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第2章
見つかった日記
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花子も死んでからは山小屋から足も遠のき、僕の中に刻印されたおじーの記憶が少しずつ過去形に変わり始めたのは、おじーが死んで一年忌を終えた頃だった。僕はすでに中学に上がり、部活や勉強に追われ、また村から出たということもあり、おじーのいた風景も見ることがなくなっていた。おばーから電話がかかってきたのはそんな時期のことだった。その日僕はちょうど土曜日で学校が休みだったということもあり、家で宿題をだらだらとしているところだった。
「もしもし。」
電話を取った僕の声を聞いて、おばーはいつもとは少し違う落ち着いた声で、今から家に来いと言うのだ。
「わかった。」
僕はそれだけ言って電話を切った。おばーの家は僕の実家から少し歩けば着くところにあった。おばーの家に着くと、
「座れ。」
と、畳の上に置かれた二人掛けのソファーを目で指し示した。僕が言われた通りに座ると、おばーは奥の部屋へと、影が横切るように静かな足音をたてて歩いて行った。なんだろうか。僕は、これから大事な話が始まるということを感覚的に知っていた。それはおばーのいつもと異なる様子からも容易に読み取れた。おばーの足音がしないのは、その腹回りについた脂肪が足の裏まで回っているからだろう。手に数冊のノートを抱えたおばーの足音はやはりほとんどないに等しかった。
「これ、なにかわかるか?」
キャンパスの赤色の表紙が目に見えた。しかし、ところどころ曲がっていたり破れていたり、シミになっている部分もありかなり古いものに思えた。
「知らん。なんね?」
僕はその答えに関することが、その時一ミリも浮かんではいなかった。それは、一年という時間の堆積と、その中で一年以上の量を動き回らねばならなかった僕の日常が原因だろうと思う。なんせ、受験勉強と環境の変化が継ぎ目なく僕を襲ったのだから。おばーはそれら数冊のノートを机の上に置いた。表紙には「日記」とただそれだけが書かれていた。
「おじーの日記だよ。倉庫から見つかった。」
倉庫は花子の小屋であったU字溝のそばにある、電源の抜かれた冷凍コンテナの中だった。懐かしく僕はその光景を思い出していた。同時に僕はおじーの痕跡であるその筆跡を見たい欲求を抑え、おばーの次の言葉を待っていた。
「これはお前にあげるからな。おじーもその方が喜ぶよ。」
おばーはそこで初めて小さく笑みを浮かべた。僕は頷いて、そのノートを膝に置き一ページ目をひらいた。キシキシという小さな音をたてて一ページ目がその顔をあらわにした。
◯ 俺の兄弟達はいまごろハワイでなにをしているだろうか。ハワイを捨て、家族を捨ててきた俺である。たぶん少なくとも俺のことなど考えてはいないのだろう。この山原に住み、山原に根を下ろす俺はここで死に、ここの土になることを望む。ハワイの土はたぶん俺には合わん。あいつらと土壌中で血が混ざることも、想像しただけで嫌だ。(一九九六年 一月八日)
日記の一ページ目には、そんな文句のような言葉が綴られていた。僕はその時初めておじーがハワイ移民の二世であったことを知った。そのときに聞いたおばーの話によると、おじーはハワイの親や兄弟とけんかをして、ひとりで沖縄の山原に来たという。それを聞き、僕はおじーが小さなボートに乗り大洋を船で渡る姿が想像できたが、それはありえないこともまた知っていた。
「じゃあ、おじーは寂しかったんじゃない?」
僕は咄嗟にそう尋ねずにはいられなかった。
「いいん。おじーはずっとひとりさ。あの人はどこにいても寂しい人間だから、どこに行っても大丈夫よ。」
おばーは冗談混じりで言っているのか、笑いながらそう答えた。しかし、僕にはその言葉の説得力がおじーのあの言動にすべて裏付けられているようにも思えた。歳をとり、体にガタが来るまでは、おじーは毎日一人で船を出し、漁をして、帰って来ればひとり畑の草を抜き、種を蒔いていたというのだから。
「花子はいつからいる?」
「十六年前じゃないかなぁ。だから、おじーが六十歳くらいのときじゃない。あれはおじーが拾ってきたんだよ。」
僕は一人の人間の過去へと少しずつ引きずり込まれていくのを感じていた。抗い難い強力な力でその渦の中心へと引き込む。そう、あの時生簀に落ちた僕を引き上げてくれた力のように。僕はそのノートを大事に胸にかかえて家へ帰った。自分の机の引き出しにしまいこみ。なんとなく、僕は海へ行きたくなった。おじーの視線がとらえて離さなかった海を今一度見てみたいと思ったのだ。
「もしもし。」
電話を取った僕の声を聞いて、おばーはいつもとは少し違う落ち着いた声で、今から家に来いと言うのだ。
「わかった。」
僕はそれだけ言って電話を切った。おばーの家は僕の実家から少し歩けば着くところにあった。おばーの家に着くと、
「座れ。」
と、畳の上に置かれた二人掛けのソファーを目で指し示した。僕が言われた通りに座ると、おばーは奥の部屋へと、影が横切るように静かな足音をたてて歩いて行った。なんだろうか。僕は、これから大事な話が始まるということを感覚的に知っていた。それはおばーのいつもと異なる様子からも容易に読み取れた。おばーの足音がしないのは、その腹回りについた脂肪が足の裏まで回っているからだろう。手に数冊のノートを抱えたおばーの足音はやはりほとんどないに等しかった。
「これ、なにかわかるか?」
キャンパスの赤色の表紙が目に見えた。しかし、ところどころ曲がっていたり破れていたり、シミになっている部分もありかなり古いものに思えた。
「知らん。なんね?」
僕はその答えに関することが、その時一ミリも浮かんではいなかった。それは、一年という時間の堆積と、その中で一年以上の量を動き回らねばならなかった僕の日常が原因だろうと思う。なんせ、受験勉強と環境の変化が継ぎ目なく僕を襲ったのだから。おばーはそれら数冊のノートを机の上に置いた。表紙には「日記」とただそれだけが書かれていた。
「おじーの日記だよ。倉庫から見つかった。」
倉庫は花子の小屋であったU字溝のそばにある、電源の抜かれた冷凍コンテナの中だった。懐かしく僕はその光景を思い出していた。同時に僕はおじーの痕跡であるその筆跡を見たい欲求を抑え、おばーの次の言葉を待っていた。
「これはお前にあげるからな。おじーもその方が喜ぶよ。」
おばーはそこで初めて小さく笑みを浮かべた。僕は頷いて、そのノートを膝に置き一ページ目をひらいた。キシキシという小さな音をたてて一ページ目がその顔をあらわにした。
◯ 俺の兄弟達はいまごろハワイでなにをしているだろうか。ハワイを捨て、家族を捨ててきた俺である。たぶん少なくとも俺のことなど考えてはいないのだろう。この山原に住み、山原に根を下ろす俺はここで死に、ここの土になることを望む。ハワイの土はたぶん俺には合わん。あいつらと土壌中で血が混ざることも、想像しただけで嫌だ。(一九九六年 一月八日)
日記の一ページ目には、そんな文句のような言葉が綴られていた。僕はその時初めておじーがハワイ移民の二世であったことを知った。そのときに聞いたおばーの話によると、おじーはハワイの親や兄弟とけんかをして、ひとりで沖縄の山原に来たという。それを聞き、僕はおじーが小さなボートに乗り大洋を船で渡る姿が想像できたが、それはありえないこともまた知っていた。
「じゃあ、おじーは寂しかったんじゃない?」
僕は咄嗟にそう尋ねずにはいられなかった。
「いいん。おじーはずっとひとりさ。あの人はどこにいても寂しい人間だから、どこに行っても大丈夫よ。」
おばーは冗談混じりで言っているのか、笑いながらそう答えた。しかし、僕にはその言葉の説得力がおじーのあの言動にすべて裏付けられているようにも思えた。歳をとり、体にガタが来るまでは、おじーは毎日一人で船を出し、漁をして、帰って来ればひとり畑の草を抜き、種を蒔いていたというのだから。
「花子はいつからいる?」
「十六年前じゃないかなぁ。だから、おじーが六十歳くらいのときじゃない。あれはおじーが拾ってきたんだよ。」
僕は一人の人間の過去へと少しずつ引きずり込まれていくのを感じていた。抗い難い強力な力でその渦の中心へと引き込む。そう、あの時生簀に落ちた僕を引き上げてくれた力のように。僕はそのノートを大事に胸にかかえて家へ帰った。自分の机の引き出しにしまいこみ。なんとなく、僕は海へ行きたくなった。おじーの視線がとらえて離さなかった海を今一度見てみたいと思ったのだ。
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