その傘をはずして

みたらし

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第一章

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「……僕は、君とちゃんと友達になりたかった。でもいろいろな場面で、僕と君の関係が嘘だということを思い知らされた。ずっと、君とは釣り合わないって気持ちもあったから、そんな弱い気持ちがそうさせたんだと思う」

 伊織の秘密を知っている井坂に対しての単純な嫉妬ではない。そもそも出会った時から、彼女の家庭の事情など僕にとってはそれほど重要でもなければ、どうしても知っておかなければならないことではなかった。

 彼女に秘密があっても、僕らはうまくやっていた。諍いが起こる前まで、少なくとも僕は充実した日々を過ごしていた。

 苛立ちの原因は、外交的になろうとしている僕と、内向的に収まろうとしている僕の葛藤だったのだ。ずっと、求めてはいけないと思っていた。伊織とちゃんとした形のある「人間関係」になるということを。

 深呼吸して、彼女に向き直った。目の前で伊織が、形の良い瞳で僕を見ていた。.それはいつものように力強い視線だったが、瞳はわずかに潤んでいるように見えた。

 その瞳で、彼女はいつも僕を見てくれていた。僕が去った時も最後まで見捨てず、ただの契約上の一人としてではなく、一人の人間として向き合おうとしてくれた。

「ごめんなさい。君のことを、ずいぶんと苦しめてしまって……」

 僕は頭を下げたまま、彼女の顔を見ることができなかった。鼻の奥がつんとしていて、油断したら泣きそうだった。誰かに対してこんな気持ちで謝るのは初めてだった。

「顔を上げて」

 微かに震える声が頭上から降ってきた。視線を上げると、彼女も泣きそうな顔で僕の事を見ていた。

「私もずいぶんと考えたよ。私のわがままで、あなたの事を振りまわしてしまった事や、配慮に欠けていたことを」
 でもね、と言って伊織の目つきが険しいものになった。

「もとはといえば、あなたが私に嘘の告白をしてきたことにも原因があるなって、思ったの。それは分かるよね?」

 僕は頷いた。そもそもの元凶は、僕の浅はかな行動から始まっているのだ。巻き込んだのは僕の方でもある。

「私はあなたを利用していた。あなたも私の気持ちを弄ぼうとした。でもそういうことって結局、どっちが先にしたかとか、どっちの罪が重いのかって話しても、何も解決しないのよね」

 いつしか僕は、叱られる子供のような態度で彼女の話を聞いていた。

「罪を擦り付け合っても仕方ない。大事なのは、お互いを見つめ合うことなんだって、気付いた。でも、あの日あなたがあんな風に怒らなかったら、私もきっと気付かないままだった。自分の行いにも、あなたの気持ちにも」

 その声は、雨音の中でも縁取りされているように鮮明に聞こえた。

 そして彼女は姿勢を正し、僕の目をまっすぐに見た。

「歩がこれからどうしたいのか、聞きたい。どんな答えでも、ちゃんと向き合う努力はするから」

 彼女の瞳は溺れそうなほどに澄んでいた。僕がもうおばあちゃんをだますようなことは辞めたいと言ったとしても、今の彼女ならそれを受け入れてくれるだろう。ただ、その答えもすでに僕の中で出ていた。

「君のことが知りたい。そして、ちゃんと君の友達になりたいんだ」

 伊織は僕の言葉を予見していたかのように微笑んだ。たまに彼女が笑っても、いつもは羨望のまなざしというフィルターが掛かっていたので、憧れに近い感情でしか見ていなかったが、彼女がこんな風に愛らしく笑うということに、僕は初めて気づかされた。

「私も、歩のことが知りたい。そして、あなたの事を利用するんじゃなくて、ちゃんと何でも話せる友達になりたいよ」

 その瞬間に、彼女の目じりから一筋の涙が零れ落ちた。彼女は鼻をすすりながら、たまった涙を手の甲でごしごしと拭った。

「私も、いろいろあなたを悩ませてしまってごめんなさい。でも、こんな私でよかったら、今日から友達になってほしい」

 伊織は照れくさそうに笑うと、手を差し出してきた。僕はその繊細で柔らかな手をそっと握った。温かな塊が握り合った掌の中で生まれ、それが指先から体全体によどみなく広がっていくようだった。

「帰ろうか」

「うん」

 傘を広げると、彼女が自然な動きで中に入ってきた。僕らは互いに照れ笑いを浮かべながら目を逸らし、校門に向かって一歩を踏み出した。肩が触れ合って緊張したけれど、とてもすがすがしい気持ちだった。

 偽りの関係とはいえ、僕らは根底になくてはならないものを持ち合わせていなかった。それは思いやりだったり、信頼だったり、逆に相手の悪いところを知ることであったり。

 僕らは人間関係を築く上で必要な、礎を作るという重要な行為を怠ったのだ。しかし今日、僕らはようやくスタート地点に立った。出会ってから随分と時間が経ったけれど、やっとお互いの心に土台になる石を埋め込んだのだ。

 いつか彼女が、自身の事情を話す時が来たら真摯に耳を傾けよう。話したくないならそれでいい。どんな事情があろうとも、彼女が魅力ある女性であることに変わりはないのだから。

「お腹空いたなぁ」

「クロワッサンでも食べようか」

「それってまさか、駅のあのパン屋さん?」

「そうだよ」

「あのクロワッサン、歩も好きだったの?」

「まあね」

 彼女の声が聞こえる。その声は、僕の心の中にかすかに残っていた毒素を排出していくようだった。雨は次第に止みつつあったけれど、もう少しだけ降っていて欲しいと心の中で願った。
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