上海ハニー

フランク太宰

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ドイツ式コーヒー

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 理由は大したことじゃない。
長く生きるという人生を押し付けられると、勝手になりたいと思うものだ。無論、次の瞬間に死ぬのかもしれないけれど、それを救いの言葉(警告)として投げ掛けられる人は、いつかノーベル賞でも貰うつもりでいるのだろう。
 とにもかくにも私はモスクワ行きのチケットを手にいれたのだ。
  
  "世代"何て言う言葉は好きではないのだけれど、やはり傾向というものはあって、私も回りと同じように大学というものに入った。行かなかった人間も行けなかった人間も居るのだけど、少なくとの私は当時の多数派だったのだ。それに今考えてみても、何というかこの世界において日本の大学を入学卒業することが重要な事だとも思えない。古い哲学者が日本には二度とジョン万次郎のような人物は登場しないだろうと、言っていたけれど、大学を卒業しなければ、みすぼらしいなんて、上部で言うだけの大人に作られた世の中に生を受ける子供も苦労する。
私もそうなんだろうが、私は何というか関心がない、流されていくだけの人生にたいして文句も当時はなかった。
 Iや周囲の人間たち、とは上手いことやっていたと思う。
私を殺そうとした人間もいたけれど、彼は例外として、特に私自身の素性にたいして反感を持つ人もいなかった。むしろ、有り難いことに好いてくれる人が多かった。
Tという教授も、その一人でだった。
無論、彼から声をかけてきたわけではなかった。綺麗な河童ハゲで丸眼鏡を掛けた小柄な男だったけれど。さすがは60年代を学生として実直に体験し、長い年月をかけて事実上作成可能な電力発電装置を考案したことは私からしたら、尊敬や敬愛を感じる他なかった。
きっとそれは彼が講義のなかで、非常に誠実で現実味もあり、そして何より研究者として未来に期待していたからかもしれない。"美貌なれ未来"そんな言葉は人が年齢を重ねるごとに、大抵の場合において消えていくのだ。あの学舎に未来を形造るような学生がいたかは疑問だけれど、少なくとも私は彼の話に感激していたのだ確実に。
物理分野の教授であったから、実のところ私の学びの専門とはかけ離れていたのだけれど、彼はそう言った学生向けにオールマイティーで実論哲学的な授業をしていた。
専門ではないと書いたが。当時の私の専門は海洋学と航海学だった。話の流れとしては、突然なんだろうけれど、当時私は商船員か海上自衛官を目指していた。高校の頃は反社会的な歌詞の曲の伴奏もしていたし、当然ながら今でも保守的な考え方を持ち合わせていないのだけれど、国のために働くことを素直に当時は望んでいた、それは私が一葉は"震災世代"だからだったのかもしれない。もっとも正直なことを言ってしまえば、父親とは違う人生を送りたかったのだ、父は社用の人であったし、その頃には自分のためにビジネスを始めていた。要領の良い男だから、当時、ある程度の成功を納めていた。しかし、私はそれが気にくわなかったのだ、裏を見れば生臭い世界であったし、やはりOのことを許せてはいなかった。もしかしたらOのことで父親を恨むのは、おかとちがいなのかもしれない。けれど、あの日、東京に雨を降らせOを濡らした責任が父にまるでないとは思えない。
 Tは私に対して「君には期待しているよ、ただ重く受け取らないでくれ、人は誰しも強くないんだ。アリストテレスもそうだし、セネカなんかその代表例だろ。60年代に勢力的な社会運動をしていた奴等も情けない爺になって、今では人間ドックとか行ってるんだからね。僕は社会運動というかマルクスレーニン主義は昔から現実味がないと思っていたけれど、見ての通りの爺さ」
彼はハゲ頭を撫でながら、そう言った。
「ただ、昔より今はだいぶ"冴え"てないような気もしますが」
私がそう言うと
「たいして、変わっちゃいないんだよ、人間なんて 、稲作を始める前からね。ただ君の言いたいこともわかる、現代は妙に変質的なんだ、世界を見てもね」
そして「ところで、君は海を渡ったことはある?」と言った
「いや、海の上にはよくいますが、昔し上海に10日ほどいた程度ですね」
「上海、僕は行ったことがないな。北京には何度もあるのだけれどね」
「そうですか、思い出深い所です。たった10日だけでしたが」
そして私は占いの話をした。
「君は占いを信じるのかい?」
 「いいえ、ただ占った人間が僕にとっては忘れられない人なんです。それに、彼女は占い師じゃなかった、だからかもしれません」
大学近くの喫茶店での教授と生徒の会話は、あの町では特に不思議でもなく、よく見かける光景だった。学生で成り立っている、チェーンでない店、禁煙席と喫煙席は区切られておらず、コーヒーは寝不足の学生のために濃かった。
この店を知っている人もいるかもしれない。
店主は三代目で彼は店のことを、ドイツ式喫茶店と言う。
実際にはドイツ式でもない、アメリカ式でもない(ダイナーには見えない)といって本番イタリア式でもないのだ。要するに戦前に日本人が想像したであろう、海外の様相なのだ、煉瓦式というところも派手なシャンデリアも背もたれの長い椅子も、そして動かないインベーダーゲームにしても。
 抽象的な日本での海外像といったところだろう。明治大正期に財閥や華族が建てた豪邸のような。
ところで、何故に店主がドイツ式と決めつけているかというと、戦争が始まる直前に検閲にやって来た憲兵に最初の店主が、この店はドイツ式でドイツコーヒーのみを提供していると言ったことが原因らしい。そして、その気の効いたジョークが伝統になっていたのだ。
私がよくこの店に通っていたときは、カウンタの奥の壁にスペインのサクラダファミリアの写真が飾ってあったけれど、戦中はヒットラーとムッソリーニの写真が飾ってあったらしい。戦中は主にグリーンティーと小さな角砂糖を提供していたようだ。
当時、私は気になっていたのだけれど、ムッソリーニの写真は1943年に取り外したのだろうが(もしかしたら、もう一度、彼が復権した時にはつけ直したのかも)
終戦の年の5月から8月までは、何の写真が飾られていたのだろおか。
この事については店主に訊ねることはなかった。それに、彼にとってはあの店は確実に小さなドイツだったのだろう、西でも東でも連邦でもないドイツ。
 そんな店でTという教授は私に対して提案をしてきたのだ。
「温暖化で北極航路が頻繁に利用されるようになるだろう。君がもし商船員に成るのなら、ロシア語を喋れた方が良いでしょう、無論、英語話者でなければならないが。うちの大学にはモスクワのM大学への留学制度もある、それに私も彼処へは何度か行っているんだ、学会でね、だから知り合いもいる。たしか学生も教授たちも主に寮で暮らしている、だから他の留学先よりは費用はかからないんだよ、物価もまぁまぁ安い。君がよければの話だけれどね、だいいち、ただではないしね」
「良いお話だと思います。ですがなぜロシアなのです?」
彼は答えた
「君から占いの話を聞いたからだね。私もあんなもの信じちゃいないよ。ただ実は私もある占い師に占われた事があるんだ。あれは革命前のリビアだったけれど、言葉も英語通訳をとうしてだったけれど、こう言ったんだ、"貴方は貴方の息子であるところの人物を北へ送る"ってね、よく分からないし、もっとそれっぽくて肝心な事を言えばいいのにと感じたよ、例えば近い将来、髪の毛がなくなるとかね。
しかし、なんというか君は珍しく他学科で私と話をする学生だし、生徒=息子、これはこじつけがましいかも知れないけれど。それに訳の分からない診断をされたもの同士、妙に共感するとこもあるんだ。でも気にしないでくれM大への留学の話は過去何度か他の学生にもしているしね」
「まぁ、面白いお誘い話として記憶にとどめておいてくれ、直ぐに結果に急ぐこともない、はや歩きするには君は"若すぎるほどに若い"」 
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