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第一章
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僕らは黙々と作業を続けた。
途中伊織の様子を確認すると、彼女の塗った障子はどれも四隅の黄ばみが落ちていなかったので、僕はおばあちゃんにスポンジをもらい、彼女の塗り残した障子を塗りなおした。彼女は家事だけではなく、こういった細かい作業も苦手なようだ。
模範的な日本家屋ということもあり、雅田家には多くの障子が設置されており、すべての障子を塗り終えた頃には夕方になっていた。
塗り漏れの最終確認を終えたころ、ちょうど仕事を終えた真央さんが来訪した。
約束通り、茄子のはさみ揚げを温めなおし真央さんに提供した。真央さんは縁側に腰掛け、上品な手つきで料理を口にした。おばあちゃん同様大げさな反応で喜んでくれて、ようやく今日の任務が終わったことに胸をなでおろした。
それから真央さんが購入してきたケーキを食べて、少し雑談をしたところで帰宅することにした。帰り際おばあちゃんは、昼間食べたきゅうりの浅漬けを容器に入れて持たせてくれた。
「今日は家のことまでしてもらって本当にありがとうね。茄子もすごくおいしかったよ。またみんなでお昼ご飯食べようね」
おばあちゃんは、純朴な笑みを浮かべながら僕の手を取った。しわの刻み込まれたその手はずっしりと重みがあり、とても柔らかくて暖かかった。
夕方だというのに日は陰る気配がなく、駅前の広場には多くの人がたむろっていた。
広場の中央には一定の間隔で噴き上がる噴水があり、子供たちが頭上から断続的に降り注ぐ水の粒を避けながら走り回っていた。舞い上がる噴水の飛沫は、太陽の光を浴びて煌めいていた。
駅ビルの中央に設置されている英字の壁時計を見ると、時刻は六時を回ったばかりだった。あと二十分ほどで、僕が乗る電車が到着する。僕と伊織は、広場に設置されてあるベンチに座りながら時間を潰していた。
「わざわざ送ってもらわなくてよかったのに」
「私だって、好きで来たわけじゃないわよ」
帰り際、真央さんの余計なおせっかいで、伊織が僕を送るはめになってしまったのだ。せっかくの休みに、二人きりになる時間が取れなかったことに気を使ってくれたらしい。
「本当に今日は参ったよ。気が休まる暇がなかった」
「まさか歩が茄子を食べられないなんて。何でもっと早く言わないのよ」
それは君が電話で、「女」を使ったからだとは口が裂けても言えない。
「次は何を作ってもらおうかしら」
「次は君が作らないとだめだよ。それでおばあちゃんを安心させてあげることが、本来の目的でしょう」
「それはそうだけど、私、今日大根しかおろしていないから、まだ料理の技術が上がったとは言えないじゃない」
たしかに作り方を熱心にメモに取っていたとはいえ、一連の工程を彼女が手際よくこなせるとは思えない。ということはこれから先、僕は彼女の気まぐれでとんでもなく難しい料理を作らされる可能性があるのだろうか。
「気長に行こうよ。おばあちゃんも喜んでいたわけだし」
「そんな他人ごとみたいに……。僕がどれだけ大変だったことか」
すると伊織は、噴水広場の周りを駆け回る子供たちを、優しいまなざしで見つめながらぽつりとこぼした。
「――でも、私は歩と料理ができて楽しかったよ」
何気なく発したであろうその言葉には、不思議と演技という偽りの温度は感じず、走り回る子供たちに目を細めている彼女を見て息が詰まりそうになった。
「歩はどうだった?」
伊織が微笑みながらこちらに向き直った。西日が彼女の横顔を照らし、髪が金色に輝いている。彼女は光の中にいるようだった。
「……おばあちゃんも喜んでくれたし、まあまあの一日だったかな」
僕が言うと、彼女はにやりと口角をあげ、素直じゃないねぇ、と言った。
電車の出発時刻が迫ってきたので、駅員に定期を見せ改札を通り抜けた。
振り返ると、伊織が改札の手前に立ってこちらを見ていた。僕と目が合うと、彼女は微笑んで片手を上げた。
駅の中の喧騒で声は聞こえなかったが、口の動きで彼女が、バイバイと言ったのが分かった。周りを気にしながら、僕も控えめに手を振り返した。
途中伊織の様子を確認すると、彼女の塗った障子はどれも四隅の黄ばみが落ちていなかったので、僕はおばあちゃんにスポンジをもらい、彼女の塗り残した障子を塗りなおした。彼女は家事だけではなく、こういった細かい作業も苦手なようだ。
模範的な日本家屋ということもあり、雅田家には多くの障子が設置されており、すべての障子を塗り終えた頃には夕方になっていた。
塗り漏れの最終確認を終えたころ、ちょうど仕事を終えた真央さんが来訪した。
約束通り、茄子のはさみ揚げを温めなおし真央さんに提供した。真央さんは縁側に腰掛け、上品な手つきで料理を口にした。おばあちゃん同様大げさな反応で喜んでくれて、ようやく今日の任務が終わったことに胸をなでおろした。
それから真央さんが購入してきたケーキを食べて、少し雑談をしたところで帰宅することにした。帰り際おばあちゃんは、昼間食べたきゅうりの浅漬けを容器に入れて持たせてくれた。
「今日は家のことまでしてもらって本当にありがとうね。茄子もすごくおいしかったよ。またみんなでお昼ご飯食べようね」
おばあちゃんは、純朴な笑みを浮かべながら僕の手を取った。しわの刻み込まれたその手はずっしりと重みがあり、とても柔らかくて暖かかった。
夕方だというのに日は陰る気配がなく、駅前の広場には多くの人がたむろっていた。
広場の中央には一定の間隔で噴き上がる噴水があり、子供たちが頭上から断続的に降り注ぐ水の粒を避けながら走り回っていた。舞い上がる噴水の飛沫は、太陽の光を浴びて煌めいていた。
駅ビルの中央に設置されている英字の壁時計を見ると、時刻は六時を回ったばかりだった。あと二十分ほどで、僕が乗る電車が到着する。僕と伊織は、広場に設置されてあるベンチに座りながら時間を潰していた。
「わざわざ送ってもらわなくてよかったのに」
「私だって、好きで来たわけじゃないわよ」
帰り際、真央さんの余計なおせっかいで、伊織が僕を送るはめになってしまったのだ。せっかくの休みに、二人きりになる時間が取れなかったことに気を使ってくれたらしい。
「本当に今日は参ったよ。気が休まる暇がなかった」
「まさか歩が茄子を食べられないなんて。何でもっと早く言わないのよ」
それは君が電話で、「女」を使ったからだとは口が裂けても言えない。
「次は何を作ってもらおうかしら」
「次は君が作らないとだめだよ。それでおばあちゃんを安心させてあげることが、本来の目的でしょう」
「それはそうだけど、私、今日大根しかおろしていないから、まだ料理の技術が上がったとは言えないじゃない」
たしかに作り方を熱心にメモに取っていたとはいえ、一連の工程を彼女が手際よくこなせるとは思えない。ということはこれから先、僕は彼女の気まぐれでとんでもなく難しい料理を作らされる可能性があるのだろうか。
「気長に行こうよ。おばあちゃんも喜んでいたわけだし」
「そんな他人ごとみたいに……。僕がどれだけ大変だったことか」
すると伊織は、噴水広場の周りを駆け回る子供たちを、優しいまなざしで見つめながらぽつりとこぼした。
「――でも、私は歩と料理ができて楽しかったよ」
何気なく発したであろうその言葉には、不思議と演技という偽りの温度は感じず、走り回る子供たちに目を細めている彼女を見て息が詰まりそうになった。
「歩はどうだった?」
伊織が微笑みながらこちらに向き直った。西日が彼女の横顔を照らし、髪が金色に輝いている。彼女は光の中にいるようだった。
「……おばあちゃんも喜んでくれたし、まあまあの一日だったかな」
僕が言うと、彼女はにやりと口角をあげ、素直じゃないねぇ、と言った。
電車の出発時刻が迫ってきたので、駅員に定期を見せ改札を通り抜けた。
振り返ると、伊織が改札の手前に立ってこちらを見ていた。僕と目が合うと、彼女は微笑んで片手を上げた。
駅の中の喧騒で声は聞こえなかったが、口の動きで彼女が、バイバイと言ったのが分かった。周りを気にしながら、僕も控えめに手を振り返した。
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