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第二部
繋がっていく絆【side:創介】 4
しおりを挟む「千賀子さん、あなたを妊娠する前から、ずっと痩せ気味でね。今思えば過度なストレスも原因だったと思うわ。あなたのお父様のせいで心労もあったでしょう。食も細くて。ときどきたちくらみやめまいなんかもあったみたい。そんな身体で創介を妊娠して――」
祖母が窓の外に視線を移す。
「それはもう、大変な妊娠中だった。つわりは酷いし、貧血は進むし。切迫早産にもなって、何度も入院していたわね。それでやっと出産の日を迎えたんだけれど、貧血を持っていたのもあって出産時の出血が多くて。それで余計に産後の回復が進まなかった」
貧血――。その言葉に、思考が止まる。
母は、そんなに身体に負担をかけて俺を産んだのか。
「結局、そのまま大きな病にかかってしまって。でも、出産の負担が直接的な原因かどうかなんて分からない。あなたのお母様がそういう運命だったのかもしれないしね。だから、創介には詳しいことを話せなかった。こんな話をしたら、自分を産んだせいだなんて思わせてしまうと思ってね」
少なくとも、妊娠して出産しなければ。身体をそれ以上に痛めつけなくて済んだかもしれない。
「それに、あなたのお母様は、あなたが生まれた時本当に幸せそうな顔をしていたから、余計に変な誤解をさせたくなかったの……って、創介、聞いてるの?」
「あ、ああ。聞いてる。話してくれて、ありがとう」
俺は、おもむろに立ち上がる。
「じゃあ、今日は失礼するよ。今度は雪野と来る」
「え……っ? もう?」
驚く祖母をそこに残したまま、榊の家を出た。
神原から雪野が倒れたと聞いた時の、身体全部が震えるような、身体中の血がすべて引いていくような、あの生々しいまでの恐怖が俺にインプットされてしまった。思い出すだけで、震えてしまう。
タクシーの窓ガラスに頭を預けて目を閉じても、雪野がいつも俺に見せる笑顔とさっき病室で見た青白い顔が交互に浮かんで消えて行く。
怖いのだ。怖くて、仕方がない。
俺は見て、知っている。人の命の儚さを。それを思い出したのだ。
流れゆく車窓が雪野のいる病院へと近付いていくけれど。こんなにも雪野に会うのが怖いと思うのは、初めてかもしれない。
会いたくてたまらいくせに。
今すぐあの身体を抱きしめて雪野はちゃんとここにいると実感したいのに、雪野の前で全然取り繕えない。笑顔一つ、見せてやれない。
面会時間終了の一時間前に、雪野の病室に着いた。
夕飯は食べた後みたいで、個室の部屋は薄暗い。
既に疲れ切っていた身体は鉛のように重かった。それでも、なんとか表情を作る。
「――雪野」
返事はなかった。
「雪野……」
ベッドについている明かりが灯っているだけの室内。雪野は目を閉じていた。
寝てる、のか……。
おそるおそる傍にいくと、小さな寝息が聞こえた。そのことにホッとしている自分がいる。椅子に腰を下ろし、寝ているのをいいことに雪野の顔に自分の顔を近付けた。恐ろしいほどに透けてみえる肌。
結婚してからずっと苦労をかけた。目に見えて痩せた時もあった。緊張ばかりを強いて、それでも雪野は頑張って来た。
小さな頭をそっと撫でる。触れるだけで胸がいっぱいになる。
雪野、ごめん。今日、おまえを傷付けたよな――。
あんなに嬉しそうにはしゃいでいた顔を、俺が一瞬にして曇らせた。
じっと眠る顔を見つめていたから、気付いてしまった。微かに、頬に涙の筋が乾いた跡がある。
ごめん。でも俺は、おまえを失いたくない。――。
頬に触れた先にある瞼がぴくりと動く。
そして、それがゆっくりと開いた。
「創介さん、来てくれたの? お仕事は? 大丈夫?」
「いいから、そのまま横になっていろ」
俺を視界に捕らえて、すぐに起き上がろうとした雪野を制止する。小さなライトだけが灯る静かな部屋で、俺を見上げる雪野を見つめた。
「気分はどうだ?」
「うん。もう、本当になんともない。夕ご飯を食べて、何もすることなくて退屈してたらうとうとしちゃって……」
俺をうかがうように、それでいて笑おうとして。だからだろうか、その表情はどこか切なく見えた。
「――雪野」
「ん?」
笑顔を向ける雪野に、問い掛けた。
「自分が貧血気味だってこと、知っていたのか?」
何年も一緒にいて、こうして夫婦になっても俺は知らずにいた。
「……え?」
見せていた笑顔が消える。そして、またその表情に笑みを戻した。
「ああ……うん。でも、職場の年に一度の健康診断で、少し引っかかったっていう程度のことで。特に定期的に治療が必要とかそういうものじゃなかったから、自分でもあまり気にしたことなくて。貧血が進んでいたなんて気付かなかったよ」
結婚して、酷いストレスと心労を与えた。
それに、今回の妊娠――。
「これからはちゃんと自覚して気を付けるね。食べるものにも気を使わなきゃ。料理も頑張る。それにね、妊婦でも飲める薬もあるんだって。それ以外にも、いろいろ自分でも頑張れることはあるみたいだから――」
そんな風に微笑む雪野を見ていたら、耐えられなくなった。
「頑張る頑張るって、これ以上頑張ったら、おまえはどうなる?」
また――。
こんな風にしか言えない。
「創介さん……」
「……ごめん」
雪野の視線がずっと俺の目に向けられているのが分かる。
言葉で隠した俺の本当の心を、必死で読み取ろうとしているみたいに。それから逃げるように、視線を逸らした。
「眠かったんだろ? 眠いなら、もう寝た方がいい。雪野の顔を見に来ただけだから。明日の朝、迎えに来るからな。今日は、ゆっくり眠れ」
「――創介さん! 夕飯……夕飯は、ちゃんと食べましたか?」
俺が腰を上げようとした瞬間に、雪野の細い指が俺の腕を掴んだ。ベッドに横たわっている人間のものとは思えない力だった。
「まだ食べていない。でも、俺も子供じゃないんだ。飯くらい適当に食べるから」
「そう、だよね……」
その質問に答えるけれど、雪野の真意は、きっとそこにあるわけじゃない。
「創介さん」
もうそこに笑顔はない。さっきまで懸命に作っていたであろう笑顔は完全に消え去って、ただ不安そうな目で必死に俺を見上げている。
「――帰る前に、抱きしめてくれますか?」
その声を聞いた時、激しい痛みが胸を貫いた。雪野にそんなことを言わせているという事実が、どれだけ自分が雪野にいつもと違う態度を取っているのかを思い知らせる。
「雪野……」
薄い肩を引き寄せ抱きしめる。そうしたら、雪野の腕がきつく俺の背中を締め付けた。
「――今日は、心配かけてごめんなさい」
雪野が息をひそめるように、俺の腕の中で言った。
どうして、俺は、雪野に謝らせているのか――。
本当なら喜びに溢れるはずの日で。幸せを一緒に噛みしめる日のはずで。
雪野が倒れたりしなければ、俺はもっと、嬉しいと、心からその喜びに浸れたのだろうか。
結婚したら、子供がうまれて。皆が当然のことのように思うことを、今の俺は当然のように思えない。
「謝らなくていい。おまえは何も悪くないよ……」
そっと雪野の背中を撫でる。
そう。雪野は何も悪くない。悪いのは、起きてもいないことを心配して不安になり過ぎている俺だ。
頭では分かっている。理屈でも理解できる。なのに、心が言うことを聞かない。
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