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-Chapter1- 寄る辺なき少女とロックバンド
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幼少の頃から騒がしい場所は嫌いだ。
ショッピングモールだとか、フェスタだとか、パーティだとか、テーマパークだとか。二十六年間生きてきたけど、そのどれもに慣れることが出来なかった。
唯一の例外として──音楽。特に、ロックなどの激しい曲調がもたらす騒々しさの中であれば、どれだけの人が押し寄せてきてもライブステージ上で迎え撃つことが出来る。
名門。というと些か大袈裟だが、イギリスじゃそれなりに有名な音大でロックサークルに属していたおかげで、その喜びを知ることが出来たから本当にありがたかった。
卒業後、さらにありがたいことに俺は大学の先輩たちに誘われ、彼らとメタル系のバンドを結成する。
バンド名は“デスマーチ”。“死の行進”を意味するその不吉なネーミングは如何にもベタな感じがしたけれど、将来の事や自分の存在意義に迷い、荒みまくっていた当時の自分が属するにはうってつけな看板だったと今なら思う。
ボーカルのけたたましいシャウトやグロウル、人々の心に巣食う怒りや嘆き、誰もが日々抱くありふれた不平不満。それらを重苦しくも叙情的なサウンドに乗せるデスマーチのスタイルは多くのリスナーを湧かせ、共感と耳目を集めた。
やがてインディーズでの下積みわずか一年四ヶ月余りという当時のハードロックシーンでは異例の速さで、デスマーチはメジャーレーベル入りが決定することになる。
けれど、物事にはバランスがある。
いい事が起これば、その分だけ悪いことも起こるのが世の常だ。
そしてよりにもよってその凶事は、俺の身内に起こってしまった。
最愛の妹の自殺という、最悪の形で。
ある日のスタジオ練習からの帰宅後、妹は自分の部屋のドアノブで首を吊って亡くなっていた
あまりに突然で、理不尽で、嘘であって欲しかった。
両親の離婚を期に独立した俺たち二人にとって輝かしい思い出が沢山詰まった兄妹の家が、一瞬にして悪夢の舞台と化した。
妹は死んでいるとは思えないほど綺麗な顔をしていた。
揺すれば今にも起きてきそうな、安らかな寝顔。
血の気無い青い肌と、温度を失い凍てついた肉体さえなければ、「どこで寝てんだ」とか言って起こしてやれるのに。
その身体にはもう妹が居ないだなんて。
──誰かが悲愴な叫び声をあげる。
それは他でもない自らの喉から発せられたものだったが、気が動転するあまり自分のものだと認識するのが一瞬遅れてしまった。
続けざまに逃れえぬ濁流のような絶望が頭の中を流れ、掻き乱していって、俺は我を忘れて泣いた。
悔いるように、あるいは何かを恨むように、全身のエネルギーがその日眠りにつくまでただ慟哭することだけに費やされていった。
迎えた妹の葬儀の日。棺の姿で運ばれていく妹を見て、いよいよ容赦ない現実にようやく我が身の出来事なのだとハッキリ思い知らされた。
掻き乱されて思考する事を封殺されていた頭も、少しばかり落ち着きを取り戻し始めた。
やがて俺は妹を死に追いやった元凶について思考を巡らせるようになっていく。
改めて思い返せば、それらしい“兆候”はあった気がする。
呼び掛けても一瞬応答が無くて心ここに在らずのような日があったり、笑顔がどこかぎこちなかったり、目立たない形でだが違和感がいくつかあったのだ。
「大丈夫だよ!へーきへーき!お兄ちゃんていつからそんな心配症になったの?」
妹はそう言って気丈に振舞ってこそいたが、今にしてみればそれは過度に心配されることを嫌う妹の性格が関係していたのかもしれない。一人で抱えて、誰にも打ち明けず、全てを胸の内に秘めたまま。
見えない悪意によって追い詰められた妹が、下唇を噛む思いで首を吊ったビジョンが見えた。
学校だ。それしか考えられない。
誰が、何人、いつ、どれだけの期間に亘り妹を苦しめたというのか。
どうして妹が死ななくてはならなかったのか。
全てを白日の元に晒して、妹の無念を晴らせるのならこれ以上の手向けは無いのではなかろうか。
いや、この際、形なんてどうだっていい。
主犯の連中さえわかれば大人も子供も関係ない。
全員にもれなく妹と同じ痛みを味あわせてやらなくては。
どす黒い使命感が、逆巻く炎となって胸の内で燃え拡がるのを感じた。やってやる。
そこまで考えて──しかし実行には至れなかった。
妹がそんな不毛な復讐を望むだろうか?
誰にだって分け隔てなく接し、その度に愛も優しさも振りまいてきた妹が、弔い合戦をして欲しいなどと望むだろうか?
俺は自分がするべき事がわからなくなった。
憤怒や激情や衝動の燃え滓がない混ぜとなり、代わりに俺の内側をじりじりと焼いた。
その後を冷やすように心に雨が降ると、余剰な分が実際に涙や叫びとなって、俺の中から解き放たれていった。
何度となく繰り返した悲しみの果てに、俺はひとつの結論にたどり着く。
「そうだ・・・バンド・・・」
メンバーを中心とした関係者達からは当然バンド活動が危ぶまれていたが、他の全てをやめてしまっても音楽だけはやはり最後まで諦めようと思わなかった。
それは幼少期から自分をここまで形成してくれた音楽への恩返しのような感情と冷めやらぬ情熱ゆえだったが、ひとりのファンとして兄の成功を祈ってくれていた妹への花向けになるとも考えていた。
だからステージに復帰するまで支えてくれたかけがえのないバンドメンバーと共に、俺はパフォーマンスを続ける選択を決めた。
そうすることでしか、立ち直りようがなかったんだ。
そして、一年が経った頃。
関係者達のメジャーデビュー祝賀パーティの夜、俺はボーカルというバンドのフロントマン的立場に在りながら、パーティ会場を欠席していた。
結成から今日まで汗振りまいて走り続けてきた自分たちのバンドが、ひとつの山を越えようとしている記念すべき前夜だというのに、我ながら情けない。
妹のことはまだ完全にふっ切れた訳ではなかったが、バンドのメジャーデビューを祝おうと思える程度には心持ち回復出来ていた。
しかし今度は生来の問題のほうが足を引っ張ってくる。
今日ぐらいは自身の人混みアレルギーも孤独主義も忘れて、皆と飲み明かしたかったというのに。
現実、俺は会場近くの市民公園のベンチで、250のビール缶を片手に満月をひとり見上げていた。
夜を写し取ったような紺色のテーラードジャケットもワインレッドのネクタイも見事によれよれで、傍から見れば社会に敗れた男の惨めな晩酌か飲み足りないサラリーマンのようであり、とても祝賀ムード漂う雰囲気には見えない。あらゆる面でのやるせなさに堪らず溜め息をついた。
ふと胸ポケットの携帯が短く振動する。
画面に表示されているのは同じくバンドメンバーであるコニーからのメールだった。
『ノア?ロンリーウルフを決め込むのもいいけど、せめて今晩くらいはバンドメンバーで飲み明かしてみない?そろそろパーティも終わりそうだから、この後私の家に集合でよろしくっ!あ、遅れたら代わりのボーカル探すからっ♪』
コニーは大学の頃からの先輩で、昔から何かと俺にちょっかいをかけたりお節介を焼いてくる。
姉御肌のような性分なのだろう。あるいは単純にからかって面白がっているだけかもしれないが。
意地悪な笑みを湛えながらメールを打つ彼女の様子が目に浮かぶようだった。
他のバンドメンバーは俺の事情を早い段階から見抜いており、プライベートも含めて過度な干渉はしてこない。
しかしコニーだけは(やり方はどうあれ)いつだって俺の事を気にかけてくれていた。
素直に感謝するべきなのだろうが、例えばこうやって呼び出された時はいつも決まって良からぬサプライズが付き物だから油断は禁物だ。
例えばある日、彼女の家の玄関を開けた途端、サソリのおもちゃを顔面に投げつけられたりもした。しかもタチの悪いことに電池で動くかなり精巧な造形のヤツを。
「今度はどんなサプライズだか・・・」
パチンと携帯を閉じてポケットに突っ込むと公園の出口を目指して足早に歩きだす。冗談とは知りつつも『ボーカル交代』というフレーズは、俺に焦燥感を植え付けるに充分な強制力を持っていた。
ロンドンのど真ん中にあってそれなりに広い公園だが、不思議と今日は誰ともすれ違わなかった。
普段は活気に満ちていて、深夜であっても若いカップルや学生グループ、不良たちが集まって騒がしい場所だというのに。
静寂が支配する園内に冷たい夜風がぴゅうと吹いた。
なにか別の種類の音もそれに混ざって耳に届いてくる。風が時たまに奏でる微かな旋律にしては、あまりに生物的な音色に聴こえる。
それが人のすすり泣く声だと気付くまで時間はかからなかった。
距離からしてそう遠くない場所のようだ。
導かれるように泣き声を追って歩いていると、泣き声は出口の脇の茂みから聞こえているようだった。
「どうせ泣き上戸の酔っぱらいだろう」
俺はそう決めつけながらも出口を真っ直ぐ目指そうとはせず、音のする方へと徐々に引き寄せられていった。
催眠術にでもかかったかのような覚束ない足取りで、ゆっくりと探るように茂みのそばにまで近寄る。
近づきつつあるすすり泣く声は、よく聞けば酔っぱらいのそれでもないらしい。。
あまりにも女性的で、そしてまだ幼いもののように聴こえた。
声の出どころ、茂みの奥の暗闇へ歩を進めようとして、そこで我に返る。
普段なら気にも留めないようなことだというのに、何をやっているんだ俺は。
踵を返して、再び出口の方へ足を向ける。するといつの間に近付いてきていたのか一匹の真っ黒な野良犬が現れて、すれ違いざま茂みの奥へと飛び込んでいった。
そういえばこの周辺では最近獰猛な野犬が出没して、道行く人に危害を加えているというニュースを先日やっていたのを思い出した。
犬の消えた茂みへと向き直り、俺は自然と次のように思考し始めていた。
泣いている声は幼い子どものようにも聞こえたということ。あの真っ黒な犬こそが件の野犬かもしれないという可能性。他にこの周囲に頼りになりそうな人影も見当たらないということ。
様々な状況や憶測が胸騒ぎを覚えさせて、瞬間、俺は結局茂みの奥へと駆け出していた。
コニーの家には遅刻確定だが、あれが野犬でそして子供なら、この場でそれを助け出せるのはきっと自分しかいないだろう。
一刻を争う事態であるなら、警察へ連絡する暇も無い。。
茂みの中に入るとそこには一人の幼い少女が、木の幹に寄り掛かり膝を折っていた。
歳の頃は十二か十三くらいだろうか。地にまで及ぶ少しだけ青みがかった長い銀髪は少女の顔をすっぽりと隠していたが、月明かりに艶めくそれはシルクのように洗練されていてとても美しい。
しかし格好は酷いもので、その身を包んでいるのは恐らく漆黒のドレスなのだろうが、どれだけ贔屓目に見てもズタボロの布切れを纏っているようにしか見えない。
少女は依然として顔を伏せながらすすり泣いていたが、このままにしておく訳にはいかない。
「君、こんな時間にこんなとこにいて大丈夫かい?ご両親が心配してるんじゃないか?この辺は野犬が──」
「・・・・・・後ろ」
「へっ?・・・うぉおっ!?」
少女が注意を促した直後、どこからともなく大きな塊が飛び出してきて、振り向く間もなく俺を背後から押し倒してきた。
そいつはそのまま俺を踏み台にすると、眼の前の少女目指して一直線突っ走る。
さっきの犬だ。少女は恐怖によってか完全に身動きが取れなくなっていた。
まずい。瞬時にして起き上がった俺はすぐそばの石ころを拾い上げ、犬目掛けて振りかぶる。石ころは犬の尻に見事当たって、「きゃん」という情けない悲鳴が上がる。
だが振り向いたそいつは──可愛らしい犬とはかけ離れた醜悪な形相でこちらを睨めつけ、今度は俺を標的と定めて突進してきた。
向かってくる生き物は、漆黒で剛毛そうな毛並みと猪のような強靭な体躯、それにナイフのような鋭い牙を光らせていて全てが犬の規格に合致しない異様のモンスターだった。
確かニュースでは野犬の被害にあった人々が「悪魔のように凶暴なヤツだった」と言っていた。こいつがその野犬という事でどうやら間違いなさそうだ。
そしていよいよ数メートル先というところで、野犬が勢いよく飛びかかってきた。
慌てた俺は足元に転がっていた太い木の枝を掴むと、それを振り上げ眼前まで飛び込んできた野犬の頭蓋目掛け叩きつけた。
振りかざした勢いで俺も前のめりに転んでしまったが、これがクリーンヒットしたようで放たれた砲弾のごとき勢いは瞬く間に勢いを失い、ぐったりと倒れ込んだ野犬はそのままピクリとも動かなくなった。
判断が一瞬でも遅れていたら俺の方が倒れ付していたところだろう。
「やった・・・か・・・はぁ・・・」
ゆっくりと息を整え、うつ伏せの姿勢から起き上がる。今は少女が気になった。
脅威はひとまず退けたが、まだ恐怖で動けない筈だ。
しかし少女の姿はすでに何処にも無かった。
この僅かな時間で無事に逃げ出せたのだろうか。
時間が時間なので迷子にならずにまっすぐ家に帰っていてほしいが。
俺がその場を跡にして、歩きだそうとした時。
「・・・・・・ねぇ」
「おわあぁぁっっ!?」
背後から突然呼び止められ、今日一番の素っ頓狂な悲鳴があがる。
「き、君、まだ居たんだな。でもいきなり声かけられるのはビックリするから今度から勘弁だ」
「・・・そう。ごめんなさい」
先程蹲っていたあの少女が、気配を消していつの間にかすぐ傍らに立っていた。
この子がアサシンを目指せばかなりの手練になることだろう。
顔の半分まで伸びた前髪のせいで少女の表情はハッキリと拝むことが出来ない。
少しだけ覗かせる肌の色はまるで人形を思わせるほど白く透き通っており、生気を感じさせない。
特徴的な銀髪と白い肌は身に纏う布切れの漆黒と夜の闇の中にあって、空間を部分的に切り取る不気味な紋様のように揺らめいている。
「この辺の子か?怪我は・・・無さそうだな。ひとりで帰れなそうなら、送ってってやるが?」
「・・・・しょ・・・いの」
「えっ?」
「帰る場所、ないの」
「無いって・・・どういう・・・」
「両親もいない。私の家族はひとりもこの世に存在しない」
「何言ってんだ。大人をからかうもんじゃあ──」
少女がこちらを見上げたほんの拍子。時が静止したような感覚があった。
徐々に意識が繋がると、少女と目が合ったのだと理解し始める。
そして、急に懐かしさが込み上げてきた。
何故なのか理由は知っていた。
少女の表情を見れば見るほど、胸の奥が締めつけられ、愛おしさすら覚えた。
少女が向けたその顔は──「本当のことよ。私は、ひとりなの」見れば見るほど妹にそっくりだった。
ショッピングモールだとか、フェスタだとか、パーティだとか、テーマパークだとか。二十六年間生きてきたけど、そのどれもに慣れることが出来なかった。
唯一の例外として──音楽。特に、ロックなどの激しい曲調がもたらす騒々しさの中であれば、どれだけの人が押し寄せてきてもライブステージ上で迎え撃つことが出来る。
名門。というと些か大袈裟だが、イギリスじゃそれなりに有名な音大でロックサークルに属していたおかげで、その喜びを知ることが出来たから本当にありがたかった。
卒業後、さらにありがたいことに俺は大学の先輩たちに誘われ、彼らとメタル系のバンドを結成する。
バンド名は“デスマーチ”。“死の行進”を意味するその不吉なネーミングは如何にもベタな感じがしたけれど、将来の事や自分の存在意義に迷い、荒みまくっていた当時の自分が属するにはうってつけな看板だったと今なら思う。
ボーカルのけたたましいシャウトやグロウル、人々の心に巣食う怒りや嘆き、誰もが日々抱くありふれた不平不満。それらを重苦しくも叙情的なサウンドに乗せるデスマーチのスタイルは多くのリスナーを湧かせ、共感と耳目を集めた。
やがてインディーズでの下積みわずか一年四ヶ月余りという当時のハードロックシーンでは異例の速さで、デスマーチはメジャーレーベル入りが決定することになる。
けれど、物事にはバランスがある。
いい事が起これば、その分だけ悪いことも起こるのが世の常だ。
そしてよりにもよってその凶事は、俺の身内に起こってしまった。
最愛の妹の自殺という、最悪の形で。
ある日のスタジオ練習からの帰宅後、妹は自分の部屋のドアノブで首を吊って亡くなっていた
あまりに突然で、理不尽で、嘘であって欲しかった。
両親の離婚を期に独立した俺たち二人にとって輝かしい思い出が沢山詰まった兄妹の家が、一瞬にして悪夢の舞台と化した。
妹は死んでいるとは思えないほど綺麗な顔をしていた。
揺すれば今にも起きてきそうな、安らかな寝顔。
血の気無い青い肌と、温度を失い凍てついた肉体さえなければ、「どこで寝てんだ」とか言って起こしてやれるのに。
その身体にはもう妹が居ないだなんて。
──誰かが悲愴な叫び声をあげる。
それは他でもない自らの喉から発せられたものだったが、気が動転するあまり自分のものだと認識するのが一瞬遅れてしまった。
続けざまに逃れえぬ濁流のような絶望が頭の中を流れ、掻き乱していって、俺は我を忘れて泣いた。
悔いるように、あるいは何かを恨むように、全身のエネルギーがその日眠りにつくまでただ慟哭することだけに費やされていった。
迎えた妹の葬儀の日。棺の姿で運ばれていく妹を見て、いよいよ容赦ない現実にようやく我が身の出来事なのだとハッキリ思い知らされた。
掻き乱されて思考する事を封殺されていた頭も、少しばかり落ち着きを取り戻し始めた。
やがて俺は妹を死に追いやった元凶について思考を巡らせるようになっていく。
改めて思い返せば、それらしい“兆候”はあった気がする。
呼び掛けても一瞬応答が無くて心ここに在らずのような日があったり、笑顔がどこかぎこちなかったり、目立たない形でだが違和感がいくつかあったのだ。
「大丈夫だよ!へーきへーき!お兄ちゃんていつからそんな心配症になったの?」
妹はそう言って気丈に振舞ってこそいたが、今にしてみればそれは過度に心配されることを嫌う妹の性格が関係していたのかもしれない。一人で抱えて、誰にも打ち明けず、全てを胸の内に秘めたまま。
見えない悪意によって追い詰められた妹が、下唇を噛む思いで首を吊ったビジョンが見えた。
学校だ。それしか考えられない。
誰が、何人、いつ、どれだけの期間に亘り妹を苦しめたというのか。
どうして妹が死ななくてはならなかったのか。
全てを白日の元に晒して、妹の無念を晴らせるのならこれ以上の手向けは無いのではなかろうか。
いや、この際、形なんてどうだっていい。
主犯の連中さえわかれば大人も子供も関係ない。
全員にもれなく妹と同じ痛みを味あわせてやらなくては。
どす黒い使命感が、逆巻く炎となって胸の内で燃え拡がるのを感じた。やってやる。
そこまで考えて──しかし実行には至れなかった。
妹がそんな不毛な復讐を望むだろうか?
誰にだって分け隔てなく接し、その度に愛も優しさも振りまいてきた妹が、弔い合戦をして欲しいなどと望むだろうか?
俺は自分がするべき事がわからなくなった。
憤怒や激情や衝動の燃え滓がない混ぜとなり、代わりに俺の内側をじりじりと焼いた。
その後を冷やすように心に雨が降ると、余剰な分が実際に涙や叫びとなって、俺の中から解き放たれていった。
何度となく繰り返した悲しみの果てに、俺はひとつの結論にたどり着く。
「そうだ・・・バンド・・・」
メンバーを中心とした関係者達からは当然バンド活動が危ぶまれていたが、他の全てをやめてしまっても音楽だけはやはり最後まで諦めようと思わなかった。
それは幼少期から自分をここまで形成してくれた音楽への恩返しのような感情と冷めやらぬ情熱ゆえだったが、ひとりのファンとして兄の成功を祈ってくれていた妹への花向けになるとも考えていた。
だからステージに復帰するまで支えてくれたかけがえのないバンドメンバーと共に、俺はパフォーマンスを続ける選択を決めた。
そうすることでしか、立ち直りようがなかったんだ。
そして、一年が経った頃。
関係者達のメジャーデビュー祝賀パーティの夜、俺はボーカルというバンドのフロントマン的立場に在りながら、パーティ会場を欠席していた。
結成から今日まで汗振りまいて走り続けてきた自分たちのバンドが、ひとつの山を越えようとしている記念すべき前夜だというのに、我ながら情けない。
妹のことはまだ完全にふっ切れた訳ではなかったが、バンドのメジャーデビューを祝おうと思える程度には心持ち回復出来ていた。
しかし今度は生来の問題のほうが足を引っ張ってくる。
今日ぐらいは自身の人混みアレルギーも孤独主義も忘れて、皆と飲み明かしたかったというのに。
現実、俺は会場近くの市民公園のベンチで、250のビール缶を片手に満月をひとり見上げていた。
夜を写し取ったような紺色のテーラードジャケットもワインレッドのネクタイも見事によれよれで、傍から見れば社会に敗れた男の惨めな晩酌か飲み足りないサラリーマンのようであり、とても祝賀ムード漂う雰囲気には見えない。あらゆる面でのやるせなさに堪らず溜め息をついた。
ふと胸ポケットの携帯が短く振動する。
画面に表示されているのは同じくバンドメンバーであるコニーからのメールだった。
『ノア?ロンリーウルフを決め込むのもいいけど、せめて今晩くらいはバンドメンバーで飲み明かしてみない?そろそろパーティも終わりそうだから、この後私の家に集合でよろしくっ!あ、遅れたら代わりのボーカル探すからっ♪』
コニーは大学の頃からの先輩で、昔から何かと俺にちょっかいをかけたりお節介を焼いてくる。
姉御肌のような性分なのだろう。あるいは単純にからかって面白がっているだけかもしれないが。
意地悪な笑みを湛えながらメールを打つ彼女の様子が目に浮かぶようだった。
他のバンドメンバーは俺の事情を早い段階から見抜いており、プライベートも含めて過度な干渉はしてこない。
しかしコニーだけは(やり方はどうあれ)いつだって俺の事を気にかけてくれていた。
素直に感謝するべきなのだろうが、例えばこうやって呼び出された時はいつも決まって良からぬサプライズが付き物だから油断は禁物だ。
例えばある日、彼女の家の玄関を開けた途端、サソリのおもちゃを顔面に投げつけられたりもした。しかもタチの悪いことに電池で動くかなり精巧な造形のヤツを。
「今度はどんなサプライズだか・・・」
パチンと携帯を閉じてポケットに突っ込むと公園の出口を目指して足早に歩きだす。冗談とは知りつつも『ボーカル交代』というフレーズは、俺に焦燥感を植え付けるに充分な強制力を持っていた。
ロンドンのど真ん中にあってそれなりに広い公園だが、不思議と今日は誰ともすれ違わなかった。
普段は活気に満ちていて、深夜であっても若いカップルや学生グループ、不良たちが集まって騒がしい場所だというのに。
静寂が支配する園内に冷たい夜風がぴゅうと吹いた。
なにか別の種類の音もそれに混ざって耳に届いてくる。風が時たまに奏でる微かな旋律にしては、あまりに生物的な音色に聴こえる。
それが人のすすり泣く声だと気付くまで時間はかからなかった。
距離からしてそう遠くない場所のようだ。
導かれるように泣き声を追って歩いていると、泣き声は出口の脇の茂みから聞こえているようだった。
「どうせ泣き上戸の酔っぱらいだろう」
俺はそう決めつけながらも出口を真っ直ぐ目指そうとはせず、音のする方へと徐々に引き寄せられていった。
催眠術にでもかかったかのような覚束ない足取りで、ゆっくりと探るように茂みのそばにまで近寄る。
近づきつつあるすすり泣く声は、よく聞けば酔っぱらいのそれでもないらしい。。
あまりにも女性的で、そしてまだ幼いもののように聴こえた。
声の出どころ、茂みの奥の暗闇へ歩を進めようとして、そこで我に返る。
普段なら気にも留めないようなことだというのに、何をやっているんだ俺は。
踵を返して、再び出口の方へ足を向ける。するといつの間に近付いてきていたのか一匹の真っ黒な野良犬が現れて、すれ違いざま茂みの奥へと飛び込んでいった。
そういえばこの周辺では最近獰猛な野犬が出没して、道行く人に危害を加えているというニュースを先日やっていたのを思い出した。
犬の消えた茂みへと向き直り、俺は自然と次のように思考し始めていた。
泣いている声は幼い子どものようにも聞こえたということ。あの真っ黒な犬こそが件の野犬かもしれないという可能性。他にこの周囲に頼りになりそうな人影も見当たらないということ。
様々な状況や憶測が胸騒ぎを覚えさせて、瞬間、俺は結局茂みの奥へと駆け出していた。
コニーの家には遅刻確定だが、あれが野犬でそして子供なら、この場でそれを助け出せるのはきっと自分しかいないだろう。
一刻を争う事態であるなら、警察へ連絡する暇も無い。。
茂みの中に入るとそこには一人の幼い少女が、木の幹に寄り掛かり膝を折っていた。
歳の頃は十二か十三くらいだろうか。地にまで及ぶ少しだけ青みがかった長い銀髪は少女の顔をすっぽりと隠していたが、月明かりに艶めくそれはシルクのように洗練されていてとても美しい。
しかし格好は酷いもので、その身を包んでいるのは恐らく漆黒のドレスなのだろうが、どれだけ贔屓目に見てもズタボロの布切れを纏っているようにしか見えない。
少女は依然として顔を伏せながらすすり泣いていたが、このままにしておく訳にはいかない。
「君、こんな時間にこんなとこにいて大丈夫かい?ご両親が心配してるんじゃないか?この辺は野犬が──」
「・・・・・・後ろ」
「へっ?・・・うぉおっ!?」
少女が注意を促した直後、どこからともなく大きな塊が飛び出してきて、振り向く間もなく俺を背後から押し倒してきた。
そいつはそのまま俺を踏み台にすると、眼の前の少女目指して一直線突っ走る。
さっきの犬だ。少女は恐怖によってか完全に身動きが取れなくなっていた。
まずい。瞬時にして起き上がった俺はすぐそばの石ころを拾い上げ、犬目掛けて振りかぶる。石ころは犬の尻に見事当たって、「きゃん」という情けない悲鳴が上がる。
だが振り向いたそいつは──可愛らしい犬とはかけ離れた醜悪な形相でこちらを睨めつけ、今度は俺を標的と定めて突進してきた。
向かってくる生き物は、漆黒で剛毛そうな毛並みと猪のような強靭な体躯、それにナイフのような鋭い牙を光らせていて全てが犬の規格に合致しない異様のモンスターだった。
確かニュースでは野犬の被害にあった人々が「悪魔のように凶暴なヤツだった」と言っていた。こいつがその野犬という事でどうやら間違いなさそうだ。
そしていよいよ数メートル先というところで、野犬が勢いよく飛びかかってきた。
慌てた俺は足元に転がっていた太い木の枝を掴むと、それを振り上げ眼前まで飛び込んできた野犬の頭蓋目掛け叩きつけた。
振りかざした勢いで俺も前のめりに転んでしまったが、これがクリーンヒットしたようで放たれた砲弾のごとき勢いは瞬く間に勢いを失い、ぐったりと倒れ込んだ野犬はそのままピクリとも動かなくなった。
判断が一瞬でも遅れていたら俺の方が倒れ付していたところだろう。
「やった・・・か・・・はぁ・・・」
ゆっくりと息を整え、うつ伏せの姿勢から起き上がる。今は少女が気になった。
脅威はひとまず退けたが、まだ恐怖で動けない筈だ。
しかし少女の姿はすでに何処にも無かった。
この僅かな時間で無事に逃げ出せたのだろうか。
時間が時間なので迷子にならずにまっすぐ家に帰っていてほしいが。
俺がその場を跡にして、歩きだそうとした時。
「・・・・・・ねぇ」
「おわあぁぁっっ!?」
背後から突然呼び止められ、今日一番の素っ頓狂な悲鳴があがる。
「き、君、まだ居たんだな。でもいきなり声かけられるのはビックリするから今度から勘弁だ」
「・・・そう。ごめんなさい」
先程蹲っていたあの少女が、気配を消していつの間にかすぐ傍らに立っていた。
この子がアサシンを目指せばかなりの手練になることだろう。
顔の半分まで伸びた前髪のせいで少女の表情はハッキリと拝むことが出来ない。
少しだけ覗かせる肌の色はまるで人形を思わせるほど白く透き通っており、生気を感じさせない。
特徴的な銀髪と白い肌は身に纏う布切れの漆黒と夜の闇の中にあって、空間を部分的に切り取る不気味な紋様のように揺らめいている。
「この辺の子か?怪我は・・・無さそうだな。ひとりで帰れなそうなら、送ってってやるが?」
「・・・・しょ・・・いの」
「えっ?」
「帰る場所、ないの」
「無いって・・・どういう・・・」
「両親もいない。私の家族はひとりもこの世に存在しない」
「何言ってんだ。大人をからかうもんじゃあ──」
少女がこちらを見上げたほんの拍子。時が静止したような感覚があった。
徐々に意識が繋がると、少女と目が合ったのだと理解し始める。
そして、急に懐かしさが込み上げてきた。
何故なのか理由は知っていた。
少女の表情を見れば見るほど、胸の奥が締めつけられ、愛おしさすら覚えた。
少女が向けたその顔は──「本当のことよ。私は、ひとりなの」見れば見るほど妹にそっくりだった。
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