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第一章
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爆発するような雷の音がして、それが始まりの合図のように、廊下の窓を雨粒が叩く音が聞こえた。
その音は次第に感覚が短くなり、瞬く間に校舎全体が重みのある雨音の轟音に包まれた。外は次第に、傘を差していても濡れてしまいそうなくらい雨の勢いが増し、売店前の大楠の葉が風で踊るように揺れていた。
「降ってきたわね」
伊織はおもむろに、かばんの中から折り畳み傘を取り出した。僕はただ窓の向こうを見ていた。窓を滑り落ちる雨の滴も最初は一筋だったが、それが幾重にも重なって交わり一つの川のような流れを作っていた。蛍光灯が切れかかっているのか、明滅している灯りが廊下のウレタン樹脂床材に反射して点滅しているように光っていた。
「歩、傘持ってきた?」
その平然とした態度に、僕は歯がゆいいらつきを覚えた。
「さっきの、何?」
自分でも驚くほど低い声だった。
「……ちょっと、いろいろあって」
伊織は視線をそらし、言い訳をするように言った。
「告白されたの?」
「まあ、そんなところ」
「いつ?」
「……随分前から、何度か」
随分前というのは、きっと僕たちが出会う前からという意味だろう。校内では僕と伊織が交際しているということを皆が知っていたので、そんな風に言い寄られていたなんて全く気付かなかった。
「何で言ってくれなかったの?」
「……」
伊織は答えなかった。自分でも、何故こんなに苛立っているのか分からなかった。
「君と僕は恋人関係じゃない。だから君に好きな人ができても、告白されてもかまわない。でも、そのことで僕が一方的に被害を受けるのは違うと思う」
「……そうだよね」
「僕と彼は同じ企業体験だったんだ。彼の素行が悪かったのは君が原因だったんだね」
井坂の犯した事件を知らない伊織はしばし考えるような顔つきをしていたが、その仕草も無性に腹が立った。
「今だって反省しているふりをしているだけじゃないの。君は演技がうまいからね」
言いすぎている。そんな自覚はあったが止められなかった。
僕の言葉に、伊織が顔を上げた。口が真一文字になり、その大きな瞳が溺れるように潤み始めていた。
「そんな、ひどいよ……」
校舎の壁を激しく叩く雨音の隙間から、震える声が聞こえた。瞬きをした瞬間、両目から水滴が零れ落ちた。告白をした時、彼女は泣き真似の演技をしていたが、今回はどう見ても演技ではなかった。
伊織の涙を見て、途方もない罪悪感が広がった。ただ、片山さんの問いかけや、井坂の核心を突いた発言が胸の中に充満して、その罪の意識は中和された。
「今日はもう帰るよ」
伊織に背を向けて靴箱に向かった。靴を履き替え昇降口に出ると、進行を妨げるような強大な水の壁が立ちはだかっていた。雨粒が舞うように降っており、風で吹き飛ばされた木々の葉が一面に散乱していた。
「待って!」
後ろから追いかけてきた伊織は、靴も履かずに僕の隣に来た。
「……ちゃんと話し合おうよ」
「話すことなんかない」
僕は彼女を置き去りにして一歩を踏み出した。巨大な雨の雫は瞬く間に僕の半身を水浸しにした。
その瞬間に、伊織に手を掴まれた。彼女の手はひどく熱を持っていた。
「濡れちゃうよ」
伊織は折り畳み傘を僕の頭上に掲げた。子ども扱いされているようで、僕はその手を振り払って雨の中に飛び出した。
「歩!」
伊織が上履きのまま追いかけてきた。その中途半端な優しさがたまらなく鬱陶しくて、彼女を無視して歩く速度を速めた。
「お願い、待って!」
地面を叩く強烈な雨音と、空を切る風の高い音が乱舞する中でもなお、彼女の声は鮮明に聞こえた。その叫びは縁取りされているように色濃く、僕は後ろ髪を引かれるように立ち止まった。
僕らは雨に打たれながら、しばらくの間お互いを見つめ合っていた。
――僕の平穏が壊されたのは、全部君のせいだ。
そんな意味合いを込めた瞳で、伊織を見た。憎しみをすべて受け止めるように、伊織は僕から視線をそらさなかった。雨に濡れて何本か束になった髪の間から、彼女の怯えるような瞳が覗き見えた。
「今ちゃんと話さなかったら、私たち、もう終わりだと思う」
半べそをかきながら、伊織が僕に一歩近づいた。それは屋上から飛び降りようとする自殺志願者に、恐る恐る近づくような慎重な一歩だった。
「終わりでいいじゃないか。全部嘘だったんだし」
僕が吐き捨てるように言うと、伊織は距離をさらに詰めて強く僕の腕を掴んだ。突然のことに驚いていると、伊織は悲しそうな顔で首を横に振った。
「そんなことない!」
伊織が顔を歪ませながら強い口調で言った。
「歩と過ごした一ヶ月、私は楽しかった。これは嘘じゃないよ」
吐息がかかる程の距離に、彼女の整った顔があった。雨に濡れたその相貌は、僕と彼女の住んでいる世界が天と地ほども隔絶されているということを如実に表しているほどに美しかった。そんな彼女の顔を見て落胆が濃さを増した。
身の丈は分かっている。いくら過大評価しても、やはり僕と彼女では住んでいる世界がまるで違う。こんなどうしようもない僕のために、何故ここまでできるのか。何故そんなまっすぐな瞳で僕を見るのか。
逡巡した後、僕はゆっくりと彼女の手を引きはがした。
「終わりでいいんだよ。何も始まっていないんだから」
彼女を拒絶し、僕は校門に向かって歩いた。滝のような雨をぐっしょりと吸い込んで制服が重くなっていた。
「歩、待って!」
追いかけてきた伊織に肩を掴まれたが、それを乱暴に払いのけ、今度は走って校門まで向かった。手を振り払った時に彼女の顔が一瞬だけ見えたが、その時の彼女の哀願するような表情は胸に迫るものがあった。
僕は雨に煙る校内を駆け抜けた。背中越しにずっと伊織が僕の名前を呼んでいたが、今度は振り返らなかった。
その音は次第に感覚が短くなり、瞬く間に校舎全体が重みのある雨音の轟音に包まれた。外は次第に、傘を差していても濡れてしまいそうなくらい雨の勢いが増し、売店前の大楠の葉が風で踊るように揺れていた。
「降ってきたわね」
伊織はおもむろに、かばんの中から折り畳み傘を取り出した。僕はただ窓の向こうを見ていた。窓を滑り落ちる雨の滴も最初は一筋だったが、それが幾重にも重なって交わり一つの川のような流れを作っていた。蛍光灯が切れかかっているのか、明滅している灯りが廊下のウレタン樹脂床材に反射して点滅しているように光っていた。
「歩、傘持ってきた?」
その平然とした態度に、僕は歯がゆいいらつきを覚えた。
「さっきの、何?」
自分でも驚くほど低い声だった。
「……ちょっと、いろいろあって」
伊織は視線をそらし、言い訳をするように言った。
「告白されたの?」
「まあ、そんなところ」
「いつ?」
「……随分前から、何度か」
随分前というのは、きっと僕たちが出会う前からという意味だろう。校内では僕と伊織が交際しているということを皆が知っていたので、そんな風に言い寄られていたなんて全く気付かなかった。
「何で言ってくれなかったの?」
「……」
伊織は答えなかった。自分でも、何故こんなに苛立っているのか分からなかった。
「君と僕は恋人関係じゃない。だから君に好きな人ができても、告白されてもかまわない。でも、そのことで僕が一方的に被害を受けるのは違うと思う」
「……そうだよね」
「僕と彼は同じ企業体験だったんだ。彼の素行が悪かったのは君が原因だったんだね」
井坂の犯した事件を知らない伊織はしばし考えるような顔つきをしていたが、その仕草も無性に腹が立った。
「今だって反省しているふりをしているだけじゃないの。君は演技がうまいからね」
言いすぎている。そんな自覚はあったが止められなかった。
僕の言葉に、伊織が顔を上げた。口が真一文字になり、その大きな瞳が溺れるように潤み始めていた。
「そんな、ひどいよ……」
校舎の壁を激しく叩く雨音の隙間から、震える声が聞こえた。瞬きをした瞬間、両目から水滴が零れ落ちた。告白をした時、彼女は泣き真似の演技をしていたが、今回はどう見ても演技ではなかった。
伊織の涙を見て、途方もない罪悪感が広がった。ただ、片山さんの問いかけや、井坂の核心を突いた発言が胸の中に充満して、その罪の意識は中和された。
「今日はもう帰るよ」
伊織に背を向けて靴箱に向かった。靴を履き替え昇降口に出ると、進行を妨げるような強大な水の壁が立ちはだかっていた。雨粒が舞うように降っており、風で吹き飛ばされた木々の葉が一面に散乱していた。
「待って!」
後ろから追いかけてきた伊織は、靴も履かずに僕の隣に来た。
「……ちゃんと話し合おうよ」
「話すことなんかない」
僕は彼女を置き去りにして一歩を踏み出した。巨大な雨の雫は瞬く間に僕の半身を水浸しにした。
その瞬間に、伊織に手を掴まれた。彼女の手はひどく熱を持っていた。
「濡れちゃうよ」
伊織は折り畳み傘を僕の頭上に掲げた。子ども扱いされているようで、僕はその手を振り払って雨の中に飛び出した。
「歩!」
伊織が上履きのまま追いかけてきた。その中途半端な優しさがたまらなく鬱陶しくて、彼女を無視して歩く速度を速めた。
「お願い、待って!」
地面を叩く強烈な雨音と、空を切る風の高い音が乱舞する中でもなお、彼女の声は鮮明に聞こえた。その叫びは縁取りされているように色濃く、僕は後ろ髪を引かれるように立ち止まった。
僕らは雨に打たれながら、しばらくの間お互いを見つめ合っていた。
――僕の平穏が壊されたのは、全部君のせいだ。
そんな意味合いを込めた瞳で、伊織を見た。憎しみをすべて受け止めるように、伊織は僕から視線をそらさなかった。雨に濡れて何本か束になった髪の間から、彼女の怯えるような瞳が覗き見えた。
「今ちゃんと話さなかったら、私たち、もう終わりだと思う」
半べそをかきながら、伊織が僕に一歩近づいた。それは屋上から飛び降りようとする自殺志願者に、恐る恐る近づくような慎重な一歩だった。
「終わりでいいじゃないか。全部嘘だったんだし」
僕が吐き捨てるように言うと、伊織は距離をさらに詰めて強く僕の腕を掴んだ。突然のことに驚いていると、伊織は悲しそうな顔で首を横に振った。
「そんなことない!」
伊織が顔を歪ませながら強い口調で言った。
「歩と過ごした一ヶ月、私は楽しかった。これは嘘じゃないよ」
吐息がかかる程の距離に、彼女の整った顔があった。雨に濡れたその相貌は、僕と彼女の住んでいる世界が天と地ほども隔絶されているということを如実に表しているほどに美しかった。そんな彼女の顔を見て落胆が濃さを増した。
身の丈は分かっている。いくら過大評価しても、やはり僕と彼女では住んでいる世界がまるで違う。こんなどうしようもない僕のために、何故ここまでできるのか。何故そんなまっすぐな瞳で僕を見るのか。
逡巡した後、僕はゆっくりと彼女の手を引きはがした。
「終わりでいいんだよ。何も始まっていないんだから」
彼女を拒絶し、僕は校門に向かって歩いた。滝のような雨をぐっしょりと吸い込んで制服が重くなっていた。
「歩、待って!」
追いかけてきた伊織に肩を掴まれたが、それを乱暴に払いのけ、今度は走って校門まで向かった。手を振り払った時に彼女の顔が一瞬だけ見えたが、その時の彼女の哀願するような表情は胸に迫るものがあった。
僕は雨に煙る校内を駆け抜けた。背中越しにずっと伊織が僕の名前を呼んでいたが、今度は振り返らなかった。
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