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──初等部6年・決心の夏
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ジリジリと、身体を刺すように熱い砂浜の太陽。
七生は一人、水平線を眺めていた。
「七生どうした?海に入らないのか?」
和志は真っ黒に焼けた顔に白い歯を見せ、砂浜に座り込む七生に声を掛けた。
長い手足。しなやかな少年らしい身体付き。和志はこの一年間に、見違える程の成長を遂げていた。
「…………」
七生は黙ったままそれを無視し、いつものようにそっぽ向いた。
和志はやれやれと言った表情を見せ、仲間たちの待つ波間へと向かい駆け出して行く。
その後ろ姿を見詰めながら、七生は思わず胸を押さえた。
──キュンと胸が締め付けられる。
(君はクラスの人気者だろ?僕なんかに構う事はないんだ)
臨海学校──この古風な響きの夏の行事も、資訓学院=伝統儀式のひとつと言える。
「藤崎君、元気が無いね。どうかした?」
背後から声が掛かった。それはクラスの学級委員長──。
「え?ん~ん、別に……」
七生はそんな気の無い返事。
「見てたよ今。瀬尾君、せっかく声を掛けてくれたのに、藤崎君は瀬尾君のことが嫌い?」
不意討ちのように和志の事を話題に出され、七生は慌ててそっぽ向く。
「嫌いだよ。あんな奴……」
「ふふっ、何だかおかしいな」
「え、何がだよ?」
七生が真っ赤な顔で振り返る。
「うん、だってさ、藤崎君は誰にだって愛想がいいし、そんなに他人の事で躍起となったりしないのに、何故か瀬尾君にだけはきついんだよね。今だって、とことん冷たく無視してた」
「そ、それは……」
「瀬尾君、君の事をすごく気に掛けているみたいだし、何をするにも真っ先に君を誘うだろ?今や瀬尾君はクラスのリーダー的存在だしさ、あんな風に特別にされれば、誰だってすごく嬉しいと思うんだけどな」
「……僕が、特別にされてる?」
「うん、そう見えるよ?」
「そんな事ないよ、あいつは誰にだって声を掛けるし……優しいんだ……」
その事が、余計に自分を苛立たせている事に七生は未だ気付いてはいない。
「瀬尾君、いい奴だよ?」
「……うん」
そんな事は十分に知っている。知っているのに──。
「どうしてそんなに嫌うの?」
それが分からないから悶々とする。
「少し、泳いで来るよ……」
──七生は委員長を置き去りに、そのまま真っ直ぐ海へ向かった。
────時は数分さかのぼる。
一人波間に浮かんでいた和志は、ふと気になって砂浜を見た。遠く離れた七生の姿に目をやると、委員長と何やら親しげに話している。
(俺とは、ろくに口も利かないのに……)
この寂しさは何だろう?
12歳の少年に、その寂しさの正体を自覚する事は難しかった。ただ初めて会った一年前から、何故か七生の存在が気掛りで仕方が無い。
(俺、何か嫌われるような事をしたっけ……?)
じっと砂浜を見詰める和志に、仲間の一人が声を掛ける。
「おい和志、何をポカンとしているんだよ!」
「あ、いや何でもない!」
和志ははにかんだ笑顔で答え、仲間達の元へとひと泳ぎ──。
「和志、藤崎を見ていたんだろ?」
「え?いや、別に……」
「隠すなって、みんな知っているんだから」
「知ってるって、何の事だよ?」
「だからつまり、おまえって人が良いからさ、いつもああして一人でいる藤崎の事が気になって仕方が無いんだろ?」
(そうなのかなぁ?)
と、和志は思う。自分の事なのによく分からない。
「でもさぁ和志、そんなの全然気にするなって!おまえはまだ同じクラスになって一年だから知らないんだろうけど、藤崎はああして一人でいるのが好きなんだ。頭のいい奴って、やっぱり俺たちとは違うよな。俺たち別に、仲間外れにしている訳でもないし」
「おい待てよ!俺は別に、七生を仲間に入れてやろうなんて、そんな上から偉そうな事は思ってないよ。ただ、もう少し仲良く出来ないかなって、そう思っているだけなんだ」
「あ~あ、それならおまえ、全然逆さまな事やってるよ~。藤崎のことをやたらに構うから、だからかえって避けられるんだ。大体、おまえ藤崎の事を七生って、そんな馴れ馴れしく呼ぶ奴なんて他にいないぜ?」
「馴れ馴れしい?……やっぱ俺、嫌われてんのかなぁ?」
「うんうん、それも最悪級だぜ?あの人当たりのいい藤崎がこれ程露骨に嫌がるなんて、これまではまるで無かったからな」
「そうか……俺、嫌われてるんだ……」
和志は仲間達から離れ、さらに沖へと泳ぎ始めた。海での遠泳は和志の得意とするところである。
ひたすら泳ぐ和志の胸に、自分でもよく分からない不思議な感傷が込み上げてきた。
(俺は七生と友達になりたい)
──出会ったあの日を思い返す。
5年生で新しい教室に入ったら、まず隣の席の奴に自分から声を掛けようと決めていた。
後から肩に手を置き、隣に座りながら目を合わせた時──確かにハッと息を呑んだ。
(可愛い顔……)
それが七生に対する和志の印象──だが、だからそれが何だと言うのだ。
七生とは親しくなれなかったが、でも友達は大勢出来た。今では毎日が楽しくて充実した日々を送っている。
──でもこの胸にくすぶる思いが何なのか、和志にはまだそれがよく理解出来ない。
和志は思い切り海に潜った。燦々と降り注ぐ太陽の光を受け、海中は思いのほか鮮明に見渡す事が出来た。
(七生が俺を嫌がっているなら、もう、七生の嫌がる事はやめよう……)
どれだけ自分が傷付いているのか、和志にはそれを推し量るだけの経験が未だ乏しい。ただ、少し胸が痛むだけ──。
確かにそれは「恋」とは言えない。
未だその意味さえ実感の無い少年にとって「友情」は「恋」よりも切ない大問題。
(七生、どうしたら俺たち、友達になれる?)
どうしてこんなに友達になりたいのか。どうしてこんなに近付きたいのか──。
和志は眩しい太陽に目を細め、ゆらゆらと波間を漂っていた。
────同じ頃、七生も海に漂っていた。
七生の脳裏に、先程の委員長の言葉が甦る。
(藤崎君は、瀬尾君の事が嫌い?)
そう改めて聞かれると違和感を覚える。
(僕が、和志を嫌ってる……?)
七生は揺らめく波間に身を任せ、ただ和志の事だけを思い描いた。
(僕は和志の事を、嫌ってなんかいない)
そんな当たり前なことに今さら気付いて驚く七生。本当は誰より心惹かれ、眩しいほどに輝く存在──それが和志なのだ。
なのにそんな和志が近付く程、逆に七生は逃げてしまう──。
七生には自分の心が分からなかった。分かっているのはこれまでの一年間、和志に冷たく当たって来たと言う紛れもない事実だけ。
(どうして今更仲良く出来る?──もう僕たち、普通に口も利けないね……)
遠浅なこの海岸は、いま大きな波のうねりも無く、静かに七生の身体を包み込む。
(もう少し、沖の方まで泳いでみようか)
確かにそれは、七生らしからぬ衝動だった。
(和志……いっそ君に嫌われたなら、どんなに心が軽くなれるか……)
「あっ!!」瞬間──七生は思い切り波を被った。一気にむせ返る量の海水を呑み込む。
波に襲われた訳ではない。七生自身がバランスを崩し、海中に沈み込んだ
(しまった!足をつった!!)
右足、ふくらはぎの筋肉が激しい痛みと共に収縮する。
(落ち着け!冷静に対処するんだ!!)
七生は必死になって自分にそう言い聞かせた。だが一度崩してしまった体勢は、そう安々と立て直せるものではない。
何の支えも無い水中での腓返りは、どんどん筋肉の収縮が進み激痛は増すばかりだ。
全力で顔を水面に上げようとしても身体は下へ下へと吸い込まれて行く。
(もう……だめだ…………)
七生の視界に次々と無意味な景色が映し出される。
青い空。流れる雲。遠い砂浜と水中の白い泡ぶく。
そんな目まぐるしい光景が一転して闇に閉ざされる寸前、七生は確かに見定めた。
──水しぶきを上げながら猛然と泳ぎ来る少年の姿。
(か……和志………………)
そして七生は気を失った──。
「おい七生!しっかりしろ!!」
沈みかけた七生の身体を辛うじて掴んだ和志は、満身の力を振り絞り引き上げ抱きかかえた。
返事が無い。
「な!七生!!」
和志は必死に泳いだ。いくら海に慣れた和志でも、さすがに七生を抱えて岸までたどり着くのは容易ではない。
事の次第に気付いた仲間達が一人、また一人と援護に加わる。
そして砂浜に降ろされた時、七生は息をしていなかった。
「七生!目を開けろ!しっかりするんだ!!」
慌てふためきながらも、和志は臨海授業で教わったばかりの応急処置を試みる。
「七生!吐け!海水を吐け!!」
和志は震える両手で七生の顔を真横に倒し、口中に指を突っ込み舌を押さえる。
何の反応も無い。
「七生!!!」
顔面蒼白の和志。
今度は七生の顔を仰け反らせ、大きく口を開けると鼻をつまみ、ためらいもなく自分の口を押し当てた。
そして和志は無我夢中。二度、三度と七生の口に息を吹き込む。
(七生!目を開けてくれ!!)
和志の瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、七生の頬をしとどに濡らす。それでも七生は、もはや蒼白の顔色に血の気も無い。
(どうしよう!七生が死んでしまう!!)
和志は子供らしく泣きながら、必死に息を吹き込み続けた。
「うっ、うう……」
「七生!!!」
───「げっ、げほんげほん!」
突然七生の顔が苦痛に歪み、大量の海水を吐き出し始めた。
和志は顔を崩し、溢れる涙を拭いもしない。
「七生!よかった!!」
和志は嬉しさのあまり七生の身体を抱きしめる。とにかく涙が止まらない。
徐々に覚醒しようとする七生の脳裏に、微かながら潮騒の音が響き始めた。
抱きしめられた安堵感。素肌同士が触れ合う心地良さ──。
七生はそっと、瞳を開けた。
「………かず……し…………」
「七生……もう大丈夫だ……!」
間近に和志の笑顔があった。眩しい太陽の逆光の中に、涙まみれの最高の笑顔。
「和志……」
七生はその震える指先で、そっと和志の頬へと触れる。
溢れる涙。
高鳴る鼓動。
七生は眩しげに目を細めた。
「…………和志………好き………僕、和志が好き…………」
「七生………それ、今か……?」
「……うん……今だよ…………?今、言わなければ……一生………言えない…………」
「な……七生………」
思いもよらぬ七生の反応。和志はただただ戸惑うばかりに、そっと七生の頭を撫でた。
(俺のこと、嫌っていた訳じゃなかったんだな)
そっとまつ毛を伏せながら、七生は和志に身体を預ける。
(和志………分かったよ。
いや、ずっと前から分かってた。僕は和志が好きなんだ……ずっとずっと、好きだったんだ……)
全てを委ねる七生に応え、和志は両手に力を込めた。抱き合う二人に言葉は要らない。
(僕は和志に助けられた。和志がいたから、僕は生きて行ける)
七生はその時、生涯に渡る決心をその胸に刻んだ。
(和志に拾われた命だから、僕は和志の為に生きて行くんだ)
七生の決心は強かった。
人生を決めた真夏の出来事。
それが二人の始まりだった。
七生は一人、水平線を眺めていた。
「七生どうした?海に入らないのか?」
和志は真っ黒に焼けた顔に白い歯を見せ、砂浜に座り込む七生に声を掛けた。
長い手足。しなやかな少年らしい身体付き。和志はこの一年間に、見違える程の成長を遂げていた。
「…………」
七生は黙ったままそれを無視し、いつものようにそっぽ向いた。
和志はやれやれと言った表情を見せ、仲間たちの待つ波間へと向かい駆け出して行く。
その後ろ姿を見詰めながら、七生は思わず胸を押さえた。
──キュンと胸が締め付けられる。
(君はクラスの人気者だろ?僕なんかに構う事はないんだ)
臨海学校──この古風な響きの夏の行事も、資訓学院=伝統儀式のひとつと言える。
「藤崎君、元気が無いね。どうかした?」
背後から声が掛かった。それはクラスの学級委員長──。
「え?ん~ん、別に……」
七生はそんな気の無い返事。
「見てたよ今。瀬尾君、せっかく声を掛けてくれたのに、藤崎君は瀬尾君のことが嫌い?」
不意討ちのように和志の事を話題に出され、七生は慌ててそっぽ向く。
「嫌いだよ。あんな奴……」
「ふふっ、何だかおかしいな」
「え、何がだよ?」
七生が真っ赤な顔で振り返る。
「うん、だってさ、藤崎君は誰にだって愛想がいいし、そんなに他人の事で躍起となったりしないのに、何故か瀬尾君にだけはきついんだよね。今だって、とことん冷たく無視してた」
「そ、それは……」
「瀬尾君、君の事をすごく気に掛けているみたいだし、何をするにも真っ先に君を誘うだろ?今や瀬尾君はクラスのリーダー的存在だしさ、あんな風に特別にされれば、誰だってすごく嬉しいと思うんだけどな」
「……僕が、特別にされてる?」
「うん、そう見えるよ?」
「そんな事ないよ、あいつは誰にだって声を掛けるし……優しいんだ……」
その事が、余計に自分を苛立たせている事に七生は未だ気付いてはいない。
「瀬尾君、いい奴だよ?」
「……うん」
そんな事は十分に知っている。知っているのに──。
「どうしてそんなに嫌うの?」
それが分からないから悶々とする。
「少し、泳いで来るよ……」
──七生は委員長を置き去りに、そのまま真っ直ぐ海へ向かった。
────時は数分さかのぼる。
一人波間に浮かんでいた和志は、ふと気になって砂浜を見た。遠く離れた七生の姿に目をやると、委員長と何やら親しげに話している。
(俺とは、ろくに口も利かないのに……)
この寂しさは何だろう?
12歳の少年に、その寂しさの正体を自覚する事は難しかった。ただ初めて会った一年前から、何故か七生の存在が気掛りで仕方が無い。
(俺、何か嫌われるような事をしたっけ……?)
じっと砂浜を見詰める和志に、仲間の一人が声を掛ける。
「おい和志、何をポカンとしているんだよ!」
「あ、いや何でもない!」
和志ははにかんだ笑顔で答え、仲間達の元へとひと泳ぎ──。
「和志、藤崎を見ていたんだろ?」
「え?いや、別に……」
「隠すなって、みんな知っているんだから」
「知ってるって、何の事だよ?」
「だからつまり、おまえって人が良いからさ、いつもああして一人でいる藤崎の事が気になって仕方が無いんだろ?」
(そうなのかなぁ?)
と、和志は思う。自分の事なのによく分からない。
「でもさぁ和志、そんなの全然気にするなって!おまえはまだ同じクラスになって一年だから知らないんだろうけど、藤崎はああして一人でいるのが好きなんだ。頭のいい奴って、やっぱり俺たちとは違うよな。俺たち別に、仲間外れにしている訳でもないし」
「おい待てよ!俺は別に、七生を仲間に入れてやろうなんて、そんな上から偉そうな事は思ってないよ。ただ、もう少し仲良く出来ないかなって、そう思っているだけなんだ」
「あ~あ、それならおまえ、全然逆さまな事やってるよ~。藤崎のことをやたらに構うから、だからかえって避けられるんだ。大体、おまえ藤崎の事を七生って、そんな馴れ馴れしく呼ぶ奴なんて他にいないぜ?」
「馴れ馴れしい?……やっぱ俺、嫌われてんのかなぁ?」
「うんうん、それも最悪級だぜ?あの人当たりのいい藤崎がこれ程露骨に嫌がるなんて、これまではまるで無かったからな」
「そうか……俺、嫌われてるんだ……」
和志は仲間達から離れ、さらに沖へと泳ぎ始めた。海での遠泳は和志の得意とするところである。
ひたすら泳ぐ和志の胸に、自分でもよく分からない不思議な感傷が込み上げてきた。
(俺は七生と友達になりたい)
──出会ったあの日を思い返す。
5年生で新しい教室に入ったら、まず隣の席の奴に自分から声を掛けようと決めていた。
後から肩に手を置き、隣に座りながら目を合わせた時──確かにハッと息を呑んだ。
(可愛い顔……)
それが七生に対する和志の印象──だが、だからそれが何だと言うのだ。
七生とは親しくなれなかったが、でも友達は大勢出来た。今では毎日が楽しくて充実した日々を送っている。
──でもこの胸にくすぶる思いが何なのか、和志にはまだそれがよく理解出来ない。
和志は思い切り海に潜った。燦々と降り注ぐ太陽の光を受け、海中は思いのほか鮮明に見渡す事が出来た。
(七生が俺を嫌がっているなら、もう、七生の嫌がる事はやめよう……)
どれだけ自分が傷付いているのか、和志にはそれを推し量るだけの経験が未だ乏しい。ただ、少し胸が痛むだけ──。
確かにそれは「恋」とは言えない。
未だその意味さえ実感の無い少年にとって「友情」は「恋」よりも切ない大問題。
(七生、どうしたら俺たち、友達になれる?)
どうしてこんなに友達になりたいのか。どうしてこんなに近付きたいのか──。
和志は眩しい太陽に目を細め、ゆらゆらと波間を漂っていた。
────同じ頃、七生も海に漂っていた。
七生の脳裏に、先程の委員長の言葉が甦る。
(藤崎君は、瀬尾君の事が嫌い?)
そう改めて聞かれると違和感を覚える。
(僕が、和志を嫌ってる……?)
七生は揺らめく波間に身を任せ、ただ和志の事だけを思い描いた。
(僕は和志の事を、嫌ってなんかいない)
そんな当たり前なことに今さら気付いて驚く七生。本当は誰より心惹かれ、眩しいほどに輝く存在──それが和志なのだ。
なのにそんな和志が近付く程、逆に七生は逃げてしまう──。
七生には自分の心が分からなかった。分かっているのはこれまでの一年間、和志に冷たく当たって来たと言う紛れもない事実だけ。
(どうして今更仲良く出来る?──もう僕たち、普通に口も利けないね……)
遠浅なこの海岸は、いま大きな波のうねりも無く、静かに七生の身体を包み込む。
(もう少し、沖の方まで泳いでみようか)
確かにそれは、七生らしからぬ衝動だった。
(和志……いっそ君に嫌われたなら、どんなに心が軽くなれるか……)
「あっ!!」瞬間──七生は思い切り波を被った。一気にむせ返る量の海水を呑み込む。
波に襲われた訳ではない。七生自身がバランスを崩し、海中に沈み込んだ
(しまった!足をつった!!)
右足、ふくらはぎの筋肉が激しい痛みと共に収縮する。
(落ち着け!冷静に対処するんだ!!)
七生は必死になって自分にそう言い聞かせた。だが一度崩してしまった体勢は、そう安々と立て直せるものではない。
何の支えも無い水中での腓返りは、どんどん筋肉の収縮が進み激痛は増すばかりだ。
全力で顔を水面に上げようとしても身体は下へ下へと吸い込まれて行く。
(もう……だめだ…………)
七生の視界に次々と無意味な景色が映し出される。
青い空。流れる雲。遠い砂浜と水中の白い泡ぶく。
そんな目まぐるしい光景が一転して闇に閉ざされる寸前、七生は確かに見定めた。
──水しぶきを上げながら猛然と泳ぎ来る少年の姿。
(か……和志………………)
そして七生は気を失った──。
「おい七生!しっかりしろ!!」
沈みかけた七生の身体を辛うじて掴んだ和志は、満身の力を振り絞り引き上げ抱きかかえた。
返事が無い。
「な!七生!!」
和志は必死に泳いだ。いくら海に慣れた和志でも、さすがに七生を抱えて岸までたどり着くのは容易ではない。
事の次第に気付いた仲間達が一人、また一人と援護に加わる。
そして砂浜に降ろされた時、七生は息をしていなかった。
「七生!目を開けろ!しっかりするんだ!!」
慌てふためきながらも、和志は臨海授業で教わったばかりの応急処置を試みる。
「七生!吐け!海水を吐け!!」
和志は震える両手で七生の顔を真横に倒し、口中に指を突っ込み舌を押さえる。
何の反応も無い。
「七生!!!」
顔面蒼白の和志。
今度は七生の顔を仰け反らせ、大きく口を開けると鼻をつまみ、ためらいもなく自分の口を押し当てた。
そして和志は無我夢中。二度、三度と七生の口に息を吹き込む。
(七生!目を開けてくれ!!)
和志の瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、七生の頬をしとどに濡らす。それでも七生は、もはや蒼白の顔色に血の気も無い。
(どうしよう!七生が死んでしまう!!)
和志は子供らしく泣きながら、必死に息を吹き込み続けた。
「うっ、うう……」
「七生!!!」
───「げっ、げほんげほん!」
突然七生の顔が苦痛に歪み、大量の海水を吐き出し始めた。
和志は顔を崩し、溢れる涙を拭いもしない。
「七生!よかった!!」
和志は嬉しさのあまり七生の身体を抱きしめる。とにかく涙が止まらない。
徐々に覚醒しようとする七生の脳裏に、微かながら潮騒の音が響き始めた。
抱きしめられた安堵感。素肌同士が触れ合う心地良さ──。
七生はそっと、瞳を開けた。
「………かず……し…………」
「七生……もう大丈夫だ……!」
間近に和志の笑顔があった。眩しい太陽の逆光の中に、涙まみれの最高の笑顔。
「和志……」
七生はその震える指先で、そっと和志の頬へと触れる。
溢れる涙。
高鳴る鼓動。
七生は眩しげに目を細めた。
「…………和志………好き………僕、和志が好き…………」
「七生………それ、今か……?」
「……うん……今だよ…………?今、言わなければ……一生………言えない…………」
「な……七生………」
思いもよらぬ七生の反応。和志はただただ戸惑うばかりに、そっと七生の頭を撫でた。
(俺のこと、嫌っていた訳じゃなかったんだな)
そっとまつ毛を伏せながら、七生は和志に身体を預ける。
(和志………分かったよ。
いや、ずっと前から分かってた。僕は和志が好きなんだ……ずっとずっと、好きだったんだ……)
全てを委ねる七生に応え、和志は両手に力を込めた。抱き合う二人に言葉は要らない。
(僕は和志に助けられた。和志がいたから、僕は生きて行ける)
七生はその時、生涯に渡る決心をその胸に刻んだ。
(和志に拾われた命だから、僕は和志の為に生きて行くんだ)
七生の決心は強かった。
人生を決めた真夏の出来事。
それが二人の始まりだった。
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