡らせる。その間にも、何が起きたのかと、私たちを見つめる人が増えて行く。この時私には、すべての人たちの視線が冷ややかなものに見えてしまった。
このまま、会合には参加せずに帰る方がいい――?
でも、この場にいる人たちに私が創介さんの妻だと知られてしまった。
逃げるように帰ったりしたら、どう思われる? それこそ、みっともないのでは――?
ちっぽけな私に、答えなんて出ない。
ちゃんとしないと。考えろ、考えろ――。
泣きたくなる気持ちを必死に奮い立たせていると、柔らかな声が耳に届いた。
「――いったい、どうなさったの?」
その声に顔を上げる。そこにいたのは、本当に心配そうな顔をした着物を着た女性――二度だけ見たことがある、宮川凛子さんだった。
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