夢幻の花

喧騒の花婿

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FILE2『嘘で塗られた自分の体』

11・優しい人にとても弱いの

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 塾から帰ってからと、土日挟んでずっと清正先生の音の無い世界を読んでいた。難しい言葉が出てくると、隣に辞書を置いてすぐに調べながら読んだ。そのためか、未だに三分の二くらいしか読めてはいなかった。


 小説に出てくる主人公は、とても変わっていた。彼は少し気の弱い三十歳の私立探偵。けれど、二年前からなんらかの理由で『真実を語ってはいけない』という制約をさせられていた。誰に約束させられたのかは明かされてはいないけれど、事件が起き、犯人を指摘しようにも『真実を語ってはいけない』のだ。つまり、犯人がわかったら、頼りない相方にどうにかして気付かせて、その相方に真相を語ってもらうのを待つしかないのだった。


 その相方というのが、なんと彼の子供でまだ小学生の男の子だった。特別頭の良い子ではないし、特殊な能力も持っていないので、私立探偵はかなり苦戦しながら子供を真実に導くよう画策する。


 起きる事件は本格で、飛び抜けた設定は『嘘をつく』くらいだったけれど、私は事件よりも探偵のプライベートな方へ興味を示してしまい、肝心のストーリーは削がれ気味になっていた。


 何故嘘をつかなければならないのか。登場人物でそのことを知っているのは今のところ誰もいない。


 小説の中には、彼の心情が淡々と描かれている。その心情は、口に出す言葉とは裏腹でとても切ない。奥さんと別れた理由が「世界一大嫌いだ」から。彼はそうやって嘘をつき通している。


 そういえばついでに『自尊心』を調べたところ、プライドと出てきた。プライドが高いという意味だったのだ。作家さんだからか、難しい言葉を使うのだな、と変に納得してしまった。


 休み時間も惜しんで辞書を片手に本を読んだ。清正先生の思い描く探偵息子が、とても魅力的だったからだ。小学五年生の彼は、正義感が強く、堂々としていて、優しい心の持ち主だった。私は彼に夢中になったから、読み進めることが出来た。多分、自分と同年代だったからという理由もあると思うけれど。


「今日は四時間目の国語を中止して、体育に変更だって」


 ひょいと教室に顔を覗かせた男子が、クラス中に響き渡る声で言い放った。大半が「やったー」と歓声を上げていたけれど、私の顔は青ざめていた。


 もうすぐ運動会なので、詰め込みとばかりに体育を増やされているような気がする。昨日はお腹が痛くて休んだけれど、生憎今日は私のお腹は調子が良い。


「今日はどうやってさぼればいいの……」


 誰にも聞こえないように呟いた言葉は、みんなの喧騒に巻き込まれて宙に消えた。まだ体調が優れないと言うのが良いだろうか。私はもう清正先生の小説どころではなくなっていた。


「ねえ、山岡さんって今日も体育休むかな」


「身体弱いふりして、男子の同情を誘うの上手だからね。きっと休むでしょ」


 後ろからひそひそと話す声が聞こえた。結城さんと西園寺さんだ。私は胸の奥がずしりと重くなるのを感じた。こうやって陰口を言われることは何度もあり、それが私自身に聞こえてくることもあるけれど、こういうのはいつまでも慣れることがない。


 ぐるぐると黒い雲のような感情が私の体内をゆっくりと回っているような感覚に陥る。私は本を読むふりをしながらうつむいた。


「ちょっと、こんなところに座らないで頂戴。ハム吉さんが怯えているでしょう」


「何、高田さん。私たちがどこで話そうが、関係ないでしょ」


「関係大ありよ! ハム吉さんが委縮しちゃってるじゃないの。話すなら静かに話して頂戴」


 私の陰口を言っていた子のグループに、ずんずんと大股で歩いて行った高田さんが、大きな声で叫んだ。


「家で作った煎餅を、ハム吉さんにあげてただけじゃない!」


「ふざけないでよ! きちんとした物をあげないと、ハム吉さんが死んじゃうかもしれないじゃないの!」


「ちょっと、高田さん。あたしの家の煎餅がきちんとした物じゃないっていうの!? ひどい!」


 かなり大声で話しているので、クラス中から注目を浴びてしまっている。私は怖くて下を向いていただけだった。


 クラスのペット、ハムスターのハム吉さんの檻の側で話していて、怯えてしまっていたようだった。私が耳を澄ませていると、すでに私の悪口は高田さんへの悪口へとシフトしていた。もしかしたら、私を助けてくれたのかもしれないと、少し自意識過剰かもしれないけれど思った。少し高田さんと話すようになって、とても優しい人だとわかったからだ。


 自覚している限りでは、私は優しい人にとても弱い。
 私の悪口を言う子や、いじわるをする人、ママに怒られても、心に重りがずしんとのしかかるだけで、心動かされることはほぼない。
 けれど、少しでも優しくされたり、綺麗な気持ちを突きつけられると、私は弓で心臓を射抜かれたかのように心震え、何故か泣きそうになる。


 そして、私も後者のような人間になりたいと願っているのに、それを人に分け与えることが出来ずにいる、とても心に余裕のない人間なのだ。


「高田さん、ありがとう」


 私の机の側を通りかかった高田さんに聞こえるように、小さな声で呟いた。
 高田さんは一瞬足を止めて私を見て「金曜日のお礼」と少し笑いながら答えてくれた。高田さんは苦手だったけれど、それはあまり話したことがなかったからだと気付いた。話してみると、違う印象を受ける。私は高田さんのことが、苦手ではなくなっているのに気付いた。


 結局私は、また嘘をついて体育を休んだ。保健室ではなく、見学者席でみんなの体育を見ることになったけれど、見学しているのは私だけではなく、他に二人いた。みんな女子で、二人とも生理だからという理由だった。


 そして私も便乗して生理痛がひどいからという、嘘の上塗りを川野先生に伝えた。
 私にまだ初潮はきていない。小柄だったし、身体も成長していなかったので、もしかしたら中学生くらいになったらかもしれないな、と漠然と思っていた。


 嘘をつく、という単語を頭に思い描いているうちに、清正先生の本を思い出した。
 積み重ねるうちに崩れ、全てばれてしまうのではないか。こんな罪悪感で生きていて良いのだろうか。私は人間として最低なのではないか。


 彼に会って、そのことを聞いてみたい。
 探偵は最後にどうなってしまうのだろう。
 嘘で塗られた自分の体が、私は大嫌いだ。今なら探偵の痛みが良くわかる。


FILE2.終わり
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