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第八章
第一話 諍い
しおりを挟む月龍が亮を訪ねて来なくなって、しばらくになる。
愛しい恋人ができたのだから、それで普通だろう。蓮と月龍が付き合い始めた当初、毎日亮の元を訪れていたのが異常だったのだ。
蓮との別れを撤回しに来たあとは、政治上の問題を話すために一度やって来たくらいか。
それでいいと思っていた。
亮自身、二人に会えぬ寂しさがあるのも事実だが、亮を頼らなくてもいいほどうまくいっているのならば、それに越したことはない。
そう思っていた矢先のことだった。慌ただしい足音で、月龍の来訪を知る。
なにをするでもなく牀に半ば寝そべっていた亮は、入口へとちらりと目を向けた。
視界の端に月龍を映すも、どうせいつものことと正面に戻しかけて――
ふと、月龍の顔が異常に険しいことに気付いた。
はてと首を傾げる。ここ最近、政治的な動きはない。月龍が慌てた様子をするなにかに、心当たりはなかった。
慌てる? 否、どちらかといえば、殺気立っているの方が正確か。
くすりと笑って、肩を竦めて見せる。
「どうした、怖い顔をして。おれを殺しにでもきたか」
軽口を叩いてみても、月龍は相好を崩すどころか、より不機嫌な表情になる。
ゆっくり歩み寄って来て、ぴたりと亮の前で足を止めた。
「――返答如何によっては」
すぅっと細めた目が、低く答える。
状況は理解できなくとも、いつもと違うことくらいはわかった。思わず腰を浮かすのと同時、月龍が素早く動く。
振り上げられた拳を見た。
――と思った瞬間には、横面に激しい痛みを覚える。
叩きこまれた勢いに耐えきれず、亮の体は吹き飛んだ。がたん、どんと派手な音を立てて卓にぶつかって床に転がる。
口の中に充満する血の味と、体を襲う痛みが混乱を助長させる。へたりこみ、月龍を制止するような仕草で片手を前に突き出した。
「なんだ? いきなり――」
問いかけというよりも、独語に近かった。
月龍の眉間に刻まれた皺が、深い。厳しい顔つきに険悪さをにじませながら、亮の顔から目をそらす。
「――蓮のことだ」
どういう意味か、わからないはずもない。
はっ、と笑うような、ため息のような声が口をついて出た。
「なんだ――そのことか」
血の混じった唾液を、ぺっと吐き出した。
少しはとぼけるとでも思っていたのか、月龍は一瞬、拍子抜けした顔になる。けれどすぐに認めた亮の態度が気に食わなかったのか、次には顔色を変えた。
「なんだ、だと!?」
亮の襟首を掴み上げ、ぐいっと引き寄せる。男にしては細い亮の体は、月龍の片手だけでも軽々と床から持ち上がった。
顔と顔を突き合わせて睨み合うもわずか、亮はふん、と鼻を鳴らして横を向く。
「なんだ、と思ったから、そう言ったまでだ」
体勢を整え、しっかりと足で床を踏みしめてから片手で月龍の手を払う。
無論、月龍に手を離す意思がなければ、亮の力で振り払うのは不可能だろう。
しかし、亮にはわかっていた。月龍の目的は、亮を痛めつけることではない。蓮のことで話をつけにきたのだ。殴りかかってきたのは、気の短い月龍のこと、カッとしたに過ぎない。
月龍も莫迦ではない。殴り合ったところでなにも解決しないことくらいわかっているはずだ。手を払う亮の動きに合わせて、自ら手を離したのだろう。
口の端から、糸のように血が流れ落ちた。中の傷が止まらぬ出血を強いるのだろう。手の甲で血を拭い、あえて涼しい顔を作って見せる。
いつもと変わらぬふてぶてしさが、月龍の神経を逆撫でしたらしい。
「お前にとってはその程度のことか」
「勘違いするなよ。おれはなにも、そのようなことかと言ったのではない。お前の突然の暴挙に驚き、理由を知って納得した。それだけのことだ」
飄々とした態度に、月龍の険しさが増す。
「――どういうつもりだ」
噛みしめた奥歯の間から押し出された声に、質問の意図を重々承知の上で首を傾げて見せる。
「なにがだ?」
「とぼけるな。どういうつもりで蓮を――抱いた」
辛そうに言いよどむも、言わざるを得ない状況を察したのだろう。低い、くぐもった声だった。
亮は満足感を覚えていた。月龍の口から、その言葉を引き出したかったのだ。
辛くはあるのだろう。けれど蓮が感じた苦痛の比ではない。
そのことを、思い知らせてやりたかった。
大仰に、両手を広げて見せる。
「どうもこうもない。おれは頼まれて、手ほどきをしてやっただけだ。――まぁ、おれも楽しませてもらったが」
月龍に流し目を送り、ちろりと自分の唇を舐める。その仕草が妖艶に映るのを、計算済みだった。
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