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第1章
海で
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◯ 小さき者よ、おまえの道をゆけ。俺は何も言わないし、何も干渉しない。ただ、おまえの後悔しない人生を望む。(二〇〇二年 二月三日)
海の向こうに目をやると、白波が、沖に一直線に伸びるリーフにぶつかって、そこからはまったく別の海が広がることを示していた。
「あそこにはこの船では行けんよ。うねりがすごくて。」
おじーは誰に言うでもなしにつぶやいた。その声が反響を許さない厚い大気のみにおおわれた海の上で、吐かれた瞬間に消えていく。僕はおじーのその言葉をしっかりと胸に焼きつけようと、何も言わずにただただ反芻していた。
「もうそろそろだな。赤いブイが浮かんでるから探せよ。」
そう言った直後、波間にちらりちらりと顔を見せる赤いブイが遠くの方に見えた。いや、それは意外にも近くにあったと言うほうが正確かもしれない。ただ、波間から見えるのがこれくらいの距離という意味でおじーはそう言ったのだろう。
「あっちにある。」
僕はブイの方を指差して叫んだ。おじーは船の後部に座り、バイクのハンドルに似たエンジンの持ち手を軽く捻りながら、そのブイの方へと船を動かした。近くまで行くと、船を止め、
「とれ。」
とだけ言って、おじーはゆっくりと立ち上がった。けっしてその口調が命令的な意味合いで吐かれているわけではない。頼むにしろ、命令するにしろ、吐かれる言葉を短縮すればそうなるという、当然の表現なのだ。僕は船縁へより船の底にあたってぼこぼこ鳴っている、その音の張本人を船の上へ引き上げた。そのブイから太い糸が伸び、その太糸から蛸足のようにたくさんの鉤素が伸びていることがわかった。僕は、おじーの方を振り向き次の指示を待つ。このように、僕とおじーとの会話は最低限の言葉の量で済まされる。
「たぐれ。糸はこのバケツにわっかに重ねて、針はバケツのここにかけれ。」
おじーは僕の手から太糸をもぎとり、二、三本手本を見せた。
「魚がいたらここに渡せ。その間はストップ。」
僕はおじーの指示通りに鉤素が絡まないようわっかを重ねながら糸をたぐっていく。すると急に魚の手応えを指の第二関節に感じた。僕はそれでも急がず同じペースでたぐり続ける。水中に白色の魚体が見えた。最初に上がってきたのは小さめのオオマチだった。魚は船にあげられると狂ったように暴れまくり、僕は糸が絡まないようにするのに必死になりながらも、おじーの方へその魚を寄せた。この魚が見ているのは空だろうか、それとも真っ暗に見える船の床だろうか。僕はそのふたつが同時に見えるということが魚の心にどういった感情を引き起こすのだろう、と不思議に思った。すべての魚が陸にあげられればそれを経験させられる。天国があると海のなかでは言い伝えられるのか、それとも地獄があると言い伝えられるのか。たぶんその二つはひとつのものの両局面にすぎないと言い伝えられているのかもしれない。陸には天国と地獄が同じ場所にある、と。
おじーは魚の口から器用にかえしのついた鉤をぬきとり、生簀へ投げた。そういえば昔、僕はこの生簀に落ちたことがある。開いたままの生簀に船の揺れでもたついた右足が支えをもとめてつっこんだのだ。僕は一瞬、真っ青で落ちたら海溝の底まで沈んでいくことを思わせる海へ落ちたのだと錯覚した。なぜなら、その生簀は小さな穴の空いた箱型のもので、その箱の部分は船底から海の底へと突っ込まれているといった状態なのだから、そこに貯まる水はちゃんと塩味がしたし、暗く冷たかった。僕はパニックになって暴れた。すると、上から筋肉というよりかは力が、僕の腕をつぶれるほどに握りしめ上へ引き抜いた。おじーだった。僕は呆然として立ち尽くし、生簀の方を見て初めてそこに僕が今落ちていたことを知った。おじーは何も言わずに再び仕事へと戻り、僕は少し恥ずかしい気持ちではあったがおじーは気にしていないと思い込み、座って服を乾かしていた。
「じゅん、手動かせ。」
おじーの声が聞こえ、自分がぼーっと生簀を眺めていたことに気づいた。僕は自分の思考癖を恥ずかしく思いながら、それを吹き飛ばすように急いで糸をたぐりよせた。
その日の漁はぼちぼちといったところだった。おじーはそれらの魚を翌日のセリに出すため、魚をそのまま生簀に生かしておき、ジープに僕をのせて山小屋へと戻った。重量感のあるジープが舗装されていない山道でも心地よい揺れを作り出しており、僕は助手席でいつしか眠りこんでいた。夢など見る暇がないほどに、おじーの山小屋までは一瞬でついた。目を覚ますと、ジープはいつもの駐車場に止まっており、おじーはすでに運転席から降りていた。僕は助手席のドアをあけ、車から降りた。おじーはセリに出さない魚を何匹か持って帰ってきていたので、その魚を捌いていたのだ。
「おじー、ごはん食べて帰るよ?」
研ぎ澄まされ、刃の高さが七センチほどしかない包丁で、おじーは魚の鱗からはらわたまでとり、ぽいぽいボールへ投げ込んでいた。
「あぁ。」
おじーは手を休めず、視線を移すこともなく僕の問いに答えた。これが今日最初の会話らしい会話だった。僕はおじーが住める状態にまで構築した山小屋の周囲に広がるこれもまたおじーの畑をぐるぐると回っていた。横には花子という雑種の大型犬が僕の太ももに横っ腹をこすりつけながら歩いていた。
「花子、どうした?」
僕は沈黙の一日の緊張を解きほぐすべく、思わず犬である花子に話しかけた。花子はいくらか言葉がわかるのか、僕の方を見て、その言葉の意味を汲み取ろうとしているように見えた。その白目の少ない花子の目を見つめながら僕はふと、おじーもこうして花子に話しかけているのではないか、と思った。花子のその視線の注ぎ方はいつもする行動のひとつとして、慣れたものであったからだ。ただ僕のように、馬鹿みたいに話しかけているおじーの姿は想像できなかった。もっと語りかけるように話しているに違いない、そう僕は空想をしていた。
「じゅーん。できたよー。」
遠くの方から、おじーの低く響きのある声が聞こえた。僕も花子も走って畑を横切り台所へと向かった。木でできた手作りの机の上にはからあげになった魚たちが山とつまれていた。僕はそのうちの一つをつまみあげ、手で食べた。その横でおじーはいつも使うコップに泡盛を注ぎ、からあげを食べてはちびちびとその酒をすすっていた。台所にはいつも鳴りっぱなしになっているラジオから雑音混じりに女性アナウンサーのはしゃいだような声が響いていた。その雑音が僕にとって、この沈黙を幾らか耐えやすいものにしていた。
「おじーが死んだらあの船はおまえにあげるからな。」
閉ざしていた口を千年ぶりにひらいたかのごとく、しわがれた独特な声が僕の横に置かれた。僕は手を止めておじーを見たが、おじーはコップに注がれた酒のみなもを眺めたままなにか考えているようだった。なにを考えているのだろう。そのみなもに何か映ってでもいるのだろうか。思えば、おじーの視線はいつも今には向けられていなかった。どこか近くの未来か、もしくは遠くの過去へと、その思いをはせていたとでも言おうか。あの視線の先になにがあるのか、僕は今でもわからないのだ。
おじーは、ポケットから二千円札をとりだし僕に渡した。僕はありがとう、と言ってそのお金をうけとりポケットに突っ込んだ。おじーが僕に船に乗れと言う時は、決まって手伝う人のいない時である。歳をとり、延縄の糸をたぐるのがおっくうになったおじーは、必ず自分より若い酒飲み仲間に頼んで船に乗ってもらう。僕はその代用である。報酬をもらうのは当然であった。そうやって僕を他の仲間と対等に扱ってくれるおじーが僕の尊敬のまとになるのも当然であった。
「勉強しれ。」
おじーはそう言い残して奥の部屋へ戻っていった。ラジオの音と僕の残されたこの部屋が急にさみしいものに感じられた。ひとつドアの向こうには花子が待っているのがその鼻息で知れたが、僕はもう少しここにいようと思った。寂しさのなかで初めておじーが存在していたことを知るように、僕はそこにすわっているはずのおじーの目をじっと覗き込んでいた。
おじーは翌年の十一月二十日に死んだ。しかし、不思議なことはその一週間以上前からすでに始まっていた。おじーは大腸癌だった。それは見つかるのも遅くすでに手遅れで、見つかってからはずっと入院していた。時々帰ってきて死ぬまでに収穫は無理と知れているのに、畑をユンボで耕し野菜を植えていた。入院中の僕の仕事は花子の世話だった。約半年間、おじーは入退院を繰り返していたので、僕のする花子の世話期間もそれとほぼ重なるように長引いていた。
「おい、花子えさ持ってきたよ。」
僕はそう言いながら、学校帰りにひとり山道を歩き山小屋まで来るのだ。雨の日もそれはかわらない。花子は僕を見ると退屈で膨らんだ風船が爆発するように暴れまわった。おじーのいない山小屋でひとり過ごすのはどんなに退屈だろうか、どんなに寂しいだろうか。僕は花子の気持ちを想像して悲しくなった。毎日、僕は日が暮れるまで花子と時間を過ごした。ある時は一緒に近くの川へ行ったり、山道を散歩したりもした。しかし、そこから山小屋へ帰ってくるとやはり悲しさは誤魔化しようがなかった。陸にあげられた船が畑の横の木陰に、忘れ去られてしまったかのように置かれている。おじーの乗らない船の朽ちていくスピードは驚くべきものだった。半年で床板は腐れ、ところどころ穴があいていた。
そんなある日のことである。僕は学校の宿題をするために花子の小屋の中へ入り込んだ。言ってみれば巨大なU字溝を逆さにしたものが花子の小屋だった。高さは一メートル近くあったので小学生の僕が座っても天井まではまだ余裕があった。
「花子、ここに座っといて。」
僕がそう言うと、花子はおとなしく僕の横に座り、やすらかな寝息を立て始めた。僕はなにげなくU字溝のトンネルの向こう側を見た。そこには花子の掘っていると思われる大きな穴があった。
「なんで掘ってる?」
僕は花子に聞いたが、今度はなにも聞こえていないかのように花子は僕の横で眠り続けていた。
僕はその日家に帰り、思い切ってオジーに電話をかけた。というのも、小学生の僕にとってそれは、言っておかなければ惨事になるような大事に思えたのだ。花子の世話を託されたものとして僕は責任を感じていた。
「はーい。」
電話をとったおじーの第一声の大声が聞こえた。病人とは思えない大声に驚きながらも、僕は慎重に言葉を選びながら話した。
「花子が小屋の後ろに穴掘ってるけど大丈夫なの?」
すると、電話のむこうから今まで聞いたこともないようなおじーの大笑いが聞こえた。そして、
「花子は自分で墓掘ってるんだよ。大丈夫よ。」
僕にはおじーの笑う理由がわからなかったが、大丈夫という声に安心し、
「じゃあね。」
と言って電話を切った。今ならそのユーモアがわかるが、当時の僕にはそのことすらも悲しく思えた。生物というものが不朽のものではなく、いつかは全て消えて無くなっていくことに、僕は恐怖を感じていたのかもしれない。翌日、僕が山小屋へ行くと、花子はその鼻先に土をつけてやはり先ほどまで一心に穴を掘っていたようであった。僕はそんな花子の頭を一度叩いてみたが撫でられたと思っているのか、尻尾をふってこちらを見ていた。
その翌週、おじーの体調が急変した。僕は学校へ行っていたので死に際には会えなかったが苦しむおじーに、もういいよ、とおばーが声をかけるとおじーは自ら酸素マスクを外し眠りについたという。先週まで電話で大笑いするほどだったのに。しかし、その事実が僕を悲しませるということはなかった。人間は死そのものを悲しむことはしないのだとその時学んだ。僕が最初に思ったことは、残された花子をどうするのか、ということだった。僕がずっと山小屋へ通ってもいいが、しかし来年は僕も中学生になり村からは出なければいけない。そうしたら誰が世話をするのか。家にはすでに犬が一匹いたが、それだけで家はスペースがすでにない状態だったので、山小屋から移動することも叶わなかった。しかし、そんな僕の悩みもその翌週には解決されたのだ。僕はいつものように学校を終え山小屋へと向かった。木が道の上にまで覆い被さっているところや、川のそばを通り抜けいつも以上に静かな山道を僕は寂しさと戦いながら歩いていた。その寂しさがなにを先取りしているのか。あの墓穴である。墓穴が僕を寂しさの淵へ落とそうと詰め寄ってくるのだ。
「花子、きたよ!」
僕はその寂しさを吹き飛ばしたいがために、いつも以上に大きな声で叫んだ。声は周囲の山々にこだまして虚しく僕の鼓膜へ帰ってきた。いつもなら、僕の気配を感じ取ってか、僕が花子のいる畑の横の広場まで来ると、花子はすでに尻尾をふって待っていてくれるのに、その日は僕ひとりがそこに立っていた。U字溝の例の家の中で、花子はうつ伏せの状態で死んでいた。おじーの後を追うようにして、花子もまた自ら死を選んだのだろうか。僕はありそうもないそんな空想に、心を絞られる思いだった。静かすぎるその空間が僕の心を悲しくさせる。悲しさは、いるはずの場所にいないことから生じる。U字溝のなかに、花子はすでにいない。台所におじーはいない。机に置かれた酒瓶には半分ほど残された酒が、この先も飲まれることなく置かれ続けるのだろう。誰に聞かれることももうないラジオだけが、雑音混じりのいつもと変わらない声を、台所に響かせていた。僕とラジオだけがこの台所に残される。それはいつも変わらない、はずだった。しかし、今はもう、いつまでも変わらないにそれは変わってしまった。僕の頬を伝う涙が、その時初めて流れた。拭いても拭いても流れ出るその涙と拭いても拭いても消えない山小屋の記憶を僕はこれから背負って生きていくのだろう。その思いに押しつぶされそうになりながら、僕は山小屋を後にした。
海の向こうに目をやると、白波が、沖に一直線に伸びるリーフにぶつかって、そこからはまったく別の海が広がることを示していた。
「あそこにはこの船では行けんよ。うねりがすごくて。」
おじーは誰に言うでもなしにつぶやいた。その声が反響を許さない厚い大気のみにおおわれた海の上で、吐かれた瞬間に消えていく。僕はおじーのその言葉をしっかりと胸に焼きつけようと、何も言わずにただただ反芻していた。
「もうそろそろだな。赤いブイが浮かんでるから探せよ。」
そう言った直後、波間にちらりちらりと顔を見せる赤いブイが遠くの方に見えた。いや、それは意外にも近くにあったと言うほうが正確かもしれない。ただ、波間から見えるのがこれくらいの距離という意味でおじーはそう言ったのだろう。
「あっちにある。」
僕はブイの方を指差して叫んだ。おじーは船の後部に座り、バイクのハンドルに似たエンジンの持ち手を軽く捻りながら、そのブイの方へと船を動かした。近くまで行くと、船を止め、
「とれ。」
とだけ言って、おじーはゆっくりと立ち上がった。けっしてその口調が命令的な意味合いで吐かれているわけではない。頼むにしろ、命令するにしろ、吐かれる言葉を短縮すればそうなるという、当然の表現なのだ。僕は船縁へより船の底にあたってぼこぼこ鳴っている、その音の張本人を船の上へ引き上げた。そのブイから太い糸が伸び、その太糸から蛸足のようにたくさんの鉤素が伸びていることがわかった。僕は、おじーの方を振り向き次の指示を待つ。このように、僕とおじーとの会話は最低限の言葉の量で済まされる。
「たぐれ。糸はこのバケツにわっかに重ねて、針はバケツのここにかけれ。」
おじーは僕の手から太糸をもぎとり、二、三本手本を見せた。
「魚がいたらここに渡せ。その間はストップ。」
僕はおじーの指示通りに鉤素が絡まないようわっかを重ねながら糸をたぐっていく。すると急に魚の手応えを指の第二関節に感じた。僕はそれでも急がず同じペースでたぐり続ける。水中に白色の魚体が見えた。最初に上がってきたのは小さめのオオマチだった。魚は船にあげられると狂ったように暴れまくり、僕は糸が絡まないようにするのに必死になりながらも、おじーの方へその魚を寄せた。この魚が見ているのは空だろうか、それとも真っ暗に見える船の床だろうか。僕はそのふたつが同時に見えるということが魚の心にどういった感情を引き起こすのだろう、と不思議に思った。すべての魚が陸にあげられればそれを経験させられる。天国があると海のなかでは言い伝えられるのか、それとも地獄があると言い伝えられるのか。たぶんその二つはひとつのものの両局面にすぎないと言い伝えられているのかもしれない。陸には天国と地獄が同じ場所にある、と。
おじーは魚の口から器用にかえしのついた鉤をぬきとり、生簀へ投げた。そういえば昔、僕はこの生簀に落ちたことがある。開いたままの生簀に船の揺れでもたついた右足が支えをもとめてつっこんだのだ。僕は一瞬、真っ青で落ちたら海溝の底まで沈んでいくことを思わせる海へ落ちたのだと錯覚した。なぜなら、その生簀は小さな穴の空いた箱型のもので、その箱の部分は船底から海の底へと突っ込まれているといった状態なのだから、そこに貯まる水はちゃんと塩味がしたし、暗く冷たかった。僕はパニックになって暴れた。すると、上から筋肉というよりかは力が、僕の腕をつぶれるほどに握りしめ上へ引き抜いた。おじーだった。僕は呆然として立ち尽くし、生簀の方を見て初めてそこに僕が今落ちていたことを知った。おじーは何も言わずに再び仕事へと戻り、僕は少し恥ずかしい気持ちではあったがおじーは気にしていないと思い込み、座って服を乾かしていた。
「じゅん、手動かせ。」
おじーの声が聞こえ、自分がぼーっと生簀を眺めていたことに気づいた。僕は自分の思考癖を恥ずかしく思いながら、それを吹き飛ばすように急いで糸をたぐりよせた。
その日の漁はぼちぼちといったところだった。おじーはそれらの魚を翌日のセリに出すため、魚をそのまま生簀に生かしておき、ジープに僕をのせて山小屋へと戻った。重量感のあるジープが舗装されていない山道でも心地よい揺れを作り出しており、僕は助手席でいつしか眠りこんでいた。夢など見る暇がないほどに、おじーの山小屋までは一瞬でついた。目を覚ますと、ジープはいつもの駐車場に止まっており、おじーはすでに運転席から降りていた。僕は助手席のドアをあけ、車から降りた。おじーはセリに出さない魚を何匹か持って帰ってきていたので、その魚を捌いていたのだ。
「おじー、ごはん食べて帰るよ?」
研ぎ澄まされ、刃の高さが七センチほどしかない包丁で、おじーは魚の鱗からはらわたまでとり、ぽいぽいボールへ投げ込んでいた。
「あぁ。」
おじーは手を休めず、視線を移すこともなく僕の問いに答えた。これが今日最初の会話らしい会話だった。僕はおじーが住める状態にまで構築した山小屋の周囲に広がるこれもまたおじーの畑をぐるぐると回っていた。横には花子という雑種の大型犬が僕の太ももに横っ腹をこすりつけながら歩いていた。
「花子、どうした?」
僕は沈黙の一日の緊張を解きほぐすべく、思わず犬である花子に話しかけた。花子はいくらか言葉がわかるのか、僕の方を見て、その言葉の意味を汲み取ろうとしているように見えた。その白目の少ない花子の目を見つめながら僕はふと、おじーもこうして花子に話しかけているのではないか、と思った。花子のその視線の注ぎ方はいつもする行動のひとつとして、慣れたものであったからだ。ただ僕のように、馬鹿みたいに話しかけているおじーの姿は想像できなかった。もっと語りかけるように話しているに違いない、そう僕は空想をしていた。
「じゅーん。できたよー。」
遠くの方から、おじーの低く響きのある声が聞こえた。僕も花子も走って畑を横切り台所へと向かった。木でできた手作りの机の上にはからあげになった魚たちが山とつまれていた。僕はそのうちの一つをつまみあげ、手で食べた。その横でおじーはいつも使うコップに泡盛を注ぎ、からあげを食べてはちびちびとその酒をすすっていた。台所にはいつも鳴りっぱなしになっているラジオから雑音混じりに女性アナウンサーのはしゃいだような声が響いていた。その雑音が僕にとって、この沈黙を幾らか耐えやすいものにしていた。
「おじーが死んだらあの船はおまえにあげるからな。」
閉ざしていた口を千年ぶりにひらいたかのごとく、しわがれた独特な声が僕の横に置かれた。僕は手を止めておじーを見たが、おじーはコップに注がれた酒のみなもを眺めたままなにか考えているようだった。なにを考えているのだろう。そのみなもに何か映ってでもいるのだろうか。思えば、おじーの視線はいつも今には向けられていなかった。どこか近くの未来か、もしくは遠くの過去へと、その思いをはせていたとでも言おうか。あの視線の先になにがあるのか、僕は今でもわからないのだ。
おじーは、ポケットから二千円札をとりだし僕に渡した。僕はありがとう、と言ってそのお金をうけとりポケットに突っ込んだ。おじーが僕に船に乗れと言う時は、決まって手伝う人のいない時である。歳をとり、延縄の糸をたぐるのがおっくうになったおじーは、必ず自分より若い酒飲み仲間に頼んで船に乗ってもらう。僕はその代用である。報酬をもらうのは当然であった。そうやって僕を他の仲間と対等に扱ってくれるおじーが僕の尊敬のまとになるのも当然であった。
「勉強しれ。」
おじーはそう言い残して奥の部屋へ戻っていった。ラジオの音と僕の残されたこの部屋が急にさみしいものに感じられた。ひとつドアの向こうには花子が待っているのがその鼻息で知れたが、僕はもう少しここにいようと思った。寂しさのなかで初めておじーが存在していたことを知るように、僕はそこにすわっているはずのおじーの目をじっと覗き込んでいた。
おじーは翌年の十一月二十日に死んだ。しかし、不思議なことはその一週間以上前からすでに始まっていた。おじーは大腸癌だった。それは見つかるのも遅くすでに手遅れで、見つかってからはずっと入院していた。時々帰ってきて死ぬまでに収穫は無理と知れているのに、畑をユンボで耕し野菜を植えていた。入院中の僕の仕事は花子の世話だった。約半年間、おじーは入退院を繰り返していたので、僕のする花子の世話期間もそれとほぼ重なるように長引いていた。
「おい、花子えさ持ってきたよ。」
僕はそう言いながら、学校帰りにひとり山道を歩き山小屋まで来るのだ。雨の日もそれはかわらない。花子は僕を見ると退屈で膨らんだ風船が爆発するように暴れまわった。おじーのいない山小屋でひとり過ごすのはどんなに退屈だろうか、どんなに寂しいだろうか。僕は花子の気持ちを想像して悲しくなった。毎日、僕は日が暮れるまで花子と時間を過ごした。ある時は一緒に近くの川へ行ったり、山道を散歩したりもした。しかし、そこから山小屋へ帰ってくるとやはり悲しさは誤魔化しようがなかった。陸にあげられた船が畑の横の木陰に、忘れ去られてしまったかのように置かれている。おじーの乗らない船の朽ちていくスピードは驚くべきものだった。半年で床板は腐れ、ところどころ穴があいていた。
そんなある日のことである。僕は学校の宿題をするために花子の小屋の中へ入り込んだ。言ってみれば巨大なU字溝を逆さにしたものが花子の小屋だった。高さは一メートル近くあったので小学生の僕が座っても天井まではまだ余裕があった。
「花子、ここに座っといて。」
僕がそう言うと、花子はおとなしく僕の横に座り、やすらかな寝息を立て始めた。僕はなにげなくU字溝のトンネルの向こう側を見た。そこには花子の掘っていると思われる大きな穴があった。
「なんで掘ってる?」
僕は花子に聞いたが、今度はなにも聞こえていないかのように花子は僕の横で眠り続けていた。
僕はその日家に帰り、思い切ってオジーに電話をかけた。というのも、小学生の僕にとってそれは、言っておかなければ惨事になるような大事に思えたのだ。花子の世話を託されたものとして僕は責任を感じていた。
「はーい。」
電話をとったおじーの第一声の大声が聞こえた。病人とは思えない大声に驚きながらも、僕は慎重に言葉を選びながら話した。
「花子が小屋の後ろに穴掘ってるけど大丈夫なの?」
すると、電話のむこうから今まで聞いたこともないようなおじーの大笑いが聞こえた。そして、
「花子は自分で墓掘ってるんだよ。大丈夫よ。」
僕にはおじーの笑う理由がわからなかったが、大丈夫という声に安心し、
「じゃあね。」
と言って電話を切った。今ならそのユーモアがわかるが、当時の僕にはそのことすらも悲しく思えた。生物というものが不朽のものではなく、いつかは全て消えて無くなっていくことに、僕は恐怖を感じていたのかもしれない。翌日、僕が山小屋へ行くと、花子はその鼻先に土をつけてやはり先ほどまで一心に穴を掘っていたようであった。僕はそんな花子の頭を一度叩いてみたが撫でられたと思っているのか、尻尾をふってこちらを見ていた。
その翌週、おじーの体調が急変した。僕は学校へ行っていたので死に際には会えなかったが苦しむおじーに、もういいよ、とおばーが声をかけるとおじーは自ら酸素マスクを外し眠りについたという。先週まで電話で大笑いするほどだったのに。しかし、その事実が僕を悲しませるということはなかった。人間は死そのものを悲しむことはしないのだとその時学んだ。僕が最初に思ったことは、残された花子をどうするのか、ということだった。僕がずっと山小屋へ通ってもいいが、しかし来年は僕も中学生になり村からは出なければいけない。そうしたら誰が世話をするのか。家にはすでに犬が一匹いたが、それだけで家はスペースがすでにない状態だったので、山小屋から移動することも叶わなかった。しかし、そんな僕の悩みもその翌週には解決されたのだ。僕はいつものように学校を終え山小屋へと向かった。木が道の上にまで覆い被さっているところや、川のそばを通り抜けいつも以上に静かな山道を僕は寂しさと戦いながら歩いていた。その寂しさがなにを先取りしているのか。あの墓穴である。墓穴が僕を寂しさの淵へ落とそうと詰め寄ってくるのだ。
「花子、きたよ!」
僕はその寂しさを吹き飛ばしたいがために、いつも以上に大きな声で叫んだ。声は周囲の山々にこだまして虚しく僕の鼓膜へ帰ってきた。いつもなら、僕の気配を感じ取ってか、僕が花子のいる畑の横の広場まで来ると、花子はすでに尻尾をふって待っていてくれるのに、その日は僕ひとりがそこに立っていた。U字溝の例の家の中で、花子はうつ伏せの状態で死んでいた。おじーの後を追うようにして、花子もまた自ら死を選んだのだろうか。僕はありそうもないそんな空想に、心を絞られる思いだった。静かすぎるその空間が僕の心を悲しくさせる。悲しさは、いるはずの場所にいないことから生じる。U字溝のなかに、花子はすでにいない。台所におじーはいない。机に置かれた酒瓶には半分ほど残された酒が、この先も飲まれることなく置かれ続けるのだろう。誰に聞かれることももうないラジオだけが、雑音混じりのいつもと変わらない声を、台所に響かせていた。僕とラジオだけがこの台所に残される。それはいつも変わらない、はずだった。しかし、今はもう、いつまでも変わらないにそれは変わってしまった。僕の頬を伝う涙が、その時初めて流れた。拭いても拭いても流れ出るその涙と拭いても拭いても消えない山小屋の記憶を僕はこれから背負って生きていくのだろう。その思いに押しつぶされそうになりながら、僕は山小屋を後にした。
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