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3-8 左近(2)

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 鳴き声を頼りに、木に止まる蝉を探していた。
 寝転がったまま、自分の頭上の木を目で追う。一匹、二匹、三匹。蝉の鳴き声の勢いはそんな物では無かったが、余り熱心に見付けようとする気にもならなかった。
 左近は、毎年夏になると鳴き出す蝉と言う生き物が、どうにも嫌いだった。長い間地中で過ごし、わずかな期間地表に顔を出して鳴くのだと言う。どうせ短い命であるなら、静かに過ごしていればいい、と思う。
自分の命も蝉の命程度の物だ、と言うひがみのせいで、そう思っているのかも知れない。
 合戦は始まっていたが、その推移が逐一入って来る訳ではなかった。足利直義自ら率いる軍勢が慌ただしく出て行ったが、その先の事は分からない。
 鎌倉で動いているこちらの忍びは左近とちあめを加えてようやく十人を越える数で、大塔宮の奪還を試みようと思えば、戦場にまで常に人を張り付けて置く余裕は無い。
 大塔宮が捕えられている東光寺の警戒は厳しく、平時は鎌倉全体が守っているような物だった。
 元より死を賭す覚悟の仕事になるとは思っていたが、実際には忍びの何人かが命を捨てた所でどうにか出来そうな物でも無かった。
 救うためには北条時行の叛乱が起こす混乱が鎌倉にまで及ぶ時を正確に見極めてそこに乗じるしかない、と左近は考えたが、忍び達の指揮をしている影太郎は、どう言う訳か合戦の推移その物にはあまり関心を向けていないようだった。
 左近が命じられているのも、鎌倉内部の武士に探りを入れ、守りの程を確かめる事だけだ。

「何を考えているんだろうな、影太郎殿は」

 やはり寝転がったまま少し目を上に動かし、呟いた。木の枝の上には、ちあめがいる。かなり細い枝で、見ていれば体重の軽いちあめとは言え、乗って枝が折れないのか少し心配になってくる。
 もちろん返事は無かったが、ちあめは首をかしげるように動かし、左近を見下ろした。木の上から鎌倉の方を見詰めていたようだ。
 ちあめは、気付けば高い所に昇っている。いつのまに昇っているのか、左近でも分からない事が多い。
 ちあめは凄まじく強く、忍びの技にもたけているが、情報を集める、と言う仕事は期待出来なかった。いや、本当はちあめも何か情報を集め、それを自分の中で分析しているのかも知れないが、それを仲間の忍び達に伝える、と言う事はほとんど出来ない。
 なので京に呼んでも、影太郎はちあめに特に仕事を命じたりはしなかった。ただ大塔宮奪還の時まで、自由に京で動かさせているだけだ。そうさせておけば、ちあめはその間に自分がやるべき事を見極め、そして仲間の忍び達が動く時に、自分に出来る限りの最善の働きをする。
 そんな時のちあめの働きは、左近には到底想像も及ばない程の物である事が多い。
 助ける相手である大塔宮については、左近はほとんど一人の人間としては知らなかった。主人である陸奥守や北畠親房とは親密な関係にある、と言うだけだ。影太郎は、昔から大塔宮の事も知っているらしい。
 ちあめが視線を左近から外し、また鎌倉の方へと戻した。左近もその視線を追えば、陽炎の中をこちらに進んでくる男がいる。農夫のような姿をしているが、影太郎だった。

「明日の夜、月が沈んでから始める」

 影太郎は短く言った。それほど若くはないはずだが、何度向き合ってみても歳は良く分からない男だった。
 元は北畠親房に昔から仕えている男だと聞いていた。自分や鷹丸と言ったはぐれ者の忍び達を集め、それを取りまとめている。
 血縁や土地などで集まっている忍び達では無かった。かと言って、全員が勤皇の志などを抱いているとも思えない。左近自身、そんな志など無く、何となく影太郎の下での仕事を続けているのだ。
それでも、そうそう裏切りそうな者は不思議と忍び仲間の中にはいなかった。何となく、一度仕えると決めた主人のために命を懸けて最後まで戦える。そんな忍びを見極める目を、影太郎は持っている。

「合戦の行方は、どうなっているのですか?」

「分からない。だが、足利直義は井手の沢で負けるだろう。そうなれば明日には軍勢は鎌倉に逃げ込んでくる」

 戦場に人を貼り付けている訳でも無いのに、何故それが分かるのか。影太郎の口調には、迷いは無かった。

「納得行かない事がある、と言う顔をしているな、左近」

 わずかに眉を動かしながら影太郎が言った。しかし嫌味な感じはしない。冷徹な忍び頭だが、どこかにこちらを安心させるような部分がいつもあった。

「何故、直義の軍勢が負けると?」

「陸奥守様がそう言われたのだ。直義は自ら戦場に出て負けるつもりだと。ならば私達は、それを前提にして動くだけだ」

「それだけの理由で?もし外れたらどうするのです」

「左近、憶えておけ」

 影太郎はこちらをまともに見て言った。

「忍びは、自分の主君に全てを賭けなくては行けない時がある。例え納得が行かなくとも、主君の考えを知ろうとする事、それ自体が大きな隙を作る時があるのだ」

「それは」

「謀の本当の深淵は主君の頭の中だけにあればいい。目や耳や手足が、頭が考えている事を知る必要は無いのだ」

 言われている意味は、分かる。戦場を別とすれば、最も敵に捕えられる可能性があるのが忍び達だ。何も知らなければ、情報を漏らす事は無い。

「しかし、主君が間違えていれば?」

「潰える。忍びが主君に賭けるとは、そう言う事だ。一度、主君を選んだのだからな」

「それで何も考えないまま、迷いなく、死ねるのですか」

「何も考えないと言うのは、実は楽な事だ。迷わないのも、楽な事だ。常に考え続け、迷い続け、それでも最後は主君の判断を信じて、それに自分の運命を委ねる。それは、難しい。だがそれが出来る忍びが、一番強い」

「俺には、とてもそんな事は出来そうもありません」

「誰にでも出来る事では無い。お前なら、出来る。そう思うから、私はこんな事を言っているのだがな、左近。今すぐそれをやれるようになれ、とも言わないが」

「何故俺にそんな事を」

「それこそ自分で考えてみるがいい、左近」

 そう言い残し、影太郎は立ち去って行った。
 何故俺に、と影太郎に言われた事を考え掛けたが、結局左近はそれを振り払った。今は明日の夜に備えなければならない。
 ふと顔を上げれば、いつのまにかちあめも木の上からいなくなっている。
 丸一日、準備に費やした。翌日の昼頃から、鎌倉の街はこれまでにない喧騒に包まれ始めた。影太郎の言っていた通り、直義の軍勢が敗れ、鎌倉に逃げ込んで来たようだった。
 そのまま直義は鎌倉も捨てるつもりらしく、鎌倉の武士達はそれに従って逃げる者、踏み止まって戦おうとする者、北条の側に付こうとする者で入り乱れ、時が経つ毎に混乱の度を深めて行っている。
 左近は昼間から東光寺の様子が伺える位置に隠れて、じっと待っていた。左近の部下達も、近くに隠れている。ちあめは結局あれから姿を見せていない。
 服装は、兵達の中に紛れ込める物に変えている。
 鎌倉の混乱が広がるにつれて、東光寺周辺の守りにも少しずつ乱れが出来ている。そもそも鎌倉の武士の数が減って来ているのだから当然だった。しかしそれでも、忍び込める隙はまだ無い。
 日が沈んだ頃、再び影太郎が現れた。
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