時の果ての朝~異説太平記~

マット岸田

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5-10 足利直義(2)

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「直義、勝手に陣を離れて逃げて来たのか」

 本陣で尊氏は色をなしていた。確かに普通であれば切腹を命じられてもおかしくない行動だ。しかし単純に直義に怒りを向けていると言うよりも、狼狽が強く伝わってくる。
 戦に負けているから、狼狽している訳では無いだろう。いや、そのせいもあるのかもしれないが、そもそもこの兄はいつもこうなのだ。
些細な事で狼狽し、打ちひしがれ、放心する。しかしいつも不意に立ち直り、それまでの狼狽ぶりが嘘かのような鮮やかな大将ぶりを見せる。

「もうこの戦は負けです。兄上も、それは分かっておられるはず」

 直義は淡々と応じた。自分がやる事はこの兄が立ち直る時まで生き延びさせる事だけだ。そう思い定めれば、迷いも恐怖も消える。

「しかし」

「ここは落ち延びましょう。敵は全軍が兄上の首だけを狙ってきます。無理に踏みとどまろうとすれば、兄上を守るためだけに多くの兵が無駄に死にますぞ」

「ならばいっその事ここで」

「お甘えなさるな」

 直義は尊氏の言葉を遮り、一歩踏み出すとその顔と正面から向き合い直した。

「ここに集まった武士達はすでに朝廷に弓引いた朝敵。今更兄上一人が腹を召された所でその罪も汚名も拭えはしませぬ。兄上を信じて集まった武士達を裏切りたくないのであれば何としてでもここを生き延びて主上との戦いに勝たれなされ。それが出来ねば兄上に与した者ことごとくが滅ぼし尽くされますぞ」

 そこまで言っても、尊氏はまだ腕を組んで唸り声を上げる。
 この兄には、直義にとっては自明と思える理屈が時に通じない事がある。それに苛立っても仕方がなかった。
 師直が崩れかけた外様の兵達を放置し、麾下だけを率いて陸奥守の軍勢を遮るように側面からぶつかっていた。
 直義と尊氏を逃がそうとしている。その動きを見て、ようやく尊氏も決意を固めたようだった。全軍に退却の下知を出し、自分も馬にまたがった。
 それに倣いながら、踏みとどまる師直の動きに目をやる。直義は駿河で討ち死にした淵辺義博の事を不意に思い出していた。
 長らく自分の下で忍び達を動かす汚れ役を黙々と務めながら、不意にほとんど自ら命を捨てるかのように新田義貞の軍勢に突撃して死んでいった配下。思えば朝廷との戦を始めてからこの方、死んだ者の事を考える暇すらなかった。

「直義、何を考えている?」

 自分と馬を並べ、尊氏が訊ねて来た。

「死んでいった淵辺義博の事を。自分はあの男の事を、使い捨ててしまったのかと」

「汚れ役は、必要であったと思う。そうして命をすり減らす事は、戦で死ねと命じる事と、本質は何も変わらぬだろう」

「酷な事を」

「武士とは、それを肯ずる生き方だ。良く働き死んだと思うのなら、残った一族に恩賞で報いればいい。そう思い定めねば、武士の棟梁など出来ん」

 そう語る尊氏は、先ほどまでと比べれば逆に滑稽に思えてしまうほど見事な武士の棟梁だった。
この浮き沈みの激しさも、武士の命を使い捨てだと思い定められる一方で戦場での味方の生き死にに一喜一憂する二面性も、全て尊氏の強さの元だった。
 この兄はどこかで壊れている。それ故に常人では決して及びもつかない事が出来る。それは昔からそうだ。

「案ずるな」

 わずかな時、思案にふけった直義を見てどう感じたのか、尊氏が笑みを作った。

「師直はここでは死なんよ。あれは、しぶとい男だ」

「そう信じております」

 それ以上の会話は続けなかった。尊氏と直義、二人の旗本達だけで、一つの塊になって戦場から離れていく。それに周囲の兵達も合わせるようにし、やがて全軍が敗走し始めた。

「どこへ向かいます?」

「丹波だな。篠村辺りが良かろう」

「またあそこですか」

 丹波の篠村八幡は尊氏と直義が鎌倉幕府打倒の旗揚げをした地だった。あれからまだ三年も経っていないが、直義にとっては十年とも思えるほどの労苦を重ねて来た日々だった。
 その重ねて来た物が、この敗戦で全て無に消えた思いだった。
 今までの敗走とは違い、もうこちらにはどこかで軍を立て直して反撃を加える余裕などない。相手もそれが分かっているから、例え日が落ちても追ってくるだろう。それでも山に入り、日暮れを迎えてしまえば逃げ切る事は出来る。
 逃げながら、少しずつ周囲の軍勢を散らしていく。あまり早く散らせば追撃の兵を防ぎ切れないが、いつまでも連れていれば敵に追われ続ける。その辺りの加減は尊氏は心得たもので、それには直義は何も言わなかった。ただ、逃げ切れるかどうかは運もあるだろう。

「最後まで追ってくるのは」

「新田だな。兵が多く、奥州軍と比べればまだ余力もある。何より勝ちに乗った時の新田義貞は強い」

 後方、左右から挟み込むように新田の騎馬が迫って来ていた。しかし互いにまだ全力で馬を駆けさせてはいない。馬が全力で駆け続けられる時間はそう長くはなく、そしてそれが終わった後はもう走らなくなってしまう。戦場で人を乗せるように馴らされた馬は、人に止められない限り、潰れるまで走り続けるのだ。だから、馬で逃げる時追う時は。足の使い方が重要になる。
 じりじりと、新田の騎馬が距離を詰めてくる。奥州軍も楠木勢も追って来ているが、かなり遅れていた。こう言った長期の追撃では兵の余力やそもそもの数が物を言い、そしてそれは将の資質だけでどうにかなるものでは無かった。

「追い付かれるな、これは」

 尊氏がどこかのんびりとした声で言った。

「旗を捨て、残っている旗本達を囮として分けましょう」

「いや、小細工はいい。追い付かれるものは追い付かれるのだ」

 そう言って尊氏は馬を止めた。慌てて直義もそれに倣う。

「兄上」

「案ずるな。命を捨てようとする気はない」

「では?」

「馬を止めて、追い付かせる。追い付けるとなれば、敵はそれぞれがわしの首を求めて嵩に掛かり、味方同士で争って馬を駆けさせてくる。そこで振り切れば、もう追えまい」

「危うい賭けです」

「六波羅に攻め掛かる決断をして以来、我らは常に賭けの連続だった。それを思えば、小さな賭けよ」

 尊氏の口調はさらに呑気な物になっていた。旗本達もわずかに戸惑った様子を見せた物の、馬を止めて尊氏を中心にした隙の無い、しかしいつでも駆け出せる布陣を組む。
 敵が襲い掛かってくる。尊氏の言った通り、その隊列は乱れていた。今まで必死に抑えていた馬の脚を、何の加減も無く駆けさせている。
 正面から向き合う。尊氏は剣を抜き、雄叫びを上げると、何の躊躇も無しに突っ込んで行く。だが、直義も旗本達も、それに驚いてはいなかった。尊氏がそうすると言う事を、全員が体で分かっていたように、皆がそれに続く。意表を衝かれたのは敵だけだった。
 尊氏が先頭になってぶつかり、そのまま左に折れるようにして曲がる。先を争って隊列を乱していた敵の騎馬は横に薄くなっており、簡単に突破できた。そして誰が命ずるでもなく、旗本の半分は先頭に続いて曲がる事無く、そのまま敵中に突っ込んで行く。
 別方向から現れたわずかな数の敵が、まるでそのこちらの動きを読んでいたように、先頭にぶつかって来た。
 いや、ぶつかってきたのは新田義貞。義貞一人が、尊氏一人を狙っている。
 戦場で間近で見る新田義貞は偉丈夫だった。まるで絵巻物に出てくる源平の頃の大将のようで、それを迎え撃つ尊氏の姿も併せて、一瞬直義は目を奪われてしまった。
 二人が打ち合う。一合、二合。尊氏の太刀が折れた。義貞が何かを叫ぶ。そしてそのまま二人はすれ違った。それ以上追いすがってくる者は他におらず、徐々に敵を引き離していく。
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