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9 響ちゃんが結婚?
5 抜け殻
しおりを挟む仏間からワンピースが消えた。
奈都はぼんやりと仏壇の前に座っている。
着ているのは、黒いトレーナーと白のショートパンツだ。やっと女の子らしい服を着るようになったのに、また元に戻ってしまった。真冬なのに、素足でいる。
足のつま先が赤くなっているが、奈都は寒さにも気づいていないほど、ぼんやりしている。
仏壇の引き出しからはさみを取り出し、短くなったサイドの髪に被さるように長く伸びた髪を肩の長さで切ろうとした。
「何しているんだ」
手に持っているはさみを取り上げられた。
「男らしくしなさいってことなのかなと思って」
視線はワンピースが飾られていた場所を向く。
「奈都は女の子になるんじゃないのか?」
「わからない。男でも女でもどっちでもいい」
まだ婦人科の薬は出されているが、響介のお見合いの話が出てからは飲んでいない。
「僕の子供を産んでくれるんだろう?」
「僕の役目じゃなくてもいい。お兄さんには、もっと相応しい人がいる」
「お兄さんなんて呼ばなくていい。響ちゃんでいいんだよ」
奈都は俯いた
「縁談は断った」
「お嬢様で、綺麗な人だった。僕みたいに変な体じゃない。どこにも不備のない健康な人だ。お兄さん、結婚したら」
奈都は響介を見ない。すっと立ち上がると、響介の前を通り過ぎていく。
「奈都の心は離れてしまったのか?」
「きっとそうだよ。僕には相応しくない」
奈都は仏間を出て行った。
響介は奈都の後からついて歩く。
今の奈都は何をするのかわからない。
何を考えているかも、よくわからない。
「あのとき、なんでお父さんもお母さんも連れて行ってくれなかったんだろう?出来損ないの体のある僕なんて生きてても仕方ないのに」
「奈都、それ以上言うと、怒るよ。僕にとって奈都は特別なんだ。何度も話しただろう?」
奈都は俯いている。
泣かなくなったが、笑わなくなった。
視線はずっと合わさない。俯いたまま顔も上げない。
「僕のワンピースどこに行ったの?あの人が着て帰ったの?」
「破けてしまったんだ。まさか勝手に家の中を歩き回るとは思わなかった。急な仕事が入って、ホテルでおじさんたちと別れたんだ。でもあの女性は強引に車に乗り込んで来てしまった。追い返す時間がなかったんだ。だからリビングの椅子に座って待っていてくれと言ったんだ。常識のある大人なら、仕事をしている間は、待っていると思っていた。まさか仏間にまで入るとは思わなかった。飾ってあるワンピースを勝手に着るとも思わなかった。そもそもサイズが違っている服を無理矢理着る精神がおかしい。初めて来た他人のうちだ。他人のうちの物に普通なら勝手に手を出さない。常識が欠落している」
「女の人ことなんて、どうでもいい。僕のワンピースは?」
「すまない。破れてしまった。修理に出したが、直せないかもしれないと言われている」
「修理に出してるの?だからここにないの?」
「そうだよ」
「すごく気に入っていたのに。思い出と一緒に消えたんだね」
「思い出は消えないだろう?」
「記憶なんて曖昧だよ。いつなくなるかわからない」
奈都は自分の頭に触れる。
記憶をなくしている奈都は、思い出そうとしても思い出せない過去がある。
「あのワンピースは、僕とお兄さんと同じだ。もう捨ててもいい。あんなに破れて元に戻るわけがない」
「奈都、僕たちとワンピースは同じじゃない」
奈都は俯いたまま、部屋に戻っていった。
「奈都、きちんと目を見て話し合おう」
響介は奈都の部屋の扉を開けた。
引き出しからはさみを取り出している。
「髪を切りたいのか?」
はさみを取り上げられる。
つい一昨日まで、長くなった髪に触れて喜んでいた奈都の笑顔が思い出される。
「これだけ伸ばすのに何カ月もかかった。いいのか?」
「切りたいわけじゃない。おばさんが先に切ったんだ。切られた髪は元には戻らないんだよ。不揃いのままじゃ変だよ。昨日だって亜稀と歩いてるとき、何度も振り返られた。亜稀は何も言わなかったけど、こんな髪型恥ずかしいだけだ。お兄さんはこの髪を見て、変だとは思わないの?」
「重森のおじさんは、うちの父親の兄になるが、ずっと疎遠だった。両親の葬儀にも来てない。父が死んでからうちに顔を出すようになった。重森のおじさんの事は、秘書の山田さんに調べてもらった。亜稀が言ったように金銭目当てだろう。重森のおじさんたちは、賭け事が好きで、多額な借金をしている。そのうちうちに援助を申し出てくるだろう。祖父も父も縁を切っている。僕も縁は切るつもりでいる。だから、あの人たちの言うことはなにも従わなくていい」
「お兄さんは、それなのにお見合いしたの?」
「あれは、先方に失礼になるから行っただけだ」
「失礼になるような人が、僕の大切なワンピースを破いたんだね」
「奈都、新しい服を買いに行こう」
「お兄さん、失礼になるような人って、どんな人?」
奈都は無表情に淡々と質問だけをしてくる。
「奈都、いつもみたいに響ちゃんと呼んでくれ」
「僕の兄であることは、間違ってないんでしょ?」
「間違ってはいないが、子供の頃から、ずっとそう呼んでいただろう?それに僕たちは恋人だろう?」
「恋人、やめよう。薬も飲むのをやめた。生理は止まるよ。もとの僕だ」
「奈都、許してはくれないのか?」
奈都は鞄にお財布を入れると、鍵を持って、部屋から出て行った。
「買い物行ってくる」
「一緒に行こう」
「一人で行く」
響介の手を拒んで、奈都は家から駆けだしていった。
12月にトレーナー1枚とショートパンツはさすがに寒かった。
手も素足の足もかじかんでいる。庭に出るためにゴムの草履も少しも温かくはない。
それでもコートを取りに帰るのは嫌だった。
公園のベンチに座って、震えながら長い髪を梳く。
何ヶ月もかけて伸ばした髪だ。それをあっさり切られてしまった。
左右ちぐはぐだ。尖ったはさみも怖かった。顔を刺されるかと思った。
響介のことは好きだが、今回のお見合いで、奈都はまた自分が響介に相応しくないと思ってしまった。自分が普通でないことに、また気づかされてしまった。何時間も座って、長い髪と別れを告げる。
夕方近くになって、奈都は公園のベンチから立ち上がった。
自分で切ろうとしたが、普通に考えて全部を切ることはできない。奈都の髪は母が切ってくれていたが、もう母はいない。美容院に行って、髪を揃えてもらおうと思った。
一昨日の時点で、髪は歪だった。
昨日は亜稀が一日中、連れ歩いてくれたが、アシンメトリーな髪を見て、振り向いていく人もたくさんいた。
美容師が一言、「誰かに切られたの?」と聞いてきた。奈都は頷いた。
髪を切られながら、奈都は泣いていた。
美容師は最大限に髪を残すように切ってくれた。
響介が話してくれた、小さな頃の奈都になりたかった。
腰まで伸ばすつもりで、髪の手入れもしっかりしながら伸ばしていた。
ショーウインドウに写る自分の姿を見て、奈都はまた泣いていた。
両親が死んだときと同じ髪型だ。
歩きながら泣いて、公園のベンチに座った。
泣き顔のまま家には帰れない。
暗くなってきて、クリスマスのイルミネーションが綺麗に見えてくる。
「寒い」
寒いけど綺麗だ。
家庭の温かな灯りが灯り始めて、クリスマスのイルミネーションと合わさって美しい。
思い出はなくならない。
最初に買ってもらったピンクのワンピースも初めて生理が来たときに買ってもらった秋のワンピースも、ちゃんと思い出は残っている。
言葉にできないほど、嬉しかった。
砂糖菓子のような軽い繊細なワンピースは一生の宝物にしようと思えるほど、身につけたとき心が震えた。
この高台の公園にも、たくさんの思い出がある。
響介と亜稀が小さな山に登る間、母とこのベンチに座っていた。
たくさんのお弁当に笑い声。
両親のあたたかなぬくもり。
どれも忘れてはいない。
「奈都」
遠くで響介の声がした。
そっとベンチに体を横に倒し、体を隠す。
まだ会いたくはないし、短くなった髪を見られたくなかった。
響介は公園の中に入ってきて、まわりを見渡すと、公園を出て行った。
(ずっと探しているんだ。響ちゃんに迷惑かけている)
響介はなにも悪いことはしていない。
お見合いだって、急すぎて断れなかったのだろう。
急な仕事が入って、お見合いが中断になって、あの女性が勝手に家までついてきてしまったのだろう。追い返す時間もないほどの、急な仕事だったから、女性を家に招いたのだろう。
勝手に家の中を歩き回って、飾ってあるワンピースを身につける行為は常識がない。明らかに小さな洋服なのに、無理矢理着る女性の行為は、おかしい。
響介には非がない。
ただショックだっただけだ。
はさみを向けられ、髪をいきなり切られたことに、傷ついた。
楽しみにしていた旅行に行けなくなって、残念だった。
初めてのプールに入りたかった。
大切にしていたワンピースを破かれてしまって、ショックだった。
全部、奈都の心の問題だ。
我が儘なだけだ。
それでも素直になれない。すべてが許せない。
ふわりと体が揺れて、奈都はぼんやり目を開けた。
響介の腕に抱かれていた。
「あんな場所で眠っていたら凍死するよ」
「響ちゃん?」
「奈都はいつもあそこのベンチに座っているから、そこにいると思った」
「亜稀」
「響介は探し方が下手なんだよ。ベンチは座る場所だけど、眠る場所でもあるんだぜ。覗き込んで見なきゃ見つけられない」
「亜稀は昔から隠れん坊は得意だったからな」
「奈都を見つけるのは特に得意なんだよ」
体は毛布に包まれていた。
「歩けるから下ろして」
「抱かれていろよ。低体温で救急車呼ぼうか迷ったくらいだ。今は響介の体温で暖かいだろう」
「うん」
亜稀が奈都のバックを持っている。
「響介は体鍛えてないから、奈都を抱えて筋トレしないと、体が鈍るぞ。奈都は軽いから、あんまり筋トレにならないかもしれないけど」
「おまえな、僕だって筋トレくらいしてるよ。週に一度はジムに通ってる」
「俺は、毎日バスケで鍛えてる」
「おまえはただの脳筋だ」
二人は言い合いをしながら、家に向かって歩いて行く。
「腕が疲れたら、代わってやるよ。奈都を落とされたらたまんねえ」
「おまえにはやらない」
「じゃ、奈都が他の誰かを好きになったら、やれるのか?」
「誰にもやらない」
響介の腕が奈都の体を引き寄せて、ぎゅっと抱きしめてきた。
「響ちゃん」
「髪を切りに行ってきたんだね。短くなっても可愛いよ」
「また伸ばせばいいだろう?」
「うん」
通い慣れた道を三人で家に戻る。
家の前まで戻ると、車が止まっていた。
おじさんとおばさんだ。
玄関に入って、奈都はやっと下ろされた。
庭履きを脱いで、家に上がる。
家の中は明るくて暖かい。暖房がつけられている。
「奈都は毛布にくるまっていなさい」
響介はそう言うと、明るい部屋で奈都の顔を覗き込んできた。
「目が赤いね、ずっと泣いていたの」
「見ないで」
奈都は俯く。
短くなった髪を撫でられる。
「辛い思いさせたね。奈都が髪のお手入れをしているのは知っていたよ。髪を伸ばしたかったんだよね」
「うん」
涙がこみ上げてきて、手で拭おうとしたら、響介がそのまま抱きしめてきた。
涙が響介の服に吸い込まれていく。
「少し待っていて。おじさんたち追い出してくるから」
そう言うと、帰宅早々に仏間に入っていった亜稀とおじさんとたちの元に、ゆっくり歩いて行く。
その後ろ姿は威厳に満ちていた。
家で小説を書いている響介とも違う。奈都を抱くときとも違う。きっと会社で一番上に立つ存在の姿だ。
奈都は毛布を巻き付けたまま、響介の後を追っていく。
仏間にはテーブルが出されていた。
亜稀が素早く出したのだろう。亜稀は壁に凭れて立っていた。
お茶を出さなくてはと、後ろをむきかけたとき、おばさんが声をかけてきた。
「奈都君は、きちんと髪を切ったのね。本当はもっと短くした方がいいのですけど、これで心証がよくなります」
「誰の心証がよくなるんですか?」
響介が静かに怒った声を上げた。
いつもより声が低い。
「奈都は髪を伸ばしていた。それなのに、無理矢理髪にはさみを入れたのは、あなたですよ。奈都は泣きながら髪を切ったんです」
「男のくせに、髪を切るくらいたいしたことはないでしょう?」
おばさんは、鼻を鳴らすように笑いながら言った。
「あなた方は、両親が健在だった頃は、うちにはお見えにならなかった」
「響介君も小さかったから覚えてないのでしょう?」
「祖父は、あなたを勘当しています。今までは様子を見させていただきましたが、妹に刃物を向ける者を、うちに招くことはできません。勝手に見合いをさせられるのも迷惑です。あなた方が連れてきた常識のない女性に、うちの大切な宝を壊されました。その責任はどなたがとってくださるのですか?裁判でもいたしましょうか?」
「そんなのは見合いの相手に責任を取ってもらえばいいでしょう」
おばさんが軽い調子で答えた。
「ちょっと待ってくれ。勘当って、誰がそんなことを」
おばさんと同時に、おじさんが慌てたように声を上げた。
「私も祖父や父に聞いておりましたが、祖父と父の遺言が残っております」
「だが、相続権も残る。戸籍上兄弟だったことをなくすことはできないだろう」
「だから、遺言が残っておりますと申し上げました。あなた方に相続も贈与もしないと廃除されています。両親が亡くなった今は、ただの他人です」
「そんなことはないだろう」
「弁護士に間に入っていただきましょうか?」
「そんな大袈裟な」
「妹に謝罪してください。刃物を突きつけられ髪を切られました。心にも傷を負っています。れっきとした傷害事件ですので警察に届けてもいいのですよ」
「妹?」
「うちと面識がなかったからご存じなかったのでしょうね。うちは男三人兄弟ではない。奈都は女の子です」
おじさんとおばさんが、顔を見合わせた。
「いつも男の格好をしていたではないか」
「人を見かけで判断しないでいただきたい。奈都は生まれたときから女性です」
響介の口調は凜として強い。
奈都は初めて、そんな響介の姿を見た。
(僕を守ってくれている。女の子として)
おじさんとおばさんの視線が、奈都を見る。
体の中まですべて見透かされそうで、後ずさる。
「奈都ちゃん、ごめんなさい」
おばさんが慌てたように口にした。
おじさんも頭を下げた。
「警察には届けないでくれ」
(謝罪の本音はここ?髪を切ったことじゃなくて、警察に届けられたくないから?)
誠実の欠片もない。
「なんの連絡もせずに、今日は何の用で来られたのですか?」
「一千万を借りたくて」
おばさんがぽつりと口にした。
「先ほども言いましたが、祖父と父の遺言で相続権も贈与も廃除されております。お引き取りください。今後、うちには来ないでください。次は不審者として警察を呼びます」
おじさんとおばさんは、そそくさと家を出て行った。
「けっ!塩まいとけ」
亜稀が盛大に塩をまく。
「勿体ないよ、塩が。塩、重いんだよ」
奈都は慌てて、亜稀を止める。
「買い物くらい、手伝ってやるって」
亜稀は塩が入れられた容器が空になるまで塩をまいた。
「あー、すっきりした。初めて響介が家長に見えたぜ」
「僕は両親が亡くなってから、ずっと家長だよ」
響介が奈都の体を抱きしめる。
「奈都、僕を許してくれる?」
「わたしこそ、素直になれなくてごめんなさい」
響介の腕がぎゅうっと抱きしめて、奈都の頬に唇を寄せる。
「奈都が学校以外で、わたしって言った」
亜稀が声を上げた。
奈都は真っ赤になって、響介の腕の中でわたわたする。
「いちゃつくの後にして、先にご飯!部活の途中で呼び出されて、俺、腹ぺこなんだよ。なんか食べさせてよ、家長さん」
「今日は出前でも取るか。奈都が風邪を引く。奈都はお風呂に入っておいで。冷えた体をゆっくり温めるんだよ」
「うん」
まだ寒くて震えている奈都の体から毛布を取ると、そっと背中を押す。
早足で自分の部屋に入って、着替えを持つと、奈都は風呂場に向かった。
その姿を響介と亜稀が見守っていた。
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