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3-5 斯波家長(2)
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鎌倉の夏は暑かった。
戦の前の血気に逸った武士達が鎌倉将軍府に出入りしているため、余計に暑さを感じるのかも知れない。
北条時行が信濃で挙兵し、鎌倉の武士達はその対応に追われている。家長は何をするでもなく、その様子を鎌倉将軍府の中で眺めていた。鎌倉を預かる立場である直義も、今の所、何も言ってはこない。
そろそろ風雲が急を告げる、と言う予感があったからこそ、家長も自ら望んで鎌倉に入ったのだが、実際に騒然とした戦の気配に包まれると、いささかうんざりとした気分になり始めていた。
ただの戦ならまだしも、今行われているのはどこまでも謀略の匂いのする戦で、それを通して見ると 武士達の必死さもどこか滑稽な物に見えてしまう。
鎌倉がこの情勢では、奥州に入る事は今は難しかった。軍を率いて北上すれば、北条時行の軍を引き付けかねない。
「暑いですねー」
侍女の格好をした白銀が水を張ったたらいを縁側に抱えて持って来ていた。家長が命じなくても、白銀は良くこうして侍女がやるような気遣いを勝手にやっている。
「白銀、この戦どう見る?」
水を付けた手拭いで汗をぬぐいながら家長は尋ねた。
「直義様は本気で戦われる気がありませんねえ、多分」
自分も汗を滴らせながら白銀は答えた。今はこうしてたまたま屋敷に戻っているが、鎌倉に移ってからも彼女は忍びとして関東中を駆け回っている。具体的に何をやっているのかは、家長も詳しく知ろうとはしていない。
「ほう、何故そう思う?」
「裏の動きと比べて表の動きが悪過ぎますからね。私に分かるのはそれぐらいです」
「そうだな、私もそう思う」
今回の事は、京で権大納言西園寺公宗が、北条氏の残党と組んで起こそうとした謀反がきっかけだった。西園寺公宗は京に逃れた北条高時の弟、泰家と組んで法皇を奉じ、後醍醐帝から帝位を簒奪しようとしたが露見して捕えられた。そして呼応して兵を挙げるはずだった高時の遺児、時行が単独で挙兵する事になったのだ。
しかしその密謀は遠く離れた紀州にいた家長にも察せられるほどの杜撰な物で、あれほど繊細に関東の北条方の武士の動きに睨みを聞かせていた直義がみすみすと信濃での挙兵を許すとは、ちょっと信じられない事だった。
時行はまだ十歳になったばかりの子どもでいかにも周囲に担がれたと言う感じだったが、さすがに北条得宗家の叛乱ともなると呼応する武士の数も多く、実際に事が起こると関東は倒幕以来の混乱に飲み込まれていた。直義が率いる鎌倉の軍勢がこれを破れるかどうかは難しい所だったが、恐らく直義はここで別の勝負に出るつもりだろう、と家長は見ていた。
家長は、自分にあてがわれた屋敷から出ると、直義に会いに行った。当然のように、白銀も付いてくる。ほとんどどこへでも彼女を付いて回らせる家長はこの鎌倉でも奇異の目で見られるが、直接何か言って来た者はいなかった。この事について自分に何か言えるような立場の人間は、白銀がどう言う女かを知っているのだ。
家長は今の所、側に置く女として白銀を扱った事は無かった。白銀に閨で相手をさせるには自分はまだ若過ぎる、と言う気がしている。溺れてしまう事を恐れているのかも知れないし、単純にまだ子ども扱いされている間は夜伽を命じる事はしたくない、と言う意地を張っているだけかも知れなかった。
直義はいつも通り、自分の部屋で執務を行っていた。戦に備えて多くの武士が直義の部屋をせわしなく出入りしているが、家長が来ると直義は他の武士達を去らせ、酒の用意を命じた。
戦が間近に迫っていると言うのに、やはり直義は落ち着き払っていた。やってくる武士達にも、特に細々とした指示は与えていないようだ。
「やはり私は総大将としては頼りないのか、事ある毎に武士達が何かを言いに来る」
家長の顔を見た直義は柔らかい笑みを浮かべて言った。横に付いている白銀の事は、一瞥しただけである。白銀は耳を無くそうと思えばいつでも無くせる。直義もその事を知っているので、裏向きの話をする時でも彼女の事を気にはしない。
「浮足立っていますね、鎌倉の武士達は」
「はっきり言ってくれる。その鎌倉を収めるのが私の務めだと言うのに」
直義には尊氏のような人を惹きつける圧倒的な魅力は無いが、それでも下に付く武士達からの人気はあった。穏やかで物を言いやすい人間なのだ。多くの武士は尊氏に靡いているが、それも間に立つ直義があってこそ、と言う所がある。
「鎌倉を、捨てられますか」
直義を相手に肚の探り合いなど意味は無く、家長はいきなり切り込んだ。直義は意表を衝かれたような顔も見せず、やはり柔らかい笑みを見せたまま頷いた。
「捨てる。恐らくそれが一番いい、と私は思っている。家長殿に相談するかどうかは、迷っていたが」
「今の鎌倉の大将は直義殿です。直義殿がそう決められたのであればそれで良いかと」
鎌倉を捨て、北条時行に渡す。鎌倉を得た北条勢はさらに勢い付き、鎌倉将軍府の手には負えない、と言う事になれば、朝廷は京から討伐の大将を出さざるを得なくなる。
事が大きくなればなるほど、京の尊氏が討伐のために後醍醐帝に対して征夷大将軍の任官を求めるだけの名分が立つ。討伐に失敗すれば、身が危うくなるのは後醍醐帝や廷臣達も同じなのだ。
例え直ちに征夷大将軍の任官が無くとも、尊氏が軍勢を率いて鎌倉に入る、と言う状況さえ作れれば、それはもう幕府を開いた物と変わらない物になる。朝廷がどう反応しようとも、尊氏の元に集まる武士の数は膨れ上がるだろう。
「ただ、危うい賭けとは思いますが」
北条時行に対して、鎌倉を取る、と言う大きな勝ちを譲ってやる事になる。今の所家長は時行の軍勢の動きに平凡な物しか感じていないが、それでも勝ちに乗った大将と軍勢と言う物は思わぬ強さを見せる事がある。こちらが乗せているつもりでも、本当に手に負えない叛乱になってしまう可能性もあるのだ。
「そうだな、だがそろそろ潮時とも思う。これ以上朝廷の手足になって小さな叛乱の討伐を続けるのは無理だ。親政が上手く行くとは思えないが、大きく崩れる前に足利が使い潰される、と言う事になりかねない。このままだと、武士達の足利への期待がそのまま大きな失望と恨みに代わる」
「私が出ましょうか、次の戦い」
少し考えてから家長は言った。直義は優れた人物だが率直に言って戦はそれほど上手い方ではない。味方の犠牲は減らし、敵の勢いは削ぐ負け戦、と言う物をやってみる自信が家長にはあった。
「いや、気遣いはありがたいが、やはり私が出ようと思う。家長殿にはこれから足利を背負ってもらわねばならぬ。負け戦などで名を汚される事は無い」
そこまで言って直義は少し表情を力無い物に変えた。
「それに、勝てるはずの戦に負けて兵を死なせようと言うのだ。そんな戦の業を若い家長殿が背負われる事も無いよ。ここは私に任せて欲しい」
家長は黙って頷いた。直義はただ謀略を弄んでいるのではなく、一つの大戦の覚悟を持ってこの先の戦いに向かおうとしている。それが分かった以上、自分の口出しは無用だった。
斬り合いで血が流れ、人が傷付くのと同じように、謀略での戦いも人を傷付ける。成功しても失敗しても卑怯な振舞いをしたと言う後ろめたい思いは人の心の中に残り、どこかでその人間を傷付けて狂わせていく。
自分がそう言った戦いに向いているのかいないのかは、まだはっきりとは家長には分からなかった。ただ、それに家長を巻き込まず、自分一人で片付けたい、と言う直義の気持ちは素直に受け取りたかった。
同時に、家長はもう一つ直義に尋ねようかと思っていた事を尋ねるのはやめ、後は少し杯を重ねてしばらくの間、直義と埒も無い事を語り合った。特に家長が紀州で出会った楠木正成の事については、話が弾んだ。直義もあの男については、強く気に掛かっているらしい。
底知れない印象がして不気味で恐怖すら感じる、しかし嫌いな男ではない。家長が楠木正成の印象を率直にそう語ると、直義はやはり穏やかな笑みのままで小さく頷いた。
もうしばらくの間は、鎌倉で時勢を見ておられると良い。直義は最後にそう言い、そのまま暗くなる前に家長は直義の執務室を辞した。
屋敷まで戻ると今まで黙っていた白銀が口を開いた。
「家長様。一つだけお伺いしたい事が」
「何だ?」
「鎌倉を放棄した折の大塔宮の処遇についてお尋ねになりませんでしたが、すでにお二人の中ではそれについては定まっている、と言う事でしょうか?」
さすがに、白銀は鋭かった。
「途中までは尋ねようと思っていた事だが、尋ねる事はやめた。それを含めて、直義殿は鎌倉での事は全て自分で引き受けるつもりだ、と分かったからな」
恐らく、直義は鎌倉を放棄する際の混乱に乗じて大塔宮を斬るだろう。
帝の不興を買い幽閉されているとはいえ、何かきっかけがあれば、いつでも檄を発し軍勢を結集して、一勢力として起ちかねない。大塔宮は、政治闘争は苦手だが戦人としては卓越した人間で、万一にも北条時行と結んで戦を始めれば、それこそ手に負えない存在になる。
家長は鎌倉に来た時からずっとその事を考えていた。そして、この機会に斬ってしまうしかない、と言う結論に達していた。その結論に達したと同時に、家長の心には動揺が走った。その動揺が怯えだ、と気付くには、少しの時間が掛かった。
例えそれが足利のために必要であるとしても、親王たる人物を殺す、と言う決断は重い物だった。自分の中にもはっきりと、古代から続く帝と言う存在に対する畏敬と畏怖はあるのだ。
その動揺を心の底に仕舞い込み、場合によっては自分で大塔宮を斬る事を進言するつもりで、家長は直義に会いに行った。
結局、直義は自分が思っていた以上に深い男だった、と言う事が分かっただけだった。大塔宮を含めて、鎌倉での事は全て直義に任せておいてもいい。そう分かって、重苦しい物から少し解き放たれた気分でもある。
「鎌倉はしばらくの間、危険かも知れません」
少しの間考え込んだような顔をした後、白銀が、ぽつりと言った。
「それは、北条時行の軍勢が攻め込んでくるのだから、危険だろうが」
「いえ、それだけでなく、裏の方が」
「忍びか。楠木と陸奥守の」
「以前からその二つの忍び達は鎌倉に入っています。もし大塔宮を救い出すつもりで機を伺っているのでしたら、次に鎌倉が戦場になる時が最後の機会でしょう」
鎌倉陥落の混乱に乗じて直義は大塔宮を殺そうとし、宮方の忍び達は奪い返そうとする。そこで激しい忍び達のぶつかり合いが起きるのは有り得る話だった。
邪魔だから手早く殺してしまう、と言う訳に行かない所にも、親王たる存在の厄介さはある。混乱の内に密やかに、出来得るならば北条時行の仕業に見せ掛けなくては、事が公になった時に足利が受ける傷は大きい。
「鎌倉での忍び同士の争いに私は関わる気は無い。私の身を守るために何かが必要だと思うのであれば、お前が好きなようにするがいい、白銀」
万一にも大塔宮が楠木正成や陸奥守に奪い返されたら、と言う事について考えるのはやめにした。今はまだ時勢を見ていろ、と直義に言われたのだ。自分はまだもう少しの間だけ、煩わしい事、汚い事に直接は触れず、奥州入りに備えて見識を養う事に集中していていい。そう言う意味だと、家長は受け取った。
自分が若過ぎる事は、やはり直義にも案じられているのだ。
「楠木正成殿と陸奥守は、やはり通じているのだろうか?」
家長は少し話を変えた。
「忍び達の動きを見る限りでは、繋がっているようには思えませんが。今の所は」
「そうか。もし組んでいるのだとしたら恐ろしい相手になるだろうが、やはりあの二人には何の繋がりも無いのかな、今の所は」
今の所は、と言う言葉を白銀に合わせて家長も繰り返していた。
いくら倒幕の戦で功があり、今の帝の絶大な信任を得ていると言っても、公家の名門である北畠と比べれば、楠木正成は成り上がりの卑賤の物、と言ってしまっていい存在だ。むしろ正成のような下級武士に高い役職を与えられている事に、陸奥守や北畠親房も他の廷臣達のような反発を感じていてもおかしくは無い。
そんな風に二人が結びつかない理由はいくらでも思い付いたが、しかしそれと全く別の深い所に、二人が組むのを阻んでいる物がある、と家長には思えた。それは、ただの勘だ。
とりわけ戦に関わる事では常に最も新しい情報を正しく得られる訳ではない。そんな時は多くの情報を集めて考え抜いた事よりも、根拠のない勘の方が時に正しく、より重要な事がある。そして自分はそんな勘は悪くない方だ、と家長は思っていた。
気が付けば、白銀は部屋からいなくなっていた。
戦の前の血気に逸った武士達が鎌倉将軍府に出入りしているため、余計に暑さを感じるのかも知れない。
北条時行が信濃で挙兵し、鎌倉の武士達はその対応に追われている。家長は何をするでもなく、その様子を鎌倉将軍府の中で眺めていた。鎌倉を預かる立場である直義も、今の所、何も言ってはこない。
そろそろ風雲が急を告げる、と言う予感があったからこそ、家長も自ら望んで鎌倉に入ったのだが、実際に騒然とした戦の気配に包まれると、いささかうんざりとした気分になり始めていた。
ただの戦ならまだしも、今行われているのはどこまでも謀略の匂いのする戦で、それを通して見ると 武士達の必死さもどこか滑稽な物に見えてしまう。
鎌倉がこの情勢では、奥州に入る事は今は難しかった。軍を率いて北上すれば、北条時行の軍を引き付けかねない。
「暑いですねー」
侍女の格好をした白銀が水を張ったたらいを縁側に抱えて持って来ていた。家長が命じなくても、白銀は良くこうして侍女がやるような気遣いを勝手にやっている。
「白銀、この戦どう見る?」
水を付けた手拭いで汗をぬぐいながら家長は尋ねた。
「直義様は本気で戦われる気がありませんねえ、多分」
自分も汗を滴らせながら白銀は答えた。今はこうしてたまたま屋敷に戻っているが、鎌倉に移ってからも彼女は忍びとして関東中を駆け回っている。具体的に何をやっているのかは、家長も詳しく知ろうとはしていない。
「ほう、何故そう思う?」
「裏の動きと比べて表の動きが悪過ぎますからね。私に分かるのはそれぐらいです」
「そうだな、私もそう思う」
今回の事は、京で権大納言西園寺公宗が、北条氏の残党と組んで起こそうとした謀反がきっかけだった。西園寺公宗は京に逃れた北条高時の弟、泰家と組んで法皇を奉じ、後醍醐帝から帝位を簒奪しようとしたが露見して捕えられた。そして呼応して兵を挙げるはずだった高時の遺児、時行が単独で挙兵する事になったのだ。
しかしその密謀は遠く離れた紀州にいた家長にも察せられるほどの杜撰な物で、あれほど繊細に関東の北条方の武士の動きに睨みを聞かせていた直義がみすみすと信濃での挙兵を許すとは、ちょっと信じられない事だった。
時行はまだ十歳になったばかりの子どもでいかにも周囲に担がれたと言う感じだったが、さすがに北条得宗家の叛乱ともなると呼応する武士の数も多く、実際に事が起こると関東は倒幕以来の混乱に飲み込まれていた。直義が率いる鎌倉の軍勢がこれを破れるかどうかは難しい所だったが、恐らく直義はここで別の勝負に出るつもりだろう、と家長は見ていた。
家長は、自分にあてがわれた屋敷から出ると、直義に会いに行った。当然のように、白銀も付いてくる。ほとんどどこへでも彼女を付いて回らせる家長はこの鎌倉でも奇異の目で見られるが、直接何か言って来た者はいなかった。この事について自分に何か言えるような立場の人間は、白銀がどう言う女かを知っているのだ。
家長は今の所、側に置く女として白銀を扱った事は無かった。白銀に閨で相手をさせるには自分はまだ若過ぎる、と言う気がしている。溺れてしまう事を恐れているのかも知れないし、単純にまだ子ども扱いされている間は夜伽を命じる事はしたくない、と言う意地を張っているだけかも知れなかった。
直義はいつも通り、自分の部屋で執務を行っていた。戦に備えて多くの武士が直義の部屋をせわしなく出入りしているが、家長が来ると直義は他の武士達を去らせ、酒の用意を命じた。
戦が間近に迫っていると言うのに、やはり直義は落ち着き払っていた。やってくる武士達にも、特に細々とした指示は与えていないようだ。
「やはり私は総大将としては頼りないのか、事ある毎に武士達が何かを言いに来る」
家長の顔を見た直義は柔らかい笑みを浮かべて言った。横に付いている白銀の事は、一瞥しただけである。白銀は耳を無くそうと思えばいつでも無くせる。直義もその事を知っているので、裏向きの話をする時でも彼女の事を気にはしない。
「浮足立っていますね、鎌倉の武士達は」
「はっきり言ってくれる。その鎌倉を収めるのが私の務めだと言うのに」
直義には尊氏のような人を惹きつける圧倒的な魅力は無いが、それでも下に付く武士達からの人気はあった。穏やかで物を言いやすい人間なのだ。多くの武士は尊氏に靡いているが、それも間に立つ直義があってこそ、と言う所がある。
「鎌倉を、捨てられますか」
直義を相手に肚の探り合いなど意味は無く、家長はいきなり切り込んだ。直義は意表を衝かれたような顔も見せず、やはり柔らかい笑みを見せたまま頷いた。
「捨てる。恐らくそれが一番いい、と私は思っている。家長殿に相談するかどうかは、迷っていたが」
「今の鎌倉の大将は直義殿です。直義殿がそう決められたのであればそれで良いかと」
鎌倉を捨て、北条時行に渡す。鎌倉を得た北条勢はさらに勢い付き、鎌倉将軍府の手には負えない、と言う事になれば、朝廷は京から討伐の大将を出さざるを得なくなる。
事が大きくなればなるほど、京の尊氏が討伐のために後醍醐帝に対して征夷大将軍の任官を求めるだけの名分が立つ。討伐に失敗すれば、身が危うくなるのは後醍醐帝や廷臣達も同じなのだ。
例え直ちに征夷大将軍の任官が無くとも、尊氏が軍勢を率いて鎌倉に入る、と言う状況さえ作れれば、それはもう幕府を開いた物と変わらない物になる。朝廷がどう反応しようとも、尊氏の元に集まる武士の数は膨れ上がるだろう。
「ただ、危うい賭けとは思いますが」
北条時行に対して、鎌倉を取る、と言う大きな勝ちを譲ってやる事になる。今の所家長は時行の軍勢の動きに平凡な物しか感じていないが、それでも勝ちに乗った大将と軍勢と言う物は思わぬ強さを見せる事がある。こちらが乗せているつもりでも、本当に手に負えない叛乱になってしまう可能性もあるのだ。
「そうだな、だがそろそろ潮時とも思う。これ以上朝廷の手足になって小さな叛乱の討伐を続けるのは無理だ。親政が上手く行くとは思えないが、大きく崩れる前に足利が使い潰される、と言う事になりかねない。このままだと、武士達の足利への期待がそのまま大きな失望と恨みに代わる」
「私が出ましょうか、次の戦い」
少し考えてから家長は言った。直義は優れた人物だが率直に言って戦はそれほど上手い方ではない。味方の犠牲は減らし、敵の勢いは削ぐ負け戦、と言う物をやってみる自信が家長にはあった。
「いや、気遣いはありがたいが、やはり私が出ようと思う。家長殿にはこれから足利を背負ってもらわねばならぬ。負け戦などで名を汚される事は無い」
そこまで言って直義は少し表情を力無い物に変えた。
「それに、勝てるはずの戦に負けて兵を死なせようと言うのだ。そんな戦の業を若い家長殿が背負われる事も無いよ。ここは私に任せて欲しい」
家長は黙って頷いた。直義はただ謀略を弄んでいるのではなく、一つの大戦の覚悟を持ってこの先の戦いに向かおうとしている。それが分かった以上、自分の口出しは無用だった。
斬り合いで血が流れ、人が傷付くのと同じように、謀略での戦いも人を傷付ける。成功しても失敗しても卑怯な振舞いをしたと言う後ろめたい思いは人の心の中に残り、どこかでその人間を傷付けて狂わせていく。
自分がそう言った戦いに向いているのかいないのかは、まだはっきりとは家長には分からなかった。ただ、それに家長を巻き込まず、自分一人で片付けたい、と言う直義の気持ちは素直に受け取りたかった。
同時に、家長はもう一つ直義に尋ねようかと思っていた事を尋ねるのはやめ、後は少し杯を重ねてしばらくの間、直義と埒も無い事を語り合った。特に家長が紀州で出会った楠木正成の事については、話が弾んだ。直義もあの男については、強く気に掛かっているらしい。
底知れない印象がして不気味で恐怖すら感じる、しかし嫌いな男ではない。家長が楠木正成の印象を率直にそう語ると、直義はやはり穏やかな笑みのままで小さく頷いた。
もうしばらくの間は、鎌倉で時勢を見ておられると良い。直義は最後にそう言い、そのまま暗くなる前に家長は直義の執務室を辞した。
屋敷まで戻ると今まで黙っていた白銀が口を開いた。
「家長様。一つだけお伺いしたい事が」
「何だ?」
「鎌倉を放棄した折の大塔宮の処遇についてお尋ねになりませんでしたが、すでにお二人の中ではそれについては定まっている、と言う事でしょうか?」
さすがに、白銀は鋭かった。
「途中までは尋ねようと思っていた事だが、尋ねる事はやめた。それを含めて、直義殿は鎌倉での事は全て自分で引き受けるつもりだ、と分かったからな」
恐らく、直義は鎌倉を放棄する際の混乱に乗じて大塔宮を斬るだろう。
帝の不興を買い幽閉されているとはいえ、何かきっかけがあれば、いつでも檄を発し軍勢を結集して、一勢力として起ちかねない。大塔宮は、政治闘争は苦手だが戦人としては卓越した人間で、万一にも北条時行と結んで戦を始めれば、それこそ手に負えない存在になる。
家長は鎌倉に来た時からずっとその事を考えていた。そして、この機会に斬ってしまうしかない、と言う結論に達していた。その結論に達したと同時に、家長の心には動揺が走った。その動揺が怯えだ、と気付くには、少しの時間が掛かった。
例えそれが足利のために必要であるとしても、親王たる人物を殺す、と言う決断は重い物だった。自分の中にもはっきりと、古代から続く帝と言う存在に対する畏敬と畏怖はあるのだ。
その動揺を心の底に仕舞い込み、場合によっては自分で大塔宮を斬る事を進言するつもりで、家長は直義に会いに行った。
結局、直義は自分が思っていた以上に深い男だった、と言う事が分かっただけだった。大塔宮を含めて、鎌倉での事は全て直義に任せておいてもいい。そう分かって、重苦しい物から少し解き放たれた気分でもある。
「鎌倉はしばらくの間、危険かも知れません」
少しの間考え込んだような顔をした後、白銀が、ぽつりと言った。
「それは、北条時行の軍勢が攻め込んでくるのだから、危険だろうが」
「いえ、それだけでなく、裏の方が」
「忍びか。楠木と陸奥守の」
「以前からその二つの忍び達は鎌倉に入っています。もし大塔宮を救い出すつもりで機を伺っているのでしたら、次に鎌倉が戦場になる時が最後の機会でしょう」
鎌倉陥落の混乱に乗じて直義は大塔宮を殺そうとし、宮方の忍び達は奪い返そうとする。そこで激しい忍び達のぶつかり合いが起きるのは有り得る話だった。
邪魔だから手早く殺してしまう、と言う訳に行かない所にも、親王たる存在の厄介さはある。混乱の内に密やかに、出来得るならば北条時行の仕業に見せ掛けなくては、事が公になった時に足利が受ける傷は大きい。
「鎌倉での忍び同士の争いに私は関わる気は無い。私の身を守るために何かが必要だと思うのであれば、お前が好きなようにするがいい、白銀」
万一にも大塔宮が楠木正成や陸奥守に奪い返されたら、と言う事について考えるのはやめにした。今はまだ時勢を見ていろ、と直義に言われたのだ。自分はまだもう少しの間だけ、煩わしい事、汚い事に直接は触れず、奥州入りに備えて見識を養う事に集中していていい。そう言う意味だと、家長は受け取った。
自分が若過ぎる事は、やはり直義にも案じられているのだ。
「楠木正成殿と陸奥守は、やはり通じているのだろうか?」
家長は少し話を変えた。
「忍び達の動きを見る限りでは、繋がっているようには思えませんが。今の所は」
「そうか。もし組んでいるのだとしたら恐ろしい相手になるだろうが、やはりあの二人には何の繋がりも無いのかな、今の所は」
今の所は、と言う言葉を白銀に合わせて家長も繰り返していた。
いくら倒幕の戦で功があり、今の帝の絶大な信任を得ていると言っても、公家の名門である北畠と比べれば、楠木正成は成り上がりの卑賤の物、と言ってしまっていい存在だ。むしろ正成のような下級武士に高い役職を与えられている事に、陸奥守や北畠親房も他の廷臣達のような反発を感じていてもおかしくは無い。
そんな風に二人が結びつかない理由はいくらでも思い付いたが、しかしそれと全く別の深い所に、二人が組むのを阻んでいる物がある、と家長には思えた。それは、ただの勘だ。
とりわけ戦に関わる事では常に最も新しい情報を正しく得られる訳ではない。そんな時は多くの情報を集めて考え抜いた事よりも、根拠のない勘の方が時に正しく、より重要な事がある。そして自分はそんな勘は悪くない方だ、と家長は思っていた。
気が付けば、白銀は部屋からいなくなっていた。
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