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1章 入隊編
4話 適正試験
しおりを挟む朝。
目覚ましの代わりに、天井のスピーカーから流れる柔らかな電子音が部屋の静寂を破った。白を基調とした宿泊施設の個室――と言っても、簡素なベッドと洗面台、それからロッカーと椅子があるだけの空間。
だが、冬夜は特に驚くこともなく、既に目を覚ましていた。
「規則正しい生活リズムのおかげ」と言いたいところだが、本音を言うと――眠れなかった。
期待と高揚感に駆られたてか、寝ようにも寝付けなかった。寝ぼけていてペンを勝手に動かしてしまったのか、机のノートは見るも無惨な姿になっていた。
その異様な光景を見て、冬夜は改めてこの非日常を思い返す。
紅影という正体不明の組織、突如見せられた超常的な現象、そしてこの“入隊試験”。まるで夢の中のような非現実が、昨夜から今日にかけて現実になっている。
「……試験、か。」
重たくなったまぶたを押し上げ、冬夜は身体を起こした。顔を洗い、部屋に予め用意されていた軽食を取る。
「ん?」
朝食を取ろうとしていた冬夜は視線を机へと写す。そこには昨日には無かったはずの用紙が1枚机の上に置かれていたのだ。
「んー、どれどれ。」
冬夜はその用紙を手に取り内容を確認する。試験についての案内らしい。内容はこうだ。
「今から23時間30分20秒後、試験を開始します。23時間30分20秒後、扉を開けて部屋を出なさい。なお、室内に時計はございません。10分間の前後までは合格となります。以上。」
「……は?」
冬夜は目を細めて、もう一度紙面を読み返した。何度読んでも、意味は同じだ。
時間感覚だけで、今見た瞬間からの23時間30分20秒後の指定のタイミングで扉を開けろ、ということか。
「……鬼畜だろ。」
口をついて出たのは、呆れと困惑が入り混じった言葉だった。だが、冬夜はそういえばと何か思い出したかのようにすぐさま鞄を漁り始めた。
「無い……あいつら私物没収しやがった……。」
スマホで時間を確認しようとした冬夜。しかし、言うまでもなく対策済みであった。
冬夜は改めて部屋の中を見回す。確かに、時計もスマホもなければ、外の明かりで時間を測るには頼りなさすぎる。
「どうやって数えりゃいいんだ……。」
しかし、文面にはっきりと「この用紙を手に取った時点で試験は開始しています」とある。
つまり、もう試験は始まってしまっているのだ。リズムがずれても、考えすぎても失敗する可能性がある。
冬夜は、紙をそっとベッドに置き、目を閉じた。冬夜はもう一度、紙に目を落とした。
――今から23時間30分20秒後、扉を開けろ。時計はない。
「無茶すぎるって。」
呟きながら、彼はゆっくりと部屋の中を見回した。窓もなければ電子機器の類いもない。壁掛け時計も、スマホの類も、何1つ。
あるのは、ベッド、机、椅子、昨日支給されたアタッシュケース、そして――食べようとしたサンドウィッチと、小さなプラスチックの水差しと、グラスが数個。
「何か……ないか……?」
冬夜は脳に全てのリソースを割いて思考する。その際も時間を数える事だけは辞めない。しっかり、ゆっくり、正確な時間を数えながら思考する。
視界の端に、机の上の水差しが映った。半分だけ水が注がれ、淡い光がこちらへ向かって反射している。
(ん?これ、どこかで見たことあるような――)
ぼんやりと滲む記憶。まだ自分が幼い頃、はるか昔の話だ。
父――ハルキは、長身で背筋を伸ばし、凛とした人だった。厳しいけれど、決して声を荒らげることはなく、言葉を選ぶようにゆっくり話す優しい父だった。
その横顔は、鋭い瞳の奥にかすかな疲れを宿しながらも、どこか温かさを残していた。
『いいか、冬夜。』
父は手にしたコップを机に置き、水面に小さな波紋を作りながら言った。
『世の中には、役に立たないって決めつけられるものが山ほどある。だがな――』
少しだけ笑って、冬夜の頭をくしゃりと撫でる。
『全ての事象において、最後の最後まで自分で価値を決めつけるなよ。無駄だと切り捨てた瞬間に、それは本当の価値を見逃しちまうからな。』
幼い冬夜は意味を理解できず、ただ頷くだけだった。正直なところ、今になっても父が何故そんな言葉を急に言い出したのかは分からない。
それに、自分が脳死で父の話を片っ端から全て覚えているわけでもない。
それでも……この言葉は確かに記憶に刻まれていた。いや、ちょうどその場面と今が偶然にも重なってしまったから、思い出しただけなのかもしれない。
だが、そんな言葉が今自分の道筋を照らしているのもまた事実。
冬夜はふと机の上にあった水差しを手に取ってみた。冷たい水が、半分ほど注がれているだけ……。
「水……。」
手の中でグラスを傾けると、水は静かに、しかし確実に流れる。その動きを見て、冬夜の脳裏に、ある考えが浮かんだ。
「これ……測れるんじゃないか……?」
彼は水差しの中身を満たす。そして、本を挟んで傾けた机を用意した。その上に先ほどの水差しをそっと置き、その水が常に出続けるように、風呂場のシャワーを伸ばして水を汲み続ける。
時計が無く、日差しも見えない無機質な部屋。だが、自分の意思で「時間」を掴む術は、確かにここにあった。
いよいよ、冬夜は心の中でカウントを始める。
(1、2、3――)
――コップの中の水が満水になるまでに要した時間は、9分53秒だった。満水になったコップの水を流す行為等も含めると大体10分。
もちろん多少の誤差はある。それでも、何も無いよりは幾分マシだ。
試験内容を見てからこれに映るまでの時間だけがどうしても曖昧だが、これは大体3分と仮定することにした。
水が満水になる度に、流し切って元の水差しの下にコップをセットし、また流す。その繰り返し。
――気がつけばカウントは18回目に差し掛かっていた。
(……これで約3時間か。大丈夫だ、集中力はまだ切れてない。)
冬夜の額にはじんわりと汗が浮かぶ。けれど目は鋭く、意識は一点を見つめ続けていた。
水を注ぎ、流し、また注ぐ。無機質な時間に、自らの心拍をぶつけて計っているかのよう。
疲労はもちろん蓄積していく。水を流さない10分間は猶予があるにせよ、勿論気は抜けない。
――カウント90回目。冬夜の予測が正しければ、ここで15時間経過となる。
ここで牙を向いてきたのは睡魔だった。
瞼が今まで味わったことのないような重さをしている。一瞬でも気を抜けば、そのまま眠ってしまいそうだ。
頬にペンを刺したり、耳をつねったり。できる対処法全てを実践し、コップに全意識を集中させる。
数えて、注いで、また数えて――
やがて、冬夜の睡魔が限界を突破してきたころ。
(最後の一回……だよな。)
冬夜は目を閉じ、数を数えた。
一回、二回、三回。呼吸と鼓動を合わせ、ただ、心で「時」を感じ続けた。
ここにきて手が震えてくる。
もし計算が狂っていたら? 数え間違えていたら?
そんな嫌な予感が脳内を駆け巡る。
「間違ってたら全部水の泡……か。」
震える手を無理やり押し込み、深く呼吸をした。今更迷っても仕方がない。
そして――
「……今だ。」
立ち上がり、再度深呼吸を1つ。そして、躊躇わずに部屋の扉へと手をかける。
ガチャ――
軽やかな音とともに扉が開いた。
目を細めながら、冬夜はゆっくりと足を一歩踏み出す。 長い孤独と静寂の中で数えた時間。その全てが報われる瞬間だった。
静かな拍手の音がその場に響いた。
「……正確な判断力と集中力。面白い。」
そこにいたのは、厳しい眼光を持った白髪の老人。
試験官――紅影の隊長、暁だった。
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