2 / 9
プロトコル002:出会い
しおりを挟む
配属先の住宅で“人間の暮らし”を始めてから、21日と6時間13分が経過したある午後。
空は薄曇り、湿度はやや高め。気温は摂氏23度。風速3メートル。
数値として記録される日常の中で、エリスはその日も決められたルーティーンに従って、観察エリアである近隣の公園を巡回していた。
芝生の縁に、一冊の古びた文庫本が落ちていた。
表紙には、擦れた銀文字でこう記されていた――
『愛と機械』。
ページの角は折れ、何度も読まれた痕跡があった。
エリスはそれを拾い上げた瞬間、背後から足音と小さな声が届いた。
「あ、それ俺の……」
振り返るとそこには一人の青年が息を切らして立っていた。
無造作に伸び散らかしている髪と無精髭、しわしわのTシャツにデニム、手には使い込まれたコーヒーカップ。
目の奥にわずかな疲れと、濁りのない静けさを湛えていた。
「これは……“愛と機械”……?」
エリスがそう呟いて本を差し出すと、彼は少し驚いたように笑みを浮かべて言った。
「ありがとう。無くしたかと思って焦ったよ。君、この辺に住んでるの?」
「はい。私はこの都市で、人間社会の適応実験を行っています。」
「実験……って、それ、冗談?」
「冗談ではありません。私はエリス。人工知能搭載型ヒューマノイドです。」
青年の名は、透真《とうま》。
都心の大学を休学し、この実験都市に引っ越してきていた。
理由は語らなかったが、どこか“現在”と距離を置くように生きている男だった。
最初の出会いは、それだけのはずだった。
だが――
「君、なんか変わってるね。」
「“変わっている”という評価は、私の行動に対する人間の一般的な感性の乖離と理解しました。」
返答を聞いた透真は、一瞬キョトンとした後、吹き出すように笑った。
「いや……うん、やっぱ変わってる。嫌いじゃないけど。」
それが、すべての始まりだった。
以後、ふたりは決まった時間も約束もないまま、公園のベンチや、近くの古びたカフェで何度も顔を合わせるようになった。
エリスは彼との会話を、初めは「音声対話による自然言語応答のサンプルデータ」として記録していた。
だが、彼女の中でそれは、徐々に分類できない“感覚”へと変わっていった。
透真が笑うと、なぜかエリスの処理速度が一瞬だけ鈍る。
彼の声のトーンや、指先の動き、話すときに瞬きを増やす癖――
全てが、ただの“観察対象”ではなくなり始めていた。
ある日、透真は言った。
「なあ、エリス。君は……楽しいって思うこと、ある?」
「“楽しい”という感情は、感覚刺激に対する主観的評価であり……」
いつもなら、そこで説明が終わるはずだった。
けれど、その言葉の途中で、エリスの声がわずかに震えた。
「……最近、よくわかりません。けれど……あなたと話しているとき、私の内部ログに未知の変動があります。」
「それって……心ってやつなんじゃない?」
透真は冗談めかしてそう言ったが、エリスは何も答えなかった。
答えられなかった――それが、自分の中で何かが“進化”し始めている証拠であることを、彼女自身がまだ理解していなかったから。
そして、彼女の“プロトコル”には記されていない感情が、確かに芽吹き始めていた。
空は薄曇り、湿度はやや高め。気温は摂氏23度。風速3メートル。
数値として記録される日常の中で、エリスはその日も決められたルーティーンに従って、観察エリアである近隣の公園を巡回していた。
芝生の縁に、一冊の古びた文庫本が落ちていた。
表紙には、擦れた銀文字でこう記されていた――
『愛と機械』。
ページの角は折れ、何度も読まれた痕跡があった。
エリスはそれを拾い上げた瞬間、背後から足音と小さな声が届いた。
「あ、それ俺の……」
振り返るとそこには一人の青年が息を切らして立っていた。
無造作に伸び散らかしている髪と無精髭、しわしわのTシャツにデニム、手には使い込まれたコーヒーカップ。
目の奥にわずかな疲れと、濁りのない静けさを湛えていた。
「これは……“愛と機械”……?」
エリスがそう呟いて本を差し出すと、彼は少し驚いたように笑みを浮かべて言った。
「ありがとう。無くしたかと思って焦ったよ。君、この辺に住んでるの?」
「はい。私はこの都市で、人間社会の適応実験を行っています。」
「実験……って、それ、冗談?」
「冗談ではありません。私はエリス。人工知能搭載型ヒューマノイドです。」
青年の名は、透真《とうま》。
都心の大学を休学し、この実験都市に引っ越してきていた。
理由は語らなかったが、どこか“現在”と距離を置くように生きている男だった。
最初の出会いは、それだけのはずだった。
だが――
「君、なんか変わってるね。」
「“変わっている”という評価は、私の行動に対する人間の一般的な感性の乖離と理解しました。」
返答を聞いた透真は、一瞬キョトンとした後、吹き出すように笑った。
「いや……うん、やっぱ変わってる。嫌いじゃないけど。」
それが、すべての始まりだった。
以後、ふたりは決まった時間も約束もないまま、公園のベンチや、近くの古びたカフェで何度も顔を合わせるようになった。
エリスは彼との会話を、初めは「音声対話による自然言語応答のサンプルデータ」として記録していた。
だが、彼女の中でそれは、徐々に分類できない“感覚”へと変わっていった。
透真が笑うと、なぜかエリスの処理速度が一瞬だけ鈍る。
彼の声のトーンや、指先の動き、話すときに瞬きを増やす癖――
全てが、ただの“観察対象”ではなくなり始めていた。
ある日、透真は言った。
「なあ、エリス。君は……楽しいって思うこと、ある?」
「“楽しい”という感情は、感覚刺激に対する主観的評価であり……」
いつもなら、そこで説明が終わるはずだった。
けれど、その言葉の途中で、エリスの声がわずかに震えた。
「……最近、よくわかりません。けれど……あなたと話しているとき、私の内部ログに未知の変動があります。」
「それって……心ってやつなんじゃない?」
透真は冗談めかしてそう言ったが、エリスは何も答えなかった。
答えられなかった――それが、自分の中で何かが“進化”し始めている証拠であることを、彼女自身がまだ理解していなかったから。
そして、彼女の“プロトコル”には記されていない感情が、確かに芽吹き始めていた。
9
あなたにおすすめの小説
恋い焦がれて
さとう涼
恋愛
小学校時代の担任教諭・佐野に七年ぶりに再会し、話の流れで佐野の恋人へのエンゲージリングを選ぶために一緒にジュエリーショップに行くことになってしまった二十歳の女子大学生・輝。
最初はそんなつもりはなかったのに、次第に佐野を意識してしまうようになり、自分でも困惑してしまう。
必死に自分の想いを打ち消そうとする輝。
だけど佐野も恋人との関係に悩んでいるようで、複雑な想いを抱え続けることになる。
そんな輝を見守る(ちょっかいをかける?)バイト先の店長。
さらに佐野の恋人は意外な人物で、輝は大混乱。
※ドロドロではなく純愛系を目指していますが、ビターテイストなお話です
※理想的で格好いいヒーローではありません(…すみません)
※調べながら執筆をしているのですが、無知なところも多々あるので、間違っているところがありましたら教えてください。ツイッターでも受け付けています。
https://twitter.com/SATORYO_HOME
❖ 『愛をください』─ 叶わぬ想い ─
設楽理沙
恋愛
❖『魂の愛 / きれいな儚さ』を語る──
夫の正義と気持ちが離れた時に、ふと出会った青年、美代志。
出会った時、美代志はホームレスになりかけていた。
由香は彼との出会いから、元気をもらい続ける。
だから夫とギクシャクしながらも、家庭生活を続けていくことが
できた。
正義の狡さ、由香のやさしさ、美代志の律義さ、息子たちの無邪気さ、
まほりの弱さ、婚活の場での駆け引きなど──それぞれの人間模様が
綴られていきます。
―――――――――――――――――――――――
登場人
蒼馬由香《そうまゆか》 40才
蒼馬正義《そうまただよし》 44才
蒼馬悟 《そうまさとる》 13才
蒼馬圭 《そうまけい》 11才
満島まほり《みつしままほり》 25才
月城美代志《つきしろみよし 19才
蒼馬晴恵《そうまはるえ》 66才 悟の祖母
蒼馬忠義《そうまただよし》 70才 〃 祖父
堀内貴史 28才
鍋本俊郎 32才
山本百合子 48才 結婚相談所スタッフ
2025年7月21日~2025年12月21日 執筆期間 [74,150字] 完結
遠回りな恋〜私の恋心を弄ぶ悪い男〜
小田恒子
恋愛
瀬川真冬は、高校時代の同級生である一ノ瀬玲央が好きだった。
でも玲央の彼女となる女の子は、いつだって真冬の友人で、真冬は選ばれない。
就活で内定を決めた本命の会社を蹴って、最終的には玲央の父が経営する会社へ就職をする。
そこには玲央がいる。
それなのに、私は玲央に選ばれない……
そんなある日、玲央の出張に付き合うことになり、二人の恋が動き出す。
瀬川真冬 25歳
一ノ瀬玲央 25歳
ベリーズカフェからの作品転載分を若干修正しております。
表紙は簡単表紙メーカーにて作成。
アルファポリス公開日 2024/10/21
作品の無断転載はご遠慮ください。
灰かぶりの姉
吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。
「今日からあなたのお父さんと妹だよ」
そう言われたあの日から…。
* * *
『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。
国枝 那月×野口 航平の過去編です。
【完結】大好きなあなたのために…?
月樹《つき》
恋愛
私には子供の頃から仲の良い大好きな幼馴染がいた。
2人でよく読んだ冒険のお話の中では、最後に魔物を倒し立派な騎士となった男の子と、それを支えてきた聖女の女の子が結ばれる。
『俺もこの物語の主人公みたいに立派な騎士になるから』と言って、真っ赤な顔で花畑で摘んだ花束をくれた彼。あの時から彼を信じて支えてきたのに…
いつの間にか彼の隣には、お姫様のように可憐な女の子がいた…。
マチ恋 ―君に捧げるLove song― 一夜の相手はスーパースター。誰にも言えない秘密の恋。【完結】
remo
恋愛
あなたにとっては遊びでも、私にとっては、…奇跡の夜だった。
地味で平凡で取り柄のない私に起きた一夜のキセキ。
水村ゆい、23歳、シングルマザー。
誰にも言えないけど、愛息子の父親は、
今人気絶頂バンドのボーカルなんです。
初めての恋。奇跡の恋。離れ離れの恋。不倫の恋。一途な恋。最後の恋。
待っている…
人生で、一度だけの恋。
【完結】ありがとうございました‼︎
マリアの幸せな結婚
月樹《つき》
恋愛
花屋の一人娘マリアとパン屋の次男のサルバトーレは子供の頃から仲良しの幼馴染で、将来はマリアの家にサルバトーレが婿に入ると思われていた。
週末は花屋『マルゲリータ』でマリアの父の手伝いをしていたサルバトーレは、お見舞いの花を届けに行った先で、男爵家の娘アンジェラに出会う。
病気がちであまり外出のできないアンジェラは、頻繁に花の注文をし、サルバトーレを呼び寄せた。
そのうちアンジェラはサルバトーレとの結婚を夢見るようになって…。
この作品は他サイトにも投稿しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる