時の果ての朝~異説太平記~

マット岸田

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6-10 足利直義(2)

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 いくら動きが鮮やかでもたった七百である。勢いよくぶつかって来た所で、押し包まれ、揉み潰されるだけではないか。
 直義がそう思った通り、すぐに楠木勢は大軍に飲み込まれた。波にあっけなく押し流される砂浜の小石。そう見えた。だが、次の瞬間には軍勢の中に花が咲いていた。花。いや、楠木勢が陣形を組み直している。百ずつ程の兵で六つの方陣。中央に一つの円陣。そして六つの方陣がそれを囲んで大きな円陣をもう一つ作っている。
 六つの方陣が広がり、こちらの軍勢を押し返している。何故、あれだけの大軍を相手にそんな事が出来るのか。
 いや、ただ押し返しているのでは無かった。こちらの圧力を受け流すように六つの方陣が動き、形を変えている。そして受け流すだけなく、受け流された勢いに乗って突出したこちらの小部隊を円陣の中に飲み込み、分断すると逆に包囲して殲滅して行っている。十人、二十人と言う数が一回の攻撃の度に逆に倒されている。方陣を作っている兵は外側かからの攻撃に堅固に対応すると同時に、陣の内側では自在に動き回っていた。
 大軍で囲んでいると言っても、前衛に出ている兵が全て一丸になって呼吸を合わせ動いている訳では無い。それぞれ指揮している者は違うのだ。だから、実際には押し包んでも全ての方向から同時に均等に圧力を掛けられる訳ではない。
 理屈ではそこに隙が生まれるのは分かる。しかし、こんな動きが実際に出来るのか。
兵を手足のように使う、などと言う物では無かった。本物の手足でも、こんな複雑な動きは出来ない。まるで意思を持った水だ。

「六花の陣」

 横にいた師直がうめいた。

「あれがか」

 名前は直義も聞いた事があった。唐で書かれたと言う兵法書に記されている陣である。しかし絵図が乗っている訳では無いので、実際にそれがどんな物か知っている者はいなかった。

「それがしも実物を見た事はありませぬが、六花の陣と言う物があるとすればあれの他には無いでしょう」

「あるいは楠木正成が兵法書を元に自分で編み出した陣かも知れぬな」

 指揮する者が押し潰そうとしても踏み込めば逆に陣に飲み込まれて殲滅されるのが分かっているので前線の兵の動きは鈍かった。弓で倒そうにも、もうあまりに味方と近過ぎてそれも出来ない。仕切り直すために後ろに下がれば、呼吸を合わせてぴったりと距離を寄せて来る。
 楠木勢は堅い木を喰らう虫のように、あるいは岩を穿とうとする水のしずくのように、じりじりとほんの少しずつこちらの陣形の中を前に進んでくる。直義がいる本陣を目指しているのは明らかだ。

「お下がりを、直義殿」

 師直がまた言った。

「私にこれ以上恥を掻かせる気か、師直」

「しかし」

「私とて、武士だ。戦をする上で堪えられない事と言う物はある」

 七百の軍勢と十万の兵で戦っているのだ。この上その七百の軍勢を恐れて大将が後ろに退いた、などと言う事になれば、自分は一生それを引きずって生きて行かなければならないだろう。
 師直は諦めたように首を振ると、それ以上は何も言わずただ直義の前に出た。
 直義はまた楠木勢へと目をやった。
 楠木勢とどう戦うか、などと言う事は最早直義は考えなかった。何かしら破る動きを思い付いても、この大軍でそれを齟齬なく前線に伝え、そしてそれを滞りなく行わせる事など今更出来るはずも無かった。迂闊な動きをして却って前線に混乱が出れば、そこに正成が付け込んでくるのは目に見えている。
 楠木勢の動きはこの世の物とも思えなかったが、それでもやはり兵の一人一人は生身の人間だ。ぶつかるごとに少しずつ消耗し、兵は減って行っている。楠木勢が直義の本陣に達するか、あるいはその前に力尽きるか。そんな戦になっていた。
 正成が自分の所へ辿り着けるのなら、それでもいい。そんな風に自分が思っている事に直義は気付いていた。
 尊氏の本隊も細川勢も赤松勢も、今はもう直義の軍勢の中に咲いた六花とその中央ではためく菊水の旗を眺める事しか出来ていないかった。
 直義のいる所からは、さらにその下で戦う楠木正成の姿も見えた。軍勢の動きの鮮やかさとは対照的に兵一人一人の動きは必死と言う他なく、正成自身も太刀を振るい、血と泥にまみれて戦っている。
 思えば、楠木正成と言うのは奇妙な武士だった。
 特に足利からすれば遺恨があった訳では無い。むしろ倒幕の戦に関しては仲間だったと言ってもいいはずの相手だったのだ。
 直義も最初は他の成り上がりの悪党達と同じだろうと思っていたが、京で実際に会って話してみれば、鎌倉どころか京の公家達の中にもいないような教養と見識の持ち主だった。
 しかし栄達を求めている様子もなく、かと言って理想に燃えている風でもなく、黙っていればその辺りの田舎武士と変わらない初老の男で、一体何のためにあれほど厳しい戦を倒幕の戦で戦い抜いたのか、直義にはまるで理解出来なかった。
 そして今も、何故たった七百で十万の大軍を相手に戦っているのか、やはり理解出来ない。

「楠の花か」

 自分でも気付かない内に声に出していた。側にいる師直の耳にだけ届いたようだ。

「は」

「楠の花は、小さく白い。そして六枚の花弁が付く。それを思い出した。あの小さな六花の陣は、まさにそれだな」

 直義の言った事の意味が良く分からなかったのか、師直は怪訝そうな顔をしたままだった。直義自身も、はっきりとした意味が自分で分かっている訳では無い。
 気付けばいつのまにか相当の時刻が過ぎていた。日の動きからすればもう三刻は過ぎている。楠木勢はじりじりと前進し続け、直義のいる本陣からほんの二町ほどの距離も無い所まで来ている。しかし六つの花弁一つずつを作る兵士の数は、もう三十人もいないように見えた。
 あの男は乱世に咲いた花か、と直義は思った。生き様その物が花のような男だった。
 それに比べれば自分は、兄と言う大樹にしがみついて必死に高みに昇ろうとしている蔦のような物に過ぎないのではないか。
 楠木勢の動きは、限界に達しつつあるようだった。武器を握りしめ立ったまま気を失い、そのまま斬られている兵までいる。陣形を作る兵が減ったせいで、六花の陣ももう十分に機能していない。
 それでも直義は、正成がはっきり自分を捉えた事に気付いていた。ぎりぎりで矢が届く距離。そこに達していた。何人かが弓を構えてこちらに向けている。その中には正成自身もいた。この長い死闘の中で、弓を失わず、矢も使い切らず、最後の攻撃のために残していた。それも信じがたい事だった。
 直義は逃げようとは思わなかった。
 これほどに凄惨で、虚しく、見事で、そして美しい戦いを続けた挙句についに自分に届いたのだ。最初に感じた畏怖の感情は、すでに直義の中で崇敬にすら変わっていた。
 弓を構える正成と目が合った気がした。直義は微笑んだ。自分が逃げようとしない思いを、その微笑みに込めたつもりだった。通じたかどうかは分からない。しかし一瞬だけ、正成も笑ったように見えた。
 数本の矢が一斉に放たれた。自分に向かって来る。
 当たる。そう思った時、師直が半ば自分の馬をぶつけるようにして直義を馬ごと後ろに押しのけた。同時に旗本達が矢を防ごうと盾を構える。
 一本の矢がほんの数瞬前まで直義の体があった場所を通り過ぎ、そして直義の乗る馬の首に突き立った。
 馬が暴れる。師直。そう叫びながら落馬していた。すぐさま立ち上がり、もう一度叫んだ。

「直義殿のお命は最早直義殿お一人の命ではございませぬぞ」

 師直が正面から直義と顔を突き合わせて答えた。
 言い返す事はせず、直義はまた楠木勢へと目をやった。もう生き残っているのは百人もいない。残った兵もほとんどが力尽きたように動きを止め、一人一人がただ幽鬼のような顔でこちらを見詰めて来ている。陣形は押し潰され、一方的な殺戮が始まっていた。
 もういい、と直義は呟いた。師直が頷き、声を張り上げて同じように叫んだ。
全軍が動きを止める。
 そして誰が命じるでもなく、軍勢の一角が開いた。その先に、小さな小屋がある。
 楠木勢は正成を先頭にしてそこへと歩いて行った。七十三人。途中で逃げ出した者も降った者も一人もいなかった。正成とその一族であろう何人かが小屋に入り、残った者達が小屋を守るように囲む。

「新しい馬を持て」

 堪えがたい物を感じて直義はそう言った。

「直義殿、いい加減に」

 また諫めるように師直が前に立ち塞がった。

「もう戦は終わったのだ、師直。それはお主にも分かるだろう」

「しかし」

「行かせてくれ、師直。この戦が何であったのか、私は知りたい。それは、足利のためにも恐らく必要な事なのだ」

 直義がそう言うと師直は大きく息を吐き、新しい馬を持ってくるように旗本に命じた。
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