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第三章
第九話 和解
しおりを挟む「――何故、あなたが謝るの? 怒っているのは、あなたの方なのに」
ぽつりと洩らされたのは、訝しそうな声。
月龍が怒る? 意味がわからず、ふと顔を上げる。
目が合う前に、蓮がすっと視線をそらした。
――そらされたことが、胸に痛みを植えつける。
「あのとき――私、怖くて。それと、痛くて。我慢できずに、泣いてしまったから。だから」
月龍が力ずくで押さえつけたのだ。痛みも恐怖心も当然だろう。
だからこそ、あのような目に合わせて、そう言って月龍を憎むのではないのか。
「他の女性と比べて、遜色あることはわかります。だからもう――飽きたのでしょう?」
怒気はなかった。静かな声音に、月龍は冷や水を浴びせられた気分になる。
誰に隠す気もなく、大っぴらに女遊びをしていたのは事実だ。知られていても無理はない。
けれど蓮は、過去について一切言及したことがなかったから、まさか知られているとは思っていなかったのだ。
「紫玉さまにも、言われてはいたのです」
紫玉。蓮が口にした名に、眉根を寄せる。
聞き覚えがある気もするが、誰なのか思い出せない。
「あなたは遊びでしか女性を相手にしない。いずれ私も、紫玉さまと同じように捨てられる、と」
続けられた言葉で、蓮とで会う以前に何度か床を共にした女だと思い出す。
しかしあの女とは、捨てる捨てないの関係ではなかった。行きずりの情事が、偶々二、三度あっただけだ。恋情を抱いたことも、愛情を傾けたこともない。
蓮と同列に語れる存在ではなかった。
「公主は――遊びで手が出せる相手ではない」
蓮との出会いは、月龍の価値観を変えた。嫌われるのが怖くて手が出せない女など、初めてだった。
生涯傍にいたい、そう思ったのも蓮一人。その蓮を悪戯に弄ぶなどありえない。
過去の女関係の酷さを知っている蓮の耳に、月龍の言葉は信憑性はないだろう。おそらく自分が彼女であれば、信じない。
そんな思いが自信を奪い、声からは張りを失わせる。
蓮の顔を見上げながらも、未だしっかりと目を合わせることができていない。定まらぬ視線は、挙動不審と見えるのではないか。
くすりと笑う蓮の声は、寂しげだった。
「――そう。私は公主、ですものね。今まで意識したことはなかったのですけど――なかった、つもりだったのですけど」
ふぅ、と嘆息が続いた。
「どこかで思っていたのかもしれません。公主の立場にある女を、弄んで捨てるような人はいない。だから大丈夫だと」
違う。公主だから捨てられぬと言ったのではない。
蓮だけが、特別なのだ。
「公主、私は――」
「公主」
蓮が月龍を遮る。なにを言いたいのかわからぬまま、焦りに押されて口を開いただけだったから、ほんの僅か安堵した。
苦笑含みの声が、続ける。
「あなたはいつも、私のことを公主と呼ぶ。話し方も態度も、亮さまに対するものとは違っていて――少し、寂しかった」
亮には素を曝け出せるが、蓮に対してはどうしても遠慮があった。馴れ馴れしいと言われるのが怖くて、距離を縮めることができなかった。
蓮はそれを、寂しかったと言う。
もしかしたら考えている以上に、蓮は月龍を想ってくれているのか。
「でも、ただ寂しがるだけではなく、気づかなければならなかったのね。亮さまほどには親しんでくれていないことを――避けられていることも。あなたから別れを言い渡すわけにはいかないから、だったのに。気づかなくて、ごめんなさい」
場違いにも嬉しいと感じたのは一瞬だった。すぐに心臓が凍りつく。
それではまるで、蓮から別れ話をさせるために逃げ回っていたかのようだ。月龍が彼女との別れを望むなど、ありえないというのに。
月龍の高さに合わせるためか。蓮がゆっくりと片膝をつく。
月龍は、はっと顔を上げた。
――ようやく、蓮としっかり視線が絡む。
優しげな笑みが刻まれた唇、穏やかに細められた目。
その目尻から、涙が一筋流れ落ちた。
「ご安心なさって下さい。もうつきまとったりしません。亮さまにも、うまく説明しておきます」
非道の行ないによって嫌われたのであれば、まだ諦めもつく。けれど誤解によって失うなど。
「公主!」
立ち上がれば、あとは出て行くだけだ。だから腕を伸ばして、蓮を掴まえる。
「――月龍?」
突然抱き寄せられて、困惑しているらしい。月龍の腕の中で、蓮が不思議そうに呟く。
あまり、力を入れてはいけない。月龍が全力で抱きしめては、この華奢な体が壊れてしまう。
痛みが再び、恐怖を与える可能性はあった。
想いを伝えられるだけの言葉を、月龍は知らない。
亮ならばきっと、女を感激させる台詞を平気で並べ立てるのだろう。けれどそれをできない月龍には、行動しかなかった。
驚きで半開きになった蓮の唇を、そっと口で塞ぐ。
情欲からではなく、愛情をこめて。
「別れたく、ない。――蓮」
唇を離して、再び抱き寄せた。頬を接して、なんとかそれだけの言葉を振り絞る。
声が、震えた。
公主と呼ばれて寂しかったと蓮は言った。月龍にもわかる。だから姓ではなく字で呼んでほしかったのだから。
蓮もそう感じていたのならばもう、遠慮は必要ない。月龍もずっと、彼女の名を呼びたかった。
これからどうなるのかは、蓮次第だった。「なにを今更」と非難されるのは仕方がない。身勝手な男には付き合いきれないと言うなら、諦める。
けれどもし、蓮に許してくれる気持ちがあるのならば。
「――私も」
耳元で、囁くような声を聞く。
「私も、別れたくない」
――賭けに、勝った。
咄嗟に浮かんだのは、やはり身勝手な思いだった。
考えてみれば、賭けでもなんでもない。蓮が想ってくれているのを半ば確信していたのだから、性質が悪かった。
蓮とてもう、見えているはずだ。月龍の臆病さ、我儘さを。
それを承知で別れたくないと言ってくれた。
抱きしめる月龍の背に、蓮の手が回される。
ぎゅ、と縋りつくように衣服を掴んだか弱い力が、ただ嬉しかった。
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