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第二章

11 過去からの執念

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 一〇月一七日、一三時五三分、亀見区霧島町きりしまちょう内のマンション。
 五〇二号室のチャイムを鳴らすと、ドアはすぐに開かれた。

「ケイちゃ~ん! いらっしゃい!」

 部屋の主は、満面の笑みを浮かべてケイを出迎えた。

「こんにちは、雨野さん。あれから何ともないですか?」

「うん、大丈夫! さ、入って入って!」

「お邪魔します」

 リビングでは先客が待っており、テーブルの上には既に箱に入ったケーキに缶ジュース、食器一式が用意されていた。

「ケイ、来たわね」

「叔母さん」

 奏子は八日に退院した。二四日には、ケイと奏子、ケイの母、アイリの四人でファミレスで退院祝いの食事会をする事になっているが、その前に三人で集まらないかと雨野が提案したのだった。

「叔母さん、体調に問題はない?」

「大丈夫よ。ていうか、あたしよりも茉美子よ。ほんっと、心配したんだから」

「いやあ、自分でもビックリだよ。お見舞い行けなくなっちゃったし」

「そんな事はどうでもいいんだって! ケイとお友達があんたを偶然見掛けたから良かったけどさあ……」

 雨野が目を覚ました後、ケイはとりあえずその場凌ぎの作り話──偶然雨野を見掛けたので挨拶しようと後を追ったら、雨野が気絶するところを目撃した──で納得させ、大事を取って病院へ連れて行った。凪はその間に〈タイヨウドラッグ〉へ出向き、ケイが雨野に話して聞かせたものとほぼ同じ内容を店長に説明したのだった。

「本当に、ケイちゃんと凪君には感謝してるわ」

 雨野はケイに向き直ると、神妙な顔付きで頭を下げた。

「いえいえ、気にしないでください」

「凪君も来られれば良かったのに。改めて直接お礼を言いたかったな」

「わたしから伝えておきますね。どうしても仕事を休めなかったみたいで」

 凪が実際にそう言っていたのだが、男一人で気恥ずかしさがあったのだろうとケイは考えている。

「さ、早くケーキ食べましょうよ! 奮発していいやつ買ったのよ」奏子はケーキの箱を開封した。「ジャーン! どれを食べるかはジャンケンね」

「どれも美味しそう! 勝てるかな……あ、わたしスナック菓子買って来たんで、これも食べましょう」

「いいわねえ! たまにはカロリーとか気にせずドカ喰いしちゃえ!」

「なーんかこういうの、十年以上振りかも!」

 三人はまるで子供のようにはしゃいだ。



 二〇時〇七分。

「雨野さん、今日は有難うございました。夕飯までごちそうになっちゃって」

「こちらこそ、来てくれて有難うね。楽しかったよ」

 賑やかな集まりがお開きとなり、帰宅するケイを雨野と奏子が駅まで見送りに行く事になった。

「あたしは今日はこのまま泊まるからさ」奏子は言った。「もしかすると、この先ずっとここで寝泊まりするかもしれない」

「叔母さん、やっぱり……」

「うん。じっくり話し合ってみたけど、修復するどころか悪化したわ。今年中には──」

 奏子のスマホが鳴り出した。

「え、旦那からなんだけど。何よ。無視無視」

「出てあげたら? 大丈夫だよ、待ってるから」

「そうだよ叔母さん。重要な話かもしれないし」

「ん、わかった。ちょっと失礼。もしもーし……」

 奏子がリビングを出て行くと、雨野は食事中に座っていた場所に腰を下ろし、ケイに左隣に座るよう促した。

「ケイちゃん、今回は本当に有難う」

 ケイが座るなり、雨野はそう言って頭を下げた。

「本当に気にしないでください。もう何度もお礼言っていただきましたし」

「何回言ったって足りないよ。ケイちゃんは命の恩人だもの」

「あはは、そんな大袈裟な──」

「ケイちゃん、わたし、わかってるよ。ケイちゃんとお友達がわたしの近くにいたのは偶然じゃないって。二人が助けてくれなかったら、わたしは死んでいたって」

 困惑するケイに優しく微笑みかけると、雨野は廊下の方をチラリと見やった。強い口調で話す奏子の様子からすると、通話はすぐに終わりそうにはない。

「今回の件、ケイちゃんは何処まで知ってる?」

「えっと……死者の強い負の念が独り歩きするようになって、雨野さんに取り憑いていたって事くらいです。初めて病院で会った時には、気味の悪いオーラを発しているなって思ったんですけど、その……凪とは違う友人から教えてもらいまして」

「そっか」

「雨野さんには……心当たりが?」

「うん。ていうか、はっきりわかってる」雨野は大きく息を吐き出すと、忌々しそうに言った。「あのストーカー野郎め」

 一〇年以上前、雨野はバーで知り合ったある男と付き合い始めた。優しく穏やか、話し上手で聞き上手、そして何より雨野好みの容姿であったが、一箇月もしないうちに後悔する事になる。
 男はとにかく嫉妬深く、しつこかった。雨野が男友達からのたわいないメールに一回返信しただけで浮気を疑い、何度否定してもなかなか信用しない。安否確認を理由に毎晩電話を寄越す上に、一度のコールがとにかく長い。
 男の異常性は徐々にエスカレートしてゆき、耐え切れなくなった雨野は別れを切り出した。男は食い下がり、泣き落としにかかったが、雨野は流されなかった。

 別れから二週間と経たないうちに、男はストーカーと化した。雨野が何度か警察に相談した結果、男に接近禁止令が下されたが、あまり効果はなかった。
 そしてある日ついに、男は暴挙に出た。仕事帰りの雨野を捕らえ、顔を殴って怯ませると、自分の車に無理矢理押し込んで連れ去ろうとしたのだ。
 幸いにも、たまたま通り掛かった三人組のサラリーマンに助けられ、雨野は顔に軽傷を負っただけで済んだ。男は逮捕され、雨野はすぐに引っ越し、以降平穏な生活を送っていたのだが。

「今年の春頃にね、そいつが交通事故で死んだって、風の便りで聞いたの。ビックリしたけど、もうわたしには関係ないから、どうでもいいやって思った。
 でも、夏頃からちょっとずつ体調がおかしくなって……しまいには、毎日じゃないけど、頻繁に夢で魘されるようにもなって……。嫌な話を聞いちゃったせいだ、仕事が忙しくてストレス溜まってるから尚更だって自分に言い聞かせてたけど、ひょっとして、死んだあいつに呪われたか、取り憑かれたんじゃないかとも思ってたんだ」

 奏子がまだ通話を続けているのを確認すると、雨野は続けた。

「あの日……仕事中にだんだん具合が悪くなってきて、休憩に入った直後に、意識が遠のくような、自分の体が自分のものじゃないような、変な感覚に陥ったの。バイトの子が話し掛けてきたから何か答えたんだけど、そのうち頭の中であいつがわたしを呼ぶ声がして。あ、ヤバいなと思ったけど、その後は覚えてなくて、次に気付いた時には知らない場所で、ケイちゃんと凪君もいたってわけ。
 あいつの声の事は、最初は完全に忘れてたんだけど、仕事早退して布団で横になってたら、だんだん思い出してきて。ケイちゃんと凪君が、偶然わたしを見掛けたってのも、多分違うんだなって」

「……そうだったんですね……」

 ケイは、自分の直感を信じて正解だったと改めて実感した。もしもあの日行動しなかったら、完全に手遅れだったのだ。

「ケイちゃん、元々霊感あったの?」

「いえ、全然。でも何故か、雨野さんに取り憑いていた霊は見えたんで……」

 正直に話したら、雨野はどんな反応をするだろうか。死んだ友人が鏡の中に現れるようになってから、色々とおかしいんです。実は、雨野さんを助けたのはわたしと凪だけじゃなくて、その友人もなんですよ。ええ、勿論彼は死者です。

「そっかあ……ケイちゃんが見えてなかったら、わたし……うわあ……」

「あ、そうだ」

 ケイは横に置いたリュックの内ポケットから、黒水晶のブレスレットを取り出した。

「すっかり忘れてました……はいこれ、念の為に魔除けのお守りです。効きますよ」

「ケイちゃん……あなたわたしの守護霊?」

「勝手に殺さないでください」

 二人が笑っていると、奏子が戻って来た。

「奏子……旦那さん何だって?」

「それがさあ……」奏子は苦笑し、肩を竦めた。「やっぱりやり直せないかって。言い出しっぺのくせにさ」

「あら、良かったじゃない!」

「そうかなあ……」奏子は雨野の隣まで来ると、力が抜けたように座り込んだ。

「そうだよ、良かったんだよ」雨野は奏子の肩を抱いた。「それが一番だよ」

 ケイも頷いた。奏子は雨野とケイを交互に見やると、目に涙を滲ませながらも笑顔で「うん」と大きく頷いた。



 数箇月後、雨野は〈タイヨウドラッグ〉を退職した。ケイは後日、雨野本人からその理由を聞かされた。

「死んだあいつの実家が港北区内だったって事、急に思い出しちゃったのよ。何で今まで忘れてたんだか! まさかあいつの両親がわたしを逆恨みしているなんて事はないと信じたいけど、思い出した途端に不安になっちゃって。仕事自体キツくていずれ辞めたいとは思ってたし、丁度いいかなって」

 雨野を乗っ取った化け物が、自殺を図るのに何故あの墓場を選んだのか──ケイはその理由がわかった気がした。
 
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