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第一章
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その時突然、遠くの空から何かが墜落したような音が聞こえた。
「降ってきそうだね」
おばあちゃんはかじりかけのスイカを置いて、縁側の窓を閉めた。そして取り込んだ洗濯物を一枚ずつ畳み始めた。
「僕もやります」
「味噌作りで疲れたでしょう。ゆっくりしていて」
「いや、でも」
「伊織ちゃんの下着もあるのよ」
それを言われたらどうすることもできない。おばあちゃんはしてやったり顔で、ふふふっと笑った。
雷の音が少しずつこちらに近づいてきて、数分もしないうちに激しい雨音が聞こえ始めた。あの日と同じくらいの勢いを持ったひどい雨だった。
つけっぱなしのテレビで、速報が流れた。この町に大雨洪水警報が発令されたらしい。伊織はちゃんと、傘を持って行ったのだろうか。
「伊織ちゃんのことを、考えているんでしょう」
機械的な速度で洗濯物を畳みながら、おばあちゃんが言った。
「いえ、別に……」
「嘘おっしゃい。私は騙せないよ」
おばあちゃんは自信たっぷりに言った。動揺を表すように、雨脚がさらに強くなる。軒先から落ちる雨だれが、脈打つように聞こえた。
「伊織ちゃんと会うのが怖いかい」
「……はい」
おばあちゃんの言う通り、伊織に会うのがどうしようもなく怖かった。それは彼女が僕を威圧する時に感じる戦慄の走る怖さではなく、何かを失うような得体の知れない怖さだった。
僕の葛藤を見抜いたのか、おばあちゃんは労うような表情で、俯いている僕の顔を覗き込んだ。
「歩くんは伊織ちゃんと似ているね」
「……伊織さんと、僕が?」
そうだよ、と言っておばあちゃんは頷いた。
「同じ質問をした時、伊織ちゃんもそんな顔をしていたから」
おばちゃんは力強い瞳で僕を見つめながら言った。その目は伊織が度々見せる、あの意思の強そうな瞳と重なった。すべて見透かされている、と思った。
家を包み込む雨の膜が、薄くなってきたように感じた。地面を叩く水の礫は、起伏のない一定のリズムを保っていた。雨だれの間隔も、最初より長くなっている。
ふと、おばあちゃんは緩慢な動作で窓を少しだけ開けると、曇天の空を見上げた。
「伊織ちゃん、遅いねぇ。昼には帰ってくるって言っていたんだけど」
おばあちゃんが、わざとらしいため息を吐いた。時計はいつの間にか三時を過ぎていた。昼間だというのに、電気を点けないといけないくらい暗かった。
「雨の日は関節が痛くって、迎えにいけそうもないねぇ」
困ったねぇ、と棒読みで言いながら、おばあちゃんは腰をさすった。
「……もう、僕が行きますよ」
するとおばあちゃんは、目じりをいやらしく下げ、本当かい? と言った。実に白々しい態度である。
玄関で靴を履いていると、おばあちゃんに傘を渡された。しかし渡されたのは一本だけで、靴箱の横にある傘立てにはあと二本傘がささっている。
「そこのは、穴が開いているから使えないのよ」
僕の疑いのまなざしで気づいたおばあちゃんが、弁明するように言った。二本のうち一本にはまだ値札が付いているが、果たして本当に穴など空いているのだろうか。
「気を付けてね」
「はい」
玄関を開けると、湿った空気と、風に連れてこられた微細な雨粒が頬にぶつかった。鈍色の空を見ると、不思議と伊織との諍いがあったあの日に、立ち返ったような気がした。
僕はおばあちゃんに一礼して玄関を出た。少しだけ歩いて振り返った時、おばあちゃんはゆらゆらと手を振って微笑んでいた。僕はまた一礼をして、今度は振り返らずに学校に向かった。
「降ってきそうだね」
おばあちゃんはかじりかけのスイカを置いて、縁側の窓を閉めた。そして取り込んだ洗濯物を一枚ずつ畳み始めた。
「僕もやります」
「味噌作りで疲れたでしょう。ゆっくりしていて」
「いや、でも」
「伊織ちゃんの下着もあるのよ」
それを言われたらどうすることもできない。おばあちゃんはしてやったり顔で、ふふふっと笑った。
雷の音が少しずつこちらに近づいてきて、数分もしないうちに激しい雨音が聞こえ始めた。あの日と同じくらいの勢いを持ったひどい雨だった。
つけっぱなしのテレビで、速報が流れた。この町に大雨洪水警報が発令されたらしい。伊織はちゃんと、傘を持って行ったのだろうか。
「伊織ちゃんのことを、考えているんでしょう」
機械的な速度で洗濯物を畳みながら、おばあちゃんが言った。
「いえ、別に……」
「嘘おっしゃい。私は騙せないよ」
おばあちゃんは自信たっぷりに言った。動揺を表すように、雨脚がさらに強くなる。軒先から落ちる雨だれが、脈打つように聞こえた。
「伊織ちゃんと会うのが怖いかい」
「……はい」
おばあちゃんの言う通り、伊織に会うのがどうしようもなく怖かった。それは彼女が僕を威圧する時に感じる戦慄の走る怖さではなく、何かを失うような得体の知れない怖さだった。
僕の葛藤を見抜いたのか、おばあちゃんは労うような表情で、俯いている僕の顔を覗き込んだ。
「歩くんは伊織ちゃんと似ているね」
「……伊織さんと、僕が?」
そうだよ、と言っておばあちゃんは頷いた。
「同じ質問をした時、伊織ちゃんもそんな顔をしていたから」
おばちゃんは力強い瞳で僕を見つめながら言った。その目は伊織が度々見せる、あの意思の強そうな瞳と重なった。すべて見透かされている、と思った。
家を包み込む雨の膜が、薄くなってきたように感じた。地面を叩く水の礫は、起伏のない一定のリズムを保っていた。雨だれの間隔も、最初より長くなっている。
ふと、おばあちゃんは緩慢な動作で窓を少しだけ開けると、曇天の空を見上げた。
「伊織ちゃん、遅いねぇ。昼には帰ってくるって言っていたんだけど」
おばあちゃんが、わざとらしいため息を吐いた。時計はいつの間にか三時を過ぎていた。昼間だというのに、電気を点けないといけないくらい暗かった。
「雨の日は関節が痛くって、迎えにいけそうもないねぇ」
困ったねぇ、と棒読みで言いながら、おばあちゃんは腰をさすった。
「……もう、僕が行きますよ」
するとおばあちゃんは、目じりをいやらしく下げ、本当かい? と言った。実に白々しい態度である。
玄関で靴を履いていると、おばあちゃんに傘を渡された。しかし渡されたのは一本だけで、靴箱の横にある傘立てにはあと二本傘がささっている。
「そこのは、穴が開いているから使えないのよ」
僕の疑いのまなざしで気づいたおばあちゃんが、弁明するように言った。二本のうち一本にはまだ値札が付いているが、果たして本当に穴など空いているのだろうか。
「気を付けてね」
「はい」
玄関を開けると、湿った空気と、風に連れてこられた微細な雨粒が頬にぶつかった。鈍色の空を見ると、不思議と伊織との諍いがあったあの日に、立ち返ったような気がした。
僕はおばあちゃんに一礼して玄関を出た。少しだけ歩いて振り返った時、おばあちゃんはゆらゆらと手を振って微笑んでいた。僕はまた一礼をして、今度は振り返らずに学校に向かった。
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