闇を泳ぐ

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第二章 たった一つの心の支え

―メイ―⑯

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 八王子へと戻る電車の中で、私は眠ってしまった。

「メイ、そろそろ着くから起きて」
「ん……」

すぐ近くから聞こえる兄の声で目が覚めた。

「メイ」

遠慮がちな手が私の肩を揺らす。なんだかとても心地いい。

身体の右半分がとても暖かいのだ。それに、手に触れている人肌から離れがたい……。

「メイ」

もう一度呼ばれた声で完全に目を開けた。そして、自分が何をしていたのかに気付く。

「わっ」

兄の肩にもたれかかり、そしてその腕に自分の腕を巻き付けていた。慌てて兄の身体から離れる。

「ご、ごめんなさい。私……」

幸いなことに私は端の席だった。勢いよく離れても誰にも迷惑をかけずに済んだ。

「大丈夫だよ。随分気持ちよさそうに寝てたな。疲れたんだろう?」

こんなに熟睡したのは久しぶりだ。結と同じ部屋では、いつも浅い眠りだった。
 恥ずかしくて俯く私の頬に、兄が触れる。

「寝跡、ついちゃったな……」
「う、うそっ」

慌てて兄が触れたのと同じ場所を自分の手のひらで隠す。

「やっぱり、メイはまだ子どもみたいだ」

そう言って微笑む兄に、唇を噛む。そうじゃないって言いたいけど、これだけ寝込んでしまった後じゃなんの説得力もない。おまけに寝跡まで付けて。
 
 身体半分で感じた兄の温かさが私を包み込んで、強張りに強張った私の身体を溶かしていく。





 どんなに心の中で抵抗してみてもこの時はやって来る。

 何度も「いい」と断ったのに、心配だからと言って、結局兄は私の住む団地の前まで送り届けて来た。中途半端な街灯が、より周囲を薄暗くしているように感じる。

「メイ」
「ん?」

私を呼ぶ声が、今までのものと違うと分かった。

「本当に大丈夫?」

その目が鋭く私を射抜く。

「俺に言いたいこと、あるんじゃないか?」

言いたいこと。

結に嫌がらせされていること?
圭太が怖くて吐き気がすること?
学校で一人だってこと?

そのどれも言いたいことなんかじゃない。私が制服で来たことも、髪留めをしていないことも、兄は何も触れて来なかった。でも、きっと何かを感じている。

「言いたいこと、あるよ。また、お兄ちゃんと会いたいってこと」

私は笑って誤魔化した。本当は少しも笑える心境じゃない。兄と離れてあの家に戻ることが、苦しくて息が出来なくなってる。こんなにも楽しい時間を知ってしまったら、余計にに辛くなる。

「そんなことじゃなくて。明らかに今日のおまえはこの前より疲れてみえた。離れて暮らしているからこそ気付くこともある」

私の笑顔なんかじゃ騙されてくれないみたい。でも、私には私の意思がある。本当に、言いたいことなんてない。

「大丈夫。でも、また会いに来て。私、さ……」
「なに?」

これくらいなら、言ってもいいだろうか。困らせることにならないだろうか……。

「さ……寂しいから」

言ってしまってすぐに後悔した。心で思っているだけなら我慢できたのに、言葉にしてしまったらそれがそのまま自分へと跳ね返って来る。堪えていた感情が決壊してしまいそうになる。

「メイ……」
「お兄ちゃんだって寂しいでしょ? だから同じだよ。ただそれだけ」

決壊を堰き止めるように口を懸命に弓なりにする。これでちゃんと笑顔になっているだろうか。歪んだりしていないだろうか。

「俺だって同じ。だから、寂しいって言葉くらい、素直に言えよ」
「うん。じゃあ、もう行って」

これ以上兄の傍にいたら、きっと私は泣いてしまう。本当はもう引き留めたくて、私をどこかに連れて行ってほしくてその身体に今にもすがりついてしまいそうになる。

「……じゃあ、また来るから」
「うん」
「元気でいろよ」
「うん」
「本当に……」

いつまで経ってもここから離れない兄の背中を思いっきり押した。

「電車なくなるよ! 早く行かなきゃ」

押した時に触れた兄のTシャツ。一瞬、離してしまえなくてほんの少し掴んでしまった。

「メイ?」
「早くっ! じゃあね! バイバイ!」

勢いよく兄に背を向けて家へと走り出した。私、あのまま兄の服を掴んでしまいそうになった。

一体、何しようとしたの――?

溢れ出す涙に混乱する。

たまにしか会えない兄を心配させるようなこと……。

どんどん弱くなっていく自分が許せない。暗闇だって平気で生きて来られたのに。兄の温もりを知ってから、いろんなことに弱くなった。苦しくて、止まることのない涙が私の身体を痛めつける。

この先にある扉の向こうに踏み出す力をください――。

圭太の顔も結の顔も、全部どうってことない。大丈夫。そう唱える自分をあざ笑うかのようにまたも吐き気が襲う。ふとしたことがきっかけでこうして蘇る圭太の匂いに、喉の奥から苦味が押し上げて来て。咄嗟に吹き出したものを団地脇の草むらに戻してしまった。
 どうしようもなく惨めな自分に、泣きたくなるほど失望した。

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