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第七章
第五話 香油
しおりを挟む幼い頃から不遇に身を置いてきた月龍にとって、夢のような日々が続いていた。
蓮が戻ってきてから、一月近くが経つ。
季節は冬ながら、明け方の柔らかな光や、まだ硬いけれど木に芽吹き始めた花の蕾が、春の到来の近さを物語っていた。
亮の推察通り、王は岷山の降伏を承諾し、戦は泡と消えた。当然手柄を立てたわけではないから、正式な結婚は許されていない。
それでも、蓮を失ったわけではなかった。笑顔で迎えられる幸せは、今も続いている。
また、蓮との関係が月龍の社会的立場も保証してくれるようになった。
蓮の兄である趙靖だけでなく、王すらも二人の仲を認めた。ただの成り上がり者と見下すのは、その男を認めた趙靖たちを愚弄することになる。
否、遠からず外戚入りするはずの男に恨みを買うのは、決して得策ではない。内心はわからぬまでも、面と向かって罵倒されることはなくなった。
かつては、どうせ妻を得なければならないのであれば、身分のある女をと望んでいた。
政治的野心を満たすための結婚だ。愛情など求めないし、なんなら嫌っている女でも構わないとすら思っていた。
まして蓮は、愛しい恋人だった。その上に地位や出世を約束してくれる存在でもある。
有頂天という言葉があるけれど、今の月龍はまさにそれだった。
――もっとも、まったく違和感を覚えないわけでもなかった。
蓮との別れを亮に撤回した、翌日のことだ。帰宅した月龍に飛びついてきた蓮からまた、亮の香油の香りがした。
前日は、月龍が亮と会っていた。つい抱きしめたりもしたので、月龍の方に残り香があったのかと思ったが、今日は会っていない。
ならば香りの元は、月龍ではなく蓮ということになる。
「――亮と、会って来たのか」
嫉妬混じりに問いかけると、蓮は軽く首を傾げる。
「亮さまに? いいえ、会っていませんけど……どうして?」
「亮の香りがしたから」
何故、隠すのか。会ったのなら会ったと言えばいいのに。
言えない理由は、やましさからくるのではないか――自然と、疑いの念が頭に浮かぶ。
だが蓮は、きょとんと見上げたかと思うと次の瞬間にはころころと笑い始めた。
「いやだわ、月龍。今頃気がつきましたの?」
「今頃?」
「いい香りだから、亮さまに香油を分けて頂いたの。少し前から使い始めていたのですけど」
くすりと苦笑されて、納得する。同じ香油を使っていれば、同じ香りがして当然だった。
一体いつから使っていたのだろう。気づいたのは前日だったが、口ぶりではもっと前からのようだった。
月龍の鼻は亮の香りに慣れているから、麻痺していたのかもしれない。いずれにせよ鈍い話だと、ひっそり苦笑する。
けれど、残念ではあった。
蓮から発せられるあの、花の香りが好きだった。聞けば香油ではなく、花を絞った湯で髪を洗っていたのだという。
あの淡く、甘い香りの方が蓮には似合っている気がした。
「――お気に召しませんか?」
黙り込んだ月龍を見上げる瞳に、不安が滲んでいる。意向を窺う眼差しに、静かに頭を振って見せた。
「いや――好きな香りだ」
本当は、寂しかった。花の香りに包まれた蓮であってほしいと思っている。
けれど蓮が気に入っているのならば、それでいい。月龍の好みになど左右されず、好きなように振る舞ってほしかった。
安心してしかるべき蓮の顔が、何故か悲し気に歪む。
「――蓮?」
「よかった、気に入って頂けて。似合わないなんて言われたら、寂しいですもの」
呼びかける心配の声に、蓮は笑みを浮かべた。肩を竦めた明るい笑顔に、月龍も胸を撫で下ろしたのだけれど。
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