ハルヒカゲ

葉生

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一章

一〇話 - 一

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「今度は桃色? 威は本当にすきだな。側近が色とりどり」
 はだけている胸元を隠そうともせず、女性は仄羽に微笑んだ。赤目、ということは、祇矩藤の家系だ。歳は威と変わらないくらいだろうか。はしたない恰好をしているのに、彫刻のような端正さが印象づよい。
「うるさい」
 はっとして威のほうに目をやれば、眉根を寄せた威にじろりと睨まれる。言われたことに反したせいである。しかし威の態度から、決して色気のある逢瀬ではないとわかり、内心ほっとした。
「はやくどけ。衿も整えろ」
「ええ?」
 女性は片眉を持ちあげ、ゆったりとした動作で仄羽を見つめた。赤目、というだけで仄羽の身が一瞬こわばる。女性はそんな仄羽に気づいているのかいないのか、なるほどなるほど、と一人納得したように何度も頷いた。
「威の愛人だ」
 ぱっと華やぐ笑顔で指を差されながら言われる。無邪気、としか表しようがない明るさに、仄羽は絶句した。愛人。確かに、そうなのかもしれない。威の年齢を考えれば祇矩藤家当主としてもう子がいてもおかしくないのであるし、そうでなくとも許嫁の一人や二人、いるのかもしれない。むしろいないほうが不自然だ。いやそもそも、春嵐の住民でありながらそれを知らないことを「無知」と叱られてしまいそうである。
「嫉妬深いと威には合わないんじゃないか? 威が誰かひとりだけを相手にするなんてありえないんだし」
 あるいはこの女性が、許嫁だったりするのではないか。そう考えていると、
「愛人じゃない」
 鋭く威の声が走った。
「仄羽は愛人じゃない。これから先、僕は仄羽だけだ」
 それまで人を食ったように笑っていた女性が、初めて表情を崩す。威はいつまでもどかない彼女を蹴り飛ばし、仄羽を呼んだ。仄羽はうろたえたものの、今度は手招きまでされる。資料を手におずおずと威の傍に向かう。襖を開けたまま部屋に入る時機を逸していたので、動く理由をもらえたのは正直なところありがたかった。
「ええ? 嘘でしょ……?」
 蹴飛ばされた状態のまま、女性がぽつりと呟いたのが聞こえてくる。心底から驚いているようだった。
 威に資料を差し出すと、するりと指をなでられた。思いもしなかったことに、一瞬女性を忘れて赤面する。威は仄羽に対してほんの少し相好を崩したかと思えば、すぐ資料を広げ平素どおりに仕事を始めてしまった。状況の説明もしてくれないのに、なんてひどい所業だろうか。
「あれのことは」
 なでられた指をぱっと覆う。威は書面に視線を落とし、筆を動かしながらつまらなさそうに言った。
「何も気にしなくていい。犬と同じだ」
「うそ、威、犬とも交わる趣味が?」
「あるわけあるか。お前のことだ」
 威は語気をつよくして、勢いよく文鎮を投げつける。仄羽は慌てて腰を浮かしかけるが、投げつけられた女性は、いて、と口では言いつつ軽く受けとめた。反応を見るに、慣れているようだ。
「わかってる。だから言った」
 犬呼ばわりされたことには腹を立てた様子もなく、あっけらかんと言う。つまりそれは、と仄羽は指をなでる。いや、威の相手が仄羽以前には複数いたことはすでに知っている話だ。先ほどの「これから先」という威の言葉を信じればよいのであり、ここで気持ちを沈めるのは適当ではない。
(でも、まったく気にしないっていうのは、わたしにはできない)
 一度知ってしまうと、目の前のこの女性がいったいどんな時間を威と過ごしてきたのか、比べるものではないとわかりつつも聞きたくなってしまう。
「許嫁だ」
 律儀に文鎮を文机に戻し、乱れた胸元を整えながら女性は言った。立っている女性に対して、座っている仄羽は見下ろされる形になる。紅い双眸が弧を描いて、仄羽を射る。
「僕は威の従妹で、許嫁。名を葛佐規世統、世を統べると書いてよすみと読む」
 さらに愉快そうに細くなる瞳に、仄羽は瞬きすら忘れて見つめ返す。仄羽が入ってすぐの軽薄な空気はなりを潜め、世統が仄羽を品定めしているのが感じとれた。
「わたしは」
 ともすれば頭をもたげかけるのをぐっと堪える。祇矩藤の人間を前にしてしまうと本能的に崇敬の心が全身を支配して、すぐに畏服しそうになってしまう。もちろん畏敬の念はあるし、対等でないことは確かなのだが、仄羽は威の「お気に入り」ではない。暁たちが言っていたとおり、瑞矢や暁とも違う場所をほかならぬ威に与えられたのだ。七嶺に言われたとおり、「お気に入り」ではいやだ。いやだと思い、威がそれを許している。あとは自分で自分の立ち位置を受け入れて、示していく以外にわかってもらう方法はない。
「狄塚仄羽、です。威さまのお傍にいることを許されました」
 世統は腰を折り、仄羽に顔を近づけて覗きこむようにした。目を離したくなる気持ちに必死に抗っていたら、世統は再び目を細め、声をあげて笑った。
「結構結構。僕らはよわいんだ、お前みたいなのに」
 お前みたいなの、の意味がわからずに仄羽は疑問符を浮かべるが、ひとまずは認められたらしい。ほっと全身を弛緩させる。
 笑っている世統にわざとぶつけるように、威は書き終えた書類を机上から弾いた。見事命中し床に落ちた紙を仄羽は拾う。もし踏まれたら大変だ。
「形式上だ。別に許嫁なんて、いつでも反故にできる」
 次の書類に目を通しながら、威が言う。
「まあな。血筋を絶やさないため一応は決められるだけで、心配するようなことはない」
 と世統も言うので、仄羽は拍子抜けする。それでは世統が威に迫っていたのは何だったのか、と思えば、
「ま、僕は威と結婚してもいいけどな」
 けらけらと笑う世統に、仄羽は口を結ぶ。では結局、迫っていたのは本気だったのだ。威が明らかな拒絶を見せていたのでいらだちはしないが、内心落ちつかない。知らないことがあまりにも多すぎる。これまで無頓着に生きてきた自分を引っぱたきたい気持ちになり、しかし過去には戻れない。仄羽はひとり静かに深く呼吸をした。
「つまり」
 つ、と世統に顎をとられる。口づけられるではないかという距離で、世統は妖艶に笑った。従兄妹というだけあって、威によく似ている。生まれた瞬間から人の上に立つことを約された魅力が彼女をまとっていた。
「僕をいかに利用するかは仄羽、お前次第だ」
 仄羽は薄く眉根を寄せる。利用。何のために利用するというのだろう。聞く前に、たとえば、と世統が続ける。
「たとえば、威の右目を潰したのは誰なのか、とか」
 瞬間、ばちん、と突然大きな音がして、仄羽は体を震わす。
「黙れ」
 床に文鎮が転がっている。音の正体は、威が投げつけた文鎮を世統が反射的に叩き落としたために起きたもののようだ。響きからして、一度目よりも相当つよく投げられたに違いない。
「……やだな。怒るなよ」
 威が世統に向ける視線は鋭く、仄羽はひるんだ。自分が睨みつけられているわけではないのに背筋が寒い。
 動けずにいる仄羽とは違い、世統はゆっくりとした動作で文鎮を拾いあげる。痛むのか、赤くなりかすかに震えている手で、威の文机に置いた。
「ごめん。ちょっと、悔しくなって」
 これまでとは打って変わって殊勝な声で、ぼそりと落とすように世統は言った。威はなおも世統をねめつけていたが、最終的には不機嫌さはそのままにまた筆をとった。
 しんとした空気が流れ、仄羽は威を見る。世統は知っているのだろうか。威の右目を刺したのが誰なのか。あの包帯の下がどうなっているのか。
「……何をしに来たの、世統」
 筆を投げ置いて、威は言った。不機嫌さは露骨なまでに表に出しているとおり、くすぶりはまだ消えていないのだろう。それでも怒りを持ったまま問いを投げるというのは、普段の威からはありえないことだ。つまり、世統にはやさしい。たとえ遠慮なくものを投げつけていても。
「そりゃ、威の様子を見に来た」
 煙管に火がつけられて、いつもの香りが仄羽の鼻腔をつつく。悄然としていたはずの世統はもう元気を取り戻し、笑って答えていた。
 もっと威に相応しくなりたい、と言った昨夜の言葉を、仄羽はもう一度噛みしめる。相応しくあるために、蚊帳の外ではいやだ。世統や瑞矢たちから、自分の知らない威の一面を聞かされるのは悔しい。きっとこれからこうなるだろう、と悠長に構えているだけではだめなのだ。
(貫爾と同じになってしまうのは、いや)
 そして単純に、威が自分ではない女性と親し気に話しているのを見ると、腹の底が熱を持つ。いい加減自覚していた。これは、嫉妬だ。
「でも不思議だなあ」
 いつの間に目の前に来ていたのか、仄羽は世統の憚らない距離感にびくりとする。
「髪の色が違えばいいってものではないんでしょ。だったらもう七嶺が恋人だろうし」
「お前には関係ない」
「あっちのほうが美人なのに」
 確かにそのとおりなのだが、改めて他人に評されると傷つく。髪の色が同じであれば、おそらくそもそも七嶺と仄羽を比べようとも思わなかっただろうに。返す言葉もなく黙っていると、
「僕には仄羽がいっとうかわいい」
 と、威が煙を吐きながらなんでもないことのように言うので、仄羽は今度こそ言葉を失って頬を赤く染めた。ついこの先日まで「威は行為のときだけやさしいのだろうか」などと思っていたのに、明らかに距離が近くなっている。意識すると、途端に恥ずかしくなってきた。
「ふうん」
 じろじろと世統に見られて、仄羽は気持ち体を縮める。照れているところなど人には見られたいものではないのに、一切の気遣いがない。
「ま、顔がすべてじゃないしね」
 自身を納得させるためかはたまた本心か、どちらともとれることを世統は言い、やっと仄羽から離れた。仄羽は安堵し、無意識のうち威の近くに身を寄せる。〔春日〕に来てからどちらかといえば感情の平坦な、少なくとも表面上は静かな人たちと接してきたためか、主張のつよさに面喰らう。しかし我田引水なあたりは、さすが威と同じ祇矩藤である。口が裂けても言えないが。
「でも言ってたら会いたくなってきちゃったな。ねえ仄羽」
「はい」
 返事をしつつ、体は世統から離れるように、そして威に近づくように小さく動く。仄羽に人見知りの気はないが、世統に対しては警戒が解けない。いや、この短いやりとりのなかで警戒が生まれた、というべきか。
「七嶺のところに連れてってよ」
「だめです」
 返事をしたのは仄羽ではない。襖のほうから声が聞こえてきたので顔を向ければ、暁が立っていた。走ってきたのか髪と息がやや乱れている。
「アカ、遅い」
「これでも嫌な予感がして、用事を終えてすぐ戻ってきたんすけど」
 はあ、と呼吸を整えるためか暁は額を拭きながら溜息をついた。うっすらと汗がにじんでいる。やはり走ってきたのだろう。いつも飄々としている暁のこんな様子はめずらしい。口元からも笑みが消えている。
「朝月夜!」
 ぱっと声を華やげて、世統が暁に勢い抱きついた。暁はややよろけつつも世統を受けとめ、慣れた様子で世統の頭をなでる。繰り広げられている光景に仄羽はついていけない。祇矩藤の人間に対して頭をなでるなんてありえないことだ。暁が叱られはしないかとどきどきしたが、威も世統も何を言う素振りも見せない。世統に至ってはむしろにこにことして、うれしそうに抱きついたまま暁を見上げている。
「朝月夜、嫌な予感とは何だ。世統ちゃんだぞ。朝月夜だってうれしいだろう、僕に会えて」
 ふたりして暁の名前をきちんと呼ばないので、脳内でやや混乱する。アカ、はいつもの威が暁を呼ぶときの名であり、朝月夜、とは暁が陰間だったときの源氏名であるはずだ。
 そういえば暁、もとい朝月夜は傾城屋〔鹿火〕にいたのだと聞いた。〔鹿火〕は祇矩藤の分家である葛佐規が経営する傾城屋だ。推察するに、暁は〔鹿火〕の時代から世統と知り合いだったのだろう。
「うれしいだろう、そうだろう? 世統ちゃんだぞ」
 幼い子どものように言葉を繰り返す世統だが暁は答えず、世統をやんわりと引きはがす。手慣れている、としか評することのできない自然さだった。
「世統さま」
「世統ちゃんと呼べ!」
「呼びません」
 ぴしゃりと言い放ち、暁は再び嘆息した。
「世統さま、楡はどうしたんです。連れてきてるんでしょう」
「うん。〔春日〕を一周したら戻ってくるように言いつけた。あと小兎への土産を見繕ってくるように」
 暁を相手にすると存外素直に言葉を連ねる世統を見て、仄羽は瞬く。威に対して見せていたのとも、仄羽に対して見せていたのとも異なる、柔らかな表情と声音だ。
 対する暁も、世統には態度が違う。普段の軽妙な口調はなくなっているし、走って疲労しているのとは別に、笑みをつくる気がないようだ。淡泊ともいえるが、そうではなく、むしろ親しみがあるからこその言動ではないかと仄羽は感じた。
 じっとふたりを見ていると、横から威に煙を吹きつけられて咳きこむ。完全に油断していた。威はそんな仄羽を見て笑った。
「仲がいいんだ、あのふたりは」
 ひっそりとささやくように、威は仄羽に言う。
「だから、アカは七嶺に世統を会わせたくない」
「え?」
 七嶺と世統が会ったところで、暁は第三者になるのだから関係のないことだろう。どこに問題が発生するのか判然としない。
 首を傾げる仄羽に、威はまた笑う。
「世統に七嶺を、じゃない」
 どういう意味だろうか。仄羽はますます首を傾げる。威が何かヒントをくれているのはわかるのだが、まるで謎解きだ。
「あれ、襖開いとるやん」
「楡」
 また別の声が聞こえてきた。眼鏡をかけた男性が箱を片手に立っている。世統の反応を借りれば楡、というらしい。黒髪黒目に見えて、髪の内側が緑色だ。七嶺の虹色に輝く黒髪も驚いたが、二色というのもあるのか。〔春日〕に来てから、自分がいかに狭い世界で生きていたのかをしみじみ実感する。色が違うのは仄羽が思うほどめずらしいことではなかったのか、それとも中央に集中しがちなのか。
「遅いぞ楡」
 世統は今度は楡に抱きつき、抱きつかれた楡は箱を落とさないように手だけ避けた。暁に比べると慣れていないのか、動きがどこかぎこちない。
「そんなこと言って、都合よく言い換えるやろ世統さまは」
 言葉に西部の訛りがある。仄羽の母早彰は西部の生まれだった。母の口から時たま聞こえてきた響きとこんなところで再会するなんて。仄羽が思わず楡を見つめると、視線に気づいた楡が仄羽を見つめ返す。
「新しいひとですか?」
 楡は仄羽に、というよりは暁に尋ねた。暁は頷き、世統を楡から離す。世統は不服そうに唇を尖らせたが、文句は言わず、楡から箱を奪い取って中身を確認し始めた。
「狄塚仄羽です」
「あ、どうも。楡といいます。まあ本名には掠りもしてないんやけど、世統さまに名づけられたのでそう呼んでください」
「楡、これ栗餡?」
「漉し餡と粒餡と栗餡です」
 他人の会話には興味がないのか、世統は挨拶をしあっていることなど頓着しない。楡はそんな世統には慣れているらしく、慌てることなく答えた。そしてまた仄羽に目線を戻す。
「祖母がね、異人で。西部の育ちやったんです」
「おばあさんが?」
「ええ。で、隔世遺伝で、中途半端に。半分だけ髪が黄緑という次第で」
 自然と口から感嘆の息が漏れた。異人と春嵐の人間の間に生まれれば髪か瞳の色、もしくは両方が黒以外で生まれてくる、とずっと思っていたが、隔世遺伝もあるなんて。そしてその場合はすべてではなく半分だけなんて、なんて不思議なのだろう。
「楡以外には見たことないけどね」
 灰を落としながら、威が言う。賑やかになってきて集中を諦めたのか、再び煙草を詰め始めた。
「年寄りがこだわる前例ってやつだ、そいつは」
 煙管で差された楡は、さっと頭を下げた。自身の主人である世統には気安く接していたのに、威には一転してうやうやしい態度を保っている。よく見れば楡は襖の向こう側に立っていて、部屋に踏み入ろうとはしていない。
「いいだろう、楡は僕が見つけたんだ。威にはあげないよ」
「お前のお古なんていらん」
 箱を楡に返して、世統は楡の首に腕を回す。密着された楡は頭を上げた以外はされるがままだ。恋人というわけではないらしい。かといって気まずさもなく、いつものこと、とばかり流しているように仄羽には見えた。
 二人の傍に立ったままの暁は、視線を落として沈黙している。そのまま歩けば鴨居に頭をぶつけるほどの長身で目立たないわけはないのに、意識して確認しなければ見失いそうになる。仄羽が知っている暁とは雰囲気が遠すぎて、不安に駆られた。思わず声をかけようとすると、
「アカ」
 突然の尖り声に、仄羽は驚いて背筋が伸びる。決して声量は大きくなかったが、まっすぐに空を切って耳に届いたと見え、暁はぱっと顔を上げて丸くさせた目を威に向けた。
「僕の側近だぞ、お前は」
 言われた暁は瞬きとともに視線を泳がせた。やがて消え入りそうだった気配は存在感を戻し、全身から力が抜けていくのが仄羽にも見てとれた。緊張していたのか。いったい何に。どうしていま、わざわざ立場を再認識させるようなことを、威は言ったのだろう。
「はい」
 少なくともそう頷いた暁の声はどこか随喜の色を見せていた。柔らかい微笑みのあと、いつもの笑みを口元に浮かべる。そのあとはもう、仄羽が知っている暁だった。
 そんな暁とは逆に世統は眉根に深い皺をつくり、不機嫌を露わにした。
「僕が」
 棘のある声音で世統は続ける。楡から離れ、威を睨みつけた。
「僕が取り立てようとしてたんだ、朝月夜のことは。威が奪ったくせに」
「はいはい、ありがたい話です」
 打って変わってひらひらと手を振り、軽い調子で暁が答える。世統は何かを言おうとしたが、結局拳をつくって自身の体を叩き、唇を閉じた。
「あんまり居座ると、小兎さまが心配するっすよ、世統さま」
「お前に世統さまなんて呼ばれたくない!」
 怒声が飛んでも、暁は素知らぬ顔で変わらずにこにことしている。楡は楡で世統をなだめようとはしておらず、関係性をいまいち理解しきれていない仄羽はおろおろとするしかない。するととん、と軽い音がした。威が灰を落とした音だ。
(そうだ)
 わからないのであればわからないなりに、いまできることをすべきだ。仄羽は三人の様子を観察する。暁は世統への態度が威に叱咤される前と後で別人だ。楡は懐っこい男ではあるが、していることは必要最低限。世統は、と考える。世統はどうやら、威や暁を前にすると感情のぶれが激しい。
「でもそうだな。楡は仄羽と同じ、市井の出だ。いざというときには訪ねるといい」
 やはり場の空気など気にせず、威が言う。反射的に仄羽は楡に頭を下げ、楡も仄羽に頭を下げた。
「……興がそがれた。帰る」
 吐き捨てて、世統はさっさと部屋を出ていく。では失礼いたします、と楡も世統を追って行ってしまった。
 市井の出ということは、もとから世統の側用人ではないということだ。世統も威と同じく髪や瞳の色が黒ではない町民に興味があるのか、たまたまなのか。とはいえ、「楡以外には見たことない」と威が評する相手を、たまたまで選ぶものだろうか。
 世統と楡が去っていくのを確認していた暁は、すっと襖を閉めて威の前に座った。威はこん、と小さく音を立てて煙管を煙草盆に打ちつけ、肘を机に立てる。煙草盆に置き捨てられた煙管から、ゆらゆらと細い煙が流れた。
「アカ、誤るなよ」
 両手をつき、暁は頭を下げた。仄羽は思わず見とれてしまう。頭から指先までの所作にあまりにも隙がない。
「はい、威さま」
「で、何の用だったの、全は」
 手をついたまま顔をあげた暁は、ちらりと仄羽を見やる。仄羽は小さく首を傾げるが、視線はすぐに威へと戻された。
「高瀬町から使いがあり、狄塚克登、狄塚早彰の研究に対する支援金の申し出がありました」
 父母の名だ。視線の原因を知り、体が硬直する。
「つまり?」
「両者が祇矩藤に借り入れていた金額は、すべて返済できるとみられます」
 つまり、仄羽が〔春日〕に身を置く理由はなくなった、ということだ。
 え、と素っ頓狂な声が、仄羽から漏れた。
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