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女神の歌声

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神暦八年 横浜 
 海面上昇による水没で一時は消えていた横浜のベイエリア。
 横須賀と千葉の金谷間をほぼ直線で結ぶ形で海水を堰き止めるダムが四年前に出来た。全長約九・六キロのダムを平行に三列並べ水を汲み出し続ける事一年弱、水没した東京、千葉、横浜、川崎の町並みが五年振りに姿を現した。
 それから三年、今では人口も戻りつつあるが、さすがに昔程の人口は居ない。ダムがもし決壊したらと思えば気が気じゃないのが本音と言った所なのだ。
 だからと言う訳では無いのだろうが、この街には少々問題を抱えた人間が多く集まっていた。
 
 元町と呼ばれていた繁華街を通り抜け右手に坂を上がると外人墓地が今でもある。高台に在った為にこの辺りは水害を免れた一角であの頃の風景を色濃く残していた。坂を上りきると左手に港の見える丘公園の入り口が見えてくる。少年はこの公園が好きだった。
 少年の名は井上慧、少し幼く見える顔立ちだが年齢は十九歳パッと見細身に見えるがTシャツから出た腕には締まった筋肉が付き、胸板もそれなりに厚い均整の取れた体付きだった。
「けいちゃーん、まって~~」
 そう言いながら後を追って坂を上がってきた女性は井上優生、年齢二十一歳慧の姉なのだが身長一五〇㎝で弟と同じく幼い顔立ちなもんだから傍から見れば優生の方が妹に良く間違われる。
「優生はのんびりくればいいじゃないか」
「ゆうきじゃないでしょ!お姉ちゃんと呼びなさい!」
「はいはい、今度ね」
 軽くあしらうのもいつもの事らしく優生の相手はしないで慧は奥のベンチまで歩いて腰かけた。
「けいちゃんは本当にここからの景色が好きだよね」
「懐かしい感じがするんだここ。何故だかわからないけどさ」
「私は少し怖いな。あの遠くに見えるダムの向こうの海は水面が全然高いんでしょ?もし地震でも来たら決壊するかもだし~」
 そう言いながら手摺りを掴み遠い海の先を見ていた。
「必死に自然に逆らおうとしている人間の無力さを感じるよ」
 そう最後に呟いた優生の表情はいつもと違う厳しい眼つきだったが、後姿しか見えない慧は気付くはずもなかった。
 二人は夕日が綺麗に差し込む廃墟と化した大黒パーキングの方を暫く眺めた後、公園を後にして元町方面に坂を下って行った。

 夜ともなれば街に活気が幾らか戻る。
 食料事情も以前に比べれば改善されてきた昨今だが、それでも酒やたばこ等の嗜好品は今でも高価で希少品なのだ。それなのにここは戦後の闇市の様などこか怪しげな店が立ち並び、一昔前と同じ様に酔っ払いが千鳥足で歩きくだらない喧嘩や路上で寝込むおじさん、呼び込みにピンクの看板を背負ったサンドイッチマン。今この時だけは何も変わらない、いや何も変わっていないあの頃が確かにここにあった。 
 噂によると何やら政財界に強力なコネを持つ人物の働きかけがあるから、今でもこの街には酒などの希少品が流れて来るのだとか無いとか。とにもかくにも今の神国において、夜の繁華街としてこんなにも栄えているのは此処だけである。
 
 人が集まれば人以外も集まるのはいつの世も変わらぬ事、物であり情報であり人ならざる者もまたその内の一つなのだから。

 慧と優生は中華街の東門と山下公園の間にある雑居ビルに入って行った。三階の元クラブの店舗が溜り場となっていた。
「慧さん今晩は」
「慧さんちーっす」
「優生さんも来てくれたんですか?有難う御座います」
 後輩や街で知り合い意気投合した者、慧の噂を聞きつけチーム入りを志願する者様々だがここは慧にとって居心地の良い場所となっていた。だが優生にとっては少し違っていた。慧を慕って集まる者たちがこんなにも居るなんて凄い事だと思う反面、慧にとって大切な者が増えるという事は慧が危険に晒される回数が増える事と同じに思えた。
「今日は何の集まりなの?」
 優生がその中で一番慧と仲の良い男に聞いた。
「あれ?聞いてないんですか?えっと~~ね?」
 優生の問いに言葉を詰まらせた男は桐生和人、慧と優生とは中学生からの付き合いである。
「カズ君!誤魔化さないの!」
「はい、ねえさん」
 だらけた格好で椅子に腰かけていたが優生の少し強い口調で、椅子から飛び上がり急に姿勢よく直立してしまった和人。周りの者達まで少し緊張している様だった。
 実は優生は怒ると怖い。こと慧絡みで機嫌を損ねたらこのチームには居られなくなる、事実過去にチームを追放された者が数名居た。それも当時慧と最も仲も良く信頼を寄せていた仲間の一人だったのだが、慧が怪我をした事件がきっかけでチームを追い出される事となった。激怒する優生に誰一人意見する事も出来ないほどの威圧感と恐怖を心底感じたと言う。和人はもちろんこの時その場に居たから、優生の表現し難い怖さに思わず反応してしまったのだろう。
 見るに見かねて慧が答えた。
「最近この近辺で不審者の目撃情報がやたら多いんだ。中には絡んで大けがをした奴も居るらしい」
「だから?」
「ほっとけないだろ!俺らで捕まえるかこの街から追い出すんだ」
 
 なんで赤の他人の為に慧が危険な目に合わなければいけないんだ!と優生は言いかけたがやめた、自分の事より何故か他人の事となると私の言う事は聞いてくれない、馬鹿なのかお人好しなのか昔からそうだ。

 諦めにも似たため息を一つ付いて優生はそれ以上何も言わずに店の奥の椅子に腰かけた。勿論納得なんてしていない、その証拠に顔をプーっと膨らませて子供の様に拗ねていた。先ほどの冷たい怒り方とは打って変わり、どう見ても子供にしか見えない仕草だった。
「もう!知らないんだからね!慧ちゃんのばかばか」
「大丈夫だよ優生。気を付けるから」
「お姉ちゃんでしょ!」
 いつものやり取りに慧はクスッと笑い
「はいはい、また今度ね」
「もぉ~~」
 緊張に包まれていた部屋の空気も和み、集まった仲間達が優生の機嫌を治そうとなだめ始める。
 そんな時だった。ラジオから流れる歌に和人が反応した。
「みんな静かに!女神の歌だ!!」
 ラジオから流れるその歌は半年位前からたまに聞く事が出来たが、その正体は全く不明の歌手だった。芸能事務所もわからない聞く所に寄れば、電波ジャックに近い方法でラジオの波に乗せこうして歌を流しているらしいのだ。
 何よりも和人の言う通り女神の歌声のごとく、聞き入ってしまう程に心に染みる声、歌詞、リズム、ラジオで流れれば喧嘩の最中でも人々は皆手を止めてしまうのだと言う。
「綺麗な声だよな~絶対美人だぜ!」
「馬鹿じゃないの」
 優生に一蹴され皆に笑われる和人。でもいつの間にか優生の機嫌も治っていた、さすが女神の歌声と言えよう。
「そろそろ近くでも見回りに出るぞ」
 慧がそう言うと
「おう!」
 息もぴったりに合い皆立ち上がり外に出て行った。
「カズ君。頼んだからね」
「はい、姉さん」

 この日から毎晩の巡回が慧たちの日課となるのだが、優生の心配はいずれ的中する事となるのを誰も想像してなどいなかった。
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