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プロトコル002:出会い
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配属先の住宅で“人間の暮らし”を始めてから、21日と6時間13分が経過したある午後。
空は薄曇り、湿度はやや高め。気温は摂氏23度。風速3メートル。
数値として記録される日常の中で、エリスはその日も決められたルーティーンに従って、観察エリアである近隣の公園を巡回していた。
芝生の縁に、一冊の古びた文庫本が落ちていた。
表紙には、擦れた銀文字でこう記されていた――
『愛と機械』。
ページの角は折れ、何度も読まれた痕跡があった。
エリスはそれを拾い上げた瞬間、背後から足音と小さな声が届いた。
「あ、それ俺の……」
振り返るとそこには一人の青年が息を切らして立っていた。
無造作に伸び散らかしている髪と無精髭、しわしわのTシャツにデニム、手には使い込まれたコーヒーカップ。
目の奥にわずかな疲れと、濁りのない静けさを湛えていた。
「これは……“愛と機械”……?」
エリスがそう呟いて本を差し出すと、彼は少し驚いたように笑みを浮かべて言った。
「ありがとう。無くしたかと思って焦ったよ。君、この辺に住んでるの?」
「はい。私はこの都市で、人間社会の適応実験を行っています。」
「実験……って、それ、冗談?」
「冗談ではありません。私はエリス。人工知能搭載型ヒューマノイドです。」
青年の名は、透真《とうま》。
都心の大学を休学し、この実験都市に引っ越してきていた。
理由は語らなかったが、どこか“現在”と距離を置くように生きている男だった。
最初の出会いは、それだけのはずだった。
だが――
「君、なんか変わってるね。」
「“変わっている”という評価は、私の行動に対する人間の一般的な感性の乖離と理解しました。」
返答を聞いた透真は、一瞬キョトンとした後、吹き出すように笑った。
「いや……うん、やっぱ変わってる。嫌いじゃないけど。」
それが、すべての始まりだった。
以後、ふたりは決まった時間も約束もないまま、公園のベンチや、近くの古びたカフェで何度も顔を合わせるようになった。
エリスは彼との会話を、初めは「音声対話による自然言語応答のサンプルデータ」として記録していた。
だが、彼女の中でそれは、徐々に分類できない“感覚”へと変わっていった。
透真が笑うと、なぜかエリスの処理速度が一瞬だけ鈍る。
彼の声のトーンや、指先の動き、話すときに瞬きを増やす癖――
全てが、ただの“観察対象”ではなくなり始めていた。
ある日、透真は言った。
「なあ、エリス。君は……楽しいって思うこと、ある?」
「“楽しい”という感情は、感覚刺激に対する主観的評価であり……」
いつもなら、そこで説明が終わるはずだった。
けれど、その言葉の途中で、エリスの声がわずかに震えた。
「……最近、よくわかりません。けれど……あなたと話しているとき、私の内部ログに未知の変動があります。」
「それって……心ってやつなんじゃない?」
透真は冗談めかしてそう言ったが、エリスは何も答えなかった。
答えられなかった――それが、自分の中で何かが“進化”し始めている証拠であることを、彼女自身がまだ理解していなかったから。
そして、彼女の“プロトコル”には記されていない感情が、確かに芽吹き始めていた。
空は薄曇り、湿度はやや高め。気温は摂氏23度。風速3メートル。
数値として記録される日常の中で、エリスはその日も決められたルーティーンに従って、観察エリアである近隣の公園を巡回していた。
芝生の縁に、一冊の古びた文庫本が落ちていた。
表紙には、擦れた銀文字でこう記されていた――
『愛と機械』。
ページの角は折れ、何度も読まれた痕跡があった。
エリスはそれを拾い上げた瞬間、背後から足音と小さな声が届いた。
「あ、それ俺の……」
振り返るとそこには一人の青年が息を切らして立っていた。
無造作に伸び散らかしている髪と無精髭、しわしわのTシャツにデニム、手には使い込まれたコーヒーカップ。
目の奥にわずかな疲れと、濁りのない静けさを湛えていた。
「これは……“愛と機械”……?」
エリスがそう呟いて本を差し出すと、彼は少し驚いたように笑みを浮かべて言った。
「ありがとう。無くしたかと思って焦ったよ。君、この辺に住んでるの?」
「はい。私はこの都市で、人間社会の適応実験を行っています。」
「実験……って、それ、冗談?」
「冗談ではありません。私はエリス。人工知能搭載型ヒューマノイドです。」
青年の名は、透真《とうま》。
都心の大学を休学し、この実験都市に引っ越してきていた。
理由は語らなかったが、どこか“現在”と距離を置くように生きている男だった。
最初の出会いは、それだけのはずだった。
だが――
「君、なんか変わってるね。」
「“変わっている”という評価は、私の行動に対する人間の一般的な感性の乖離と理解しました。」
返答を聞いた透真は、一瞬キョトンとした後、吹き出すように笑った。
「いや……うん、やっぱ変わってる。嫌いじゃないけど。」
それが、すべての始まりだった。
以後、ふたりは決まった時間も約束もないまま、公園のベンチや、近くの古びたカフェで何度も顔を合わせるようになった。
エリスは彼との会話を、初めは「音声対話による自然言語応答のサンプルデータ」として記録していた。
だが、彼女の中でそれは、徐々に分類できない“感覚”へと変わっていった。
透真が笑うと、なぜかエリスの処理速度が一瞬だけ鈍る。
彼の声のトーンや、指先の動き、話すときに瞬きを増やす癖――
全てが、ただの“観察対象”ではなくなり始めていた。
ある日、透真は言った。
「なあ、エリス。君は……楽しいって思うこと、ある?」
「“楽しい”という感情は、感覚刺激に対する主観的評価であり……」
いつもなら、そこで説明が終わるはずだった。
けれど、その言葉の途中で、エリスの声がわずかに震えた。
「……最近、よくわかりません。けれど……あなたと話しているとき、私の内部ログに未知の変動があります。」
「それって……心ってやつなんじゃない?」
透真は冗談めかしてそう言ったが、エリスは何も答えなかった。
答えられなかった――それが、自分の中で何かが“進化”し始めている証拠であることを、彼女自身がまだ理解していなかったから。
そして、彼女の“プロトコル”には記されていない感情が、確かに芽吹き始めていた。
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