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第一章
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あの日、伊織に対してどうしてあんなにも怒ってしまったのか。それは単純な嫉妬だけではない。
それは今心の中で確認するのではなく、伊織に対して言わなければならない答えだった。
伊織は怖がりながらも、僕と話し合いの場を設けようとしていたのに、いつだって僕は聞く耳すら持たなかった。そんな罪の意識が、僕の足を動かしていた。
気になることや知りたいことは山ほどあったが、今はどうでも良かった。
胸の中に取り返しのつかない罪悪感が広がっていて、五体投地で一刻も早く謝りたかった。そんな思いが、歩く速度を速めた。履いていたチノパンの裾も、靴下も靴も濡れてしまったが、本当に濡れているのはそんな場所ではなかった。
校舎に足を踏み入れた時、飛散している落ち葉や風の音もあの日と全く同じように見えた。自然と傘を持つ手に力が入り、僕は昇降口へと歩いた。
通路は閑散としており、校舎の窓には明かりが一つもついておらず、下駄箱の照明だけが頼りなく灯っていた。
その昇降口の屋根の下に、伊織がいた。
伊織はずっと空を見上げており、雨が止むのを待っているようだった。その姿を見て、急激に脈が速くなった。
僕は傘で自分の顔を隠しながら昇降口に向かった。伊織が一度だけこちらを見たが、すぐにまた空を見上げた。
彼女の顔が鮮明に見える位置で、立ち止まった。ゆっくりと顔を上げると、雨の壁をはさんで、そこで伊織と目が合った。彼女は僕を視認すると、息を呑むような表情を浮かべた。
「え、歩? なんで……」
「……迎えに来たよ」
伊織と目を合わせずに言った。彼女はことの状況がつかめていないようだった。
そういえば何故、こうもタイミングよく彼女はこの場所に立っていたのだ。雨宿りするなら、室内でも大丈夫なはずなのに。
「あれ……おばあちゃんが真央さんと一緒に来るって言っていたんだけど……」
そういうことか、と思った。つまり、僕が学校に着くタイミングに合わせて、おばあちゃんが伊織に電話をしたのだ。とんでもない知将である。
「おばあちゃんに、君を迎えに行くように言われたんだ」
「そう……」
気まずい沈黙が流れた。雨の音だけが僕らを包み込んでいた。誰もいない校舎に、あの日の僕らが取り残されているようだった。止まっていた時間が再び動き出した。
「あの、歩。あの、ええと……」
彼女は突然の出来事をうまく処理できていないようだった。こんな狼狽した彼女の姿を見たことがあるのは、きっと僕を含めたごくわずかな人間だけだろう。
「話したいことがあるんだ」
僕は彼女の隣に移動して、傘を畳んだ。伊織が緊張した面持ちで、ちらちらと僕を見ていた。
「君と離れてから、いろいろ考えた。今までのこと、これからのことを」
彼女と目を合わせることができなかった。それは人見知りや女性に対する耐性などが起因しているものではなく、胸の中にとめどなく広がる罪悪感がそうさせた。
「君と出会って、僕の生活は変わった。使い走りにされることもなくなったし、男子たちにへこへこしなくても良くなった。でも、良いことばかりじゃなかった」
隣で伊織がゆっくりと頷くのが見えた。まだ彼女の顔は見れない。
「大変な思いや辛い思いもした。全部君のせいだって思った。でも、よく考えたら違ったんだ」
カーテンが揺れるように雨が降っており、水のベールが僕らをこの場所に閉じ込めているようだった。校舎にはきっと僕らしかいなくて、外界の喧騒と隔絶されたこの空間だけが別の時間軸の上にあるかのように、ゆっくりと時が流れているような気がした。
「好転反応って、知っているかな」
伊織はしばらく考えて、無言で頷いた。好転反応とは、例えば体が何らかの症状に侵されていて、薬を飲んだり治療をした際に、体がそれに抵抗したり、薬の効果で毒が出たりして一時的に体調が悪くなるという現象である。
「僕は今までの生活が正しいと思っていた。誰にも干渉せず、干渉されない。そんな未来で良いと思っていた。でも、君の荒治療のせいでとんでもない反応が起こったんだ」
いつの間にか、うつむきがちに彼女がこちらを見ていた。僕は深呼吸して、自分なりの答えをまとめた。
それは今心の中で確認するのではなく、伊織に対して言わなければならない答えだった。
伊織は怖がりながらも、僕と話し合いの場を設けようとしていたのに、いつだって僕は聞く耳すら持たなかった。そんな罪の意識が、僕の足を動かしていた。
気になることや知りたいことは山ほどあったが、今はどうでも良かった。
胸の中に取り返しのつかない罪悪感が広がっていて、五体投地で一刻も早く謝りたかった。そんな思いが、歩く速度を速めた。履いていたチノパンの裾も、靴下も靴も濡れてしまったが、本当に濡れているのはそんな場所ではなかった。
校舎に足を踏み入れた時、飛散している落ち葉や風の音もあの日と全く同じように見えた。自然と傘を持つ手に力が入り、僕は昇降口へと歩いた。
通路は閑散としており、校舎の窓には明かりが一つもついておらず、下駄箱の照明だけが頼りなく灯っていた。
その昇降口の屋根の下に、伊織がいた。
伊織はずっと空を見上げており、雨が止むのを待っているようだった。その姿を見て、急激に脈が速くなった。
僕は傘で自分の顔を隠しながら昇降口に向かった。伊織が一度だけこちらを見たが、すぐにまた空を見上げた。
彼女の顔が鮮明に見える位置で、立ち止まった。ゆっくりと顔を上げると、雨の壁をはさんで、そこで伊織と目が合った。彼女は僕を視認すると、息を呑むような表情を浮かべた。
「え、歩? なんで……」
「……迎えに来たよ」
伊織と目を合わせずに言った。彼女はことの状況がつかめていないようだった。
そういえば何故、こうもタイミングよく彼女はこの場所に立っていたのだ。雨宿りするなら、室内でも大丈夫なはずなのに。
「あれ……おばあちゃんが真央さんと一緒に来るって言っていたんだけど……」
そういうことか、と思った。つまり、僕が学校に着くタイミングに合わせて、おばあちゃんが伊織に電話をしたのだ。とんでもない知将である。
「おばあちゃんに、君を迎えに行くように言われたんだ」
「そう……」
気まずい沈黙が流れた。雨の音だけが僕らを包み込んでいた。誰もいない校舎に、あの日の僕らが取り残されているようだった。止まっていた時間が再び動き出した。
「あの、歩。あの、ええと……」
彼女は突然の出来事をうまく処理できていないようだった。こんな狼狽した彼女の姿を見たことがあるのは、きっと僕を含めたごくわずかな人間だけだろう。
「話したいことがあるんだ」
僕は彼女の隣に移動して、傘を畳んだ。伊織が緊張した面持ちで、ちらちらと僕を見ていた。
「君と離れてから、いろいろ考えた。今までのこと、これからのことを」
彼女と目を合わせることができなかった。それは人見知りや女性に対する耐性などが起因しているものではなく、胸の中にとめどなく広がる罪悪感がそうさせた。
「君と出会って、僕の生活は変わった。使い走りにされることもなくなったし、男子たちにへこへこしなくても良くなった。でも、良いことばかりじゃなかった」
隣で伊織がゆっくりと頷くのが見えた。まだ彼女の顔は見れない。
「大変な思いや辛い思いもした。全部君のせいだって思った。でも、よく考えたら違ったんだ」
カーテンが揺れるように雨が降っており、水のベールが僕らをこの場所に閉じ込めているようだった。校舎にはきっと僕らしかいなくて、外界の喧騒と隔絶されたこの空間だけが別の時間軸の上にあるかのように、ゆっくりと時が流れているような気がした。
「好転反応って、知っているかな」
伊織はしばらく考えて、無言で頷いた。好転反応とは、例えば体が何らかの症状に侵されていて、薬を飲んだり治療をした際に、体がそれに抵抗したり、薬の効果で毒が出たりして一時的に体調が悪くなるという現象である。
「僕は今までの生活が正しいと思っていた。誰にも干渉せず、干渉されない。そんな未来で良いと思っていた。でも、君の荒治療のせいでとんでもない反応が起こったんだ」
いつの間にか、うつむきがちに彼女がこちらを見ていた。僕は深呼吸して、自分なりの答えをまとめた。
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