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3-4 建速勇人

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 土にゆっくりと手に入れた。
 小学生の頃、学校の農園でわずかに土をさわった記憶が、最近蘇っている。自分に土の良し悪しなど何も分からない、と勇人は思っていたが、子どもの遊びのような経験でも、きっかけがあれば生きる物だ。

「何してるんだい、勇人兄ちゃん」

 五郎が、声を掛けて来た。

「畑と、話してるんだ」

 適当な言葉が思い浮かばず、曖昧な返答になった。

「へえ、何て言ってるんだい?」

「そろそろ肥やしはいい、野菜を作りたい。そう言ってる」

「少し変わったかな、勇人兄ちゃん」

 愉快そうに、五郎は笑った。

「そうかい?」

「村にいた頃は、もっと暗かった」

「そうだったかな。そうかもしれない」

 最初は荒れ地の石を一つずつ拾う事から始まった。
 石を取り除いた後は、鍬で土を耕した。桶で川から水を汲み、撒いた。それだけでは土は痩せたままのような気がしたので、食事の後のごみや、糞尿や、釜戸の灰や、動物の死骸など、思い付き、手に入る物は何でも土に撒き、かき混ぜた。
 そんな事をしばらく続けて、ようやく作物が育つ土地になって来た、と言う気がする。本当に育つのかどうかは、まだ分からない。手伝っている五郎にも、土の事までは良く分からないようだ。
 気が狂う、と思うほどに激しく師行の元で鍛えられた後、勇人は楓に連れられ、伊達だて行朝ゆきともに引き合わされた。
 行朝は、師行とはどこまでも対照的に穏やかなでおおらかな男だった。
 冬の間、行朝は小夜の命を受けて、多賀国府に従う武士達の所領を巡り、その経営を見て回ってはあれこれと指示を出し、領民達がその厳しい寒さを越せるように取り計らう、と言う事をしていた。
勇人も行朝に誘われ、それに従ってその仕事ぶりを見ていたが、行朝は陸奥守の権威を笠に着るような事もせず、ただ丁寧に各地の武士達、そして領民の話を聞き、相談に乗り、最後には納得させて一つ一つ領地の小さな問題を解決していった。
 内政の得意な、そして人の心をつかむのが上手い男なのだろう、と言う事は分かった。しかし、近くで見ていても小夜や親房のような大きさは感じない。
 領内の小さな問題を解決するのには、そちらの方がいいのかも知れなかった。とにかく忍耐強く、人を不快にさせたり、不安にさせたりするような所が無いのだ。
 共に領地を回っている間、行朝は暇があれば勇人と言葉をかわそうとした。いや、ほとんど一方的に行朝が語っていたと言ってもいい。語る内容は、この国の事、所領の事、武士や農民の生活の事、様々で、とりとめも無いような物だったが、不思議とそれは勇人の心に染み入って来た。
 そして時折、いや、結構な頻度で、行朝は師行の悪口も口に出していた。およそ人の事を悪く言う、などと言う事はしそうにない男だったのに、何故か師行に対してはかなり厳しい罵倒を言い放っていた。
 散々打ち据えられた恨みがあったので、それには勇人もたまに応じていたが、行朝の師行に対する悪口は不思議な事に聞いていても何故か師行への憎しみが増すよりも、却って冷静に師行と言う男を見詰め直させる響きが混ざっていた。
 そして雪が解ける少し前に、小さな土地を預けられ、そこで作物を育ててみろ、と行朝に言われたのだ。
 何の意味がある、と思いながらひたすら土と向かい合っていた。今は、意味を考える前に、土と向き合う事が楽しくなり始めている。
 また土に手を入れ、そして抜く。出来た穴の中で小さな虫が動いている。自分が元々いた時代にも、きっとこんな虫はいたはずだ。ただ、目に入ってはいなかった。
 自分が明るくなった、とは思っていない。不意に身を切られるような哀しみや言いようない虚しさに襲われる事は変わっていないし、納得の行く死に方を見付けたい、と言う思いも消えていない。
 ただ、死ぬ事を考える前に、生きると言う事についてもう一度考えてみるべきではないか、と思うようになった。
 いつもそう思う訳ではない。しかし死について考える合間に、そんな事を考える回数が少しずつ増えている。
 馬蹄の響きが聞こえた。
 この畑は簡単な柵で囲ってある。その柵の入り口の部分に、馬が一頭止まった。武士が一人、杭に馬を括り付け、こちらに歩いてくる。

盛光もりみつ殿」

 伊賀いが盛光だった。
 陸奥の磐城、恐らく勇人の住んでいた時代では福島になる辺りに領地を持つ武士だった。
 陸奥に下向してきた小夜に対して真っ先に所領の安堵を求め、合戦にも何度も加わっていて小夜からの信頼も厚い、と言う話を以前に宗広から聞かされていた。勇人が行朝と共に各地の武士の所領を回った時には、特に熱心に所領の経営について行朝に助言を求めていたように思う。
 控えめな男で、あちらから見れば得体の知れない人間のはずの勇人に対しても、比較的丁寧な態度を取っていた。
 そして勇人の記憶の限りでは、足利尊氏の叛乱と共に宮方を放れ、足利につく武士だ。

「勇人。久し振りだな」

 盛光が声を掛けて来た。五郎は突然現れた武士に驚いた様子で、慌てて平伏している。

「お久し振りです。ですがこんな所に、何を?」

「行朝殿に用があったのだが、屋敷に向かったらここだと言われてな。しかし、おられないのか」

「まだ来られていませんね。あの人の事です。どこかで道草をしておられるのでしょう」

 行朝は、気が付けば丸一日百姓と共に仕事をしているような所がある。あれでは家臣も困っているだろう。
 盛光は小さく頷き、それから五郎に立ち上がるように指図した。

「小屋で、火を入れましょうか?外は冷える」

「そうだな。いや、邪魔にならないのであれば、それがしにも少し共に土を触らせてほしい」

「構いません。お好きにどうぞ」

 盛光は地面にしゃがみ込み、春になって生え出した雑草を抜き始めた。

「この畑では、何を作るのかな」

「さあ。その内、行朝殿が種を持って来て下さると思っているので、自分では何も考えていません」
「なるほど」

 どこか表情に翳が差す所がある武士だった。出会うたびに、その翳が大きくなっていっているような気もする。
 結城宗広とも、南部師行とも、伊達行朝とも違う。三人と比べれば、どこか危うい。
 ただそう見えるのは、伊賀盛光が足利に付く事を勇人が知っているから、と言うだけの事で、気のせいなのかも知れなかった。

「何か、行朝殿に相談されたい事でも?」

「大した事ではないよ。冬の間、領民達が作った物が余りがちでな。上手く他で捌けないか、行朝殿の意見を聞きたくなっただけだ」

 本当に、大した事ではない、ともう一度繰り返し、盛光は気弱げに笑った。相談は口実で、もっと別の事を行朝と語りたいのかも知れない、と勇人は思った。

「領民は、苦しいのですか」

 思わず、そんな言葉が口から洩れていた。意表を衝かれたような顔をし、しかしすぐに盛光は小さく笑うと首を振った。

「いや、今はそれほど苦しい訳ではない。陸奥守様は見事に陸奥全体を治めておられる。北条の時よりもずっとましだろう」

「そうでしたか。いや、私などがつまらない事を言いました」

「構わぬよ。それに当たっていない訳ではない。本当に行朝殿に語りたかった事を、見透かされてしまった気分だ」

「今は、と仰いましたね。つまりこの先の事が心配なのでしょうか」

 深く話すつもりなど無かったのに、勇人の言葉は続いていた。

「いずれ大きな戦乱が起きる、と私は思っている。いや、皆そう思っているだろう。そうなれば、何よりも領民が苦しむ」

 そんな話を自分にされても困る、と思ったが、最初に話を振ったのは勇人の方だった。

「戦乱は、京で起きます。それは、盛光殿にも、陸奥守様にもどうしようもない事でしょう」

「本当に、どうしようも無い事なのだろうか。時にそう考えてしまう。遠い、京での騒乱なのだ。そのために陸奥の民が苦しむのは、どうしようもない事なのか」

 勇人は、相槌を打つ事を一旦やめた。伊賀盛光が何を言いたいか、分かったからだ。そしてそれは恐らく危険な話だった。

「陸奥守様が西上の軍を起こされなければ、この地はいつまでもあの方の元で平和だ。そう考えるのは、間違っているのだろうか」

「正しい考えでしょう、それは。ある部分では」

 自分の分ではなかった。しかし慎重に考え、言葉を選び、それでも答えてしまっている自分がいた。

「別の部分では、間違っているのか」

「陸奥だけが別の国のように中央の騒乱に関わらず繁栄する、と言う事は出来るのかも知れません」

 平地の少なさを除けば、東北は日本の中でも豊かな土地だった。農業も漁業も鉱物資源も恵まれている。中国との海外貿易すら独自に行ってきた実績すらある。かつては奥州おうしゅう藤原ふじわら氏と言う独立勢力がいたし、幕末にもまだこの時代ほとんど未開拓の北海道に、ほんの短い間とは言え独立政権が成立してもいた。
 盛光がそこまで考えているかはさておき、小夜が本気で東北の統治、交易、アイヌとの外交、北海道の開拓に集中すれば、彼女の手腕ならやれない事は無いだろう。
 勇人の時代では日本は北海道から沖縄まで一つの国だが、少なくともこの時代はまだ北海道は蝦夷と言われる日本では無い国だし、もっと昔には東北ですら大和と呼ばれる国とは別の物であった事もあるのだ。

「陸奥守様であれば、先に例を見ないほど見事に、この地を治められるであろうな」

「ただ、それで平和になるのは白河以北だけです。この国その物は、乱れたままでしょう」

「一時は、そうかも知れぬ。だが、陸奥からの力が無ければ、逆に日本の他の地も上手く収まるかも知れぬ。いや、それ以上にどうしても考えてしまうのだ。まず足元の民草を守る。そう考えてはいけないのかと」

 そこまで言って、盛光は疲れたように笑いを見せた。

「何故、お主にこのような事を喋っているのだろうかな」

「いえ、私が分を弁えず、余計な事を聞いたからでしょう」

 それに盛光は、恐らくまだ本当に吐き出したい事の半分も吐き出してはいないだろう。
 何故京の朝廷のために、遠く離れた陸奥の地で領民が苦しまなくては行けないのか。中央の政治が民を苦しめるだけならば、自分の支配する土地を守るためにそれに従う事をやめても良いのでないか。
 口に出すには、危険すぎる考えだった。ただ、つい自分のような人間にそれを口に出しかけてしまうほどに、伊賀盛光は今の情勢を気に病んでいる、と言う事だろう。
 居心地が悪そうに、五郎が頭を掻いた。話の内容は良く分からなくても、重い空気は察したらしい。
馬の蹄の音が聞こえてきた。

「おう、盛光殿ではないか。どうされたのだ」

 伊達行朝が馬を降り、こちらに歩いて来る。勇人は困惑した思いから救われ、ほっとしてそちらを見ると頭を下げた。

「いや、少し領内で余っている俵物について話を伺いたく参っただけです」

 盛光も同じ気持ちなのか、喋る声の調子をがらりと変え、行朝と話し始めた。
 自分は五郎と一緒に湯の用意をしてきます、と言うと勇人はその場を離れた。
 何となく、あの男が何故裏切るのか、勇人には分かった気がした。
 伊賀盛光の考えは正しい。だがその考えは、より大きな正しさを求めている小夜にとっては、切り捨てざるを得ないような正しさだ。
 実態は別として、朝廷はこの国全てを治めるためにある物で、ほとんど生まれた時からその一部として生きて来たのが小夜だった。
 武士は、自分が得た領地から年貢を集め、それで生きている。そしてその代わりに領民達のために領地を統治する。しかし朝廷は、この日本と言う国全体に支えられ、その代わり国全ての民のための責任を追っている。
 だから、同じように民の事を考えているように見えても、盛光と小夜とでは実際には別の民を見ている。恐らくその差が、盛光を小夜から去らせるのだろう。
 小夜一人だけの事を考えたとしても、盛光の言う事は正しかった。だが、小夜に、この国全体の事を考えるのをやめ、陸奥だけに引き篭もるように、と自分が言っても無駄だろう。この国に住む民全てのために、と言う綺麗事とすら言える強い想いが、彼女の人並み外れた意志と能力の根本にあるのは間違いがない。
 けれど、勇人は少しだけ伊賀盛光と言う男の事が好きになっていた。
 自分が治める領民達の事を懸命に考えている、と言う事だけでなく、陸奥守、小夜の能力や人柄に魅せられているからこそ、ああ言った弱音が出て来るのだ。
 小夜のような人間を主君として仰ぎ、戦を起こさずいつまでも平穏に陸奥の地だけを治めていてもらいたい、と願うのは、生の人間らしい当然の弱さに思えた。
 それでも、盛光を引き留めるために自分がこれ以上何か言おう、とは思わなかった。
 勇人自身、はっきり決めているのは小夜のために死ぬ、と言う事だけで、この先、どう動くのが本当に正しいのか、見極められている訳ではないのだ。自分の中が固まっていない人間の言葉で、他人の生き死に関わる選択を動かしていいはずがなかった。
 それに自分すら気付くほどに盛光が揺らいでいるのだから、小夜や宗広や行朝も当然気付いているだろう。彼に何かを説くのは、やはり、自分の分ではない。
 勇人は小屋の中で腰を下ろすと、火を点け始めた。

「だいぶ、火を点けるのも上手くなったよな、兄ちゃん」

 その様子を後ろで見ながら五郎が声を掛けて来た。

「五郎、お前はあの盛光殿についてどう思った?」

「今の勇人兄ちゃんより暗そうだな、と思った。良く分かんないけどお侍様も色々大変なんだな」

「今の僕よりも暗そう、か。それは相当だね」

 五郎の返答に勇人は笑った。
 小屋の隅には二本の木の棒が置いてある。ここに来てからも毎日習慣のように五郎に相手をさせて、棒を振る鍛錬はしていた。自分が強くなっているかどうかは分からないし、あの師行の死すれすれの鍛錬に戻りたいと思っているのかも分からない。だが、必要な事のような気はした。
 例え命を捨てる気になっても、弱ければ大した事は出来ない。それはあの斬り合いの場ではっきり学んだのだ。
 もう建武二年、一三三五年の春だった。自分の曖昧な記憶に間違いが無ければ、そして歴史が変わっていなければ、直に大きな戦いが始まる、と勇人は思った。
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