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イヴァン・グコフの場合
20. 揺れ動く馬車の中で
しおりを挟むどこか古びた外装と裏腹に、馬車の中は随分と立派な造りをしていた。
思わずロゼの口から感嘆の声が上がりそうになるほど広く、そして綺麗なのだ。
目に眩しい赤の布地に、クッションが敷き詰められた腰かけにはスプリングが効いているらしく、座り心地も大変良さそうである。
汚れたブーツで踏みしめるのを躊躇うような立派な絨毯が敷かれ、暖房まで効いている。
どう見てもあの古びた馬車の外観と内装が合わない。
真ん中にテーブルらしきものまであり、その両端に腰かけるためのクッションが用意されている。
更にテーブルの上には数本のボトルが置かれているのだ。
「……」
イヴァンに促されたとはいえ、この貴族然とした馬車の内装にロゼは気後れした。
権力というものに弱いというのもあるが、それよりもギャップがありすぎる豪勢な中の様子に薄気味悪さを覚えたのだ。
ロゼの嫌いな呪術的な何かがかけられているのかもしれない。
そんなロゼに構わず、イヴァンはさっさとクッションを除けて腰かけ、行儀悪くテーブルに足を載せる。
馬車の中はギリギリでも体格の良いイヴァンの脚が伸ばせる程度には広かった。
ロゼがイヴァンの対面に腰かけようとすると、実にタイミング良く馬車が動き出す。
御者は初めから向かう場所を知っているのだろう。
だからといって合図もなく動くとは思わなかった。
カーテンで閉められた窓の外を確かめる前に車輪が何かに引っかかったのか、一瞬だけ馬車が大きく揺れる。
ロゼの身体が、その振動でよろけ、僅かに体勢が崩れた。
一瞬よろけたロゼの視界。
そして、気づけば薄っすらと透けたシャツが目の前にあった。
掴まれた手首と、自身の体勢に気づき、ロゼは息を飲み硬直する。
どうやらよろけたロゼはイヴァンに手首を掴まれ引き寄せられたらしい。
その膝の上に。
悲鳴を上げる間もなく、ロゼは硬い軍服ではなくシャツのみを羽織っただけのイヴァンの厚い胸板を頬に感じる。
プライベートとはいえ、剣帯もしないでイヴァンは薄手のシャツとただのズボンを履いているのみだ。
ロゼの視界には白いシャツとその緩い襟元から見える褐色の肌が映った。
鼻に香る、嗅ぎ慣れた雄の匂いに眉を顰める。
この体勢も、状況も、全てが不愉快だ。
何よりも不愉快なのはイヴァンの存在そのものだが。
「……失礼しました。今すぐどきますので、どうか……」
体勢を立て直し、今すぐにでもその膝の上、イヴァンの体温が感じる距離から離れたかった。
「……どうか、お放しくださいませ」
だが、褐色の手はロゼの手首を離す素振りをまったく見せない。
むしろロゼの口から淡々と、そしてどこか苦々しく拒絶の言葉が出るのが楽しくて仕方ないとばかりにその拘束を強める。
「…………」
口から飛び出そうになった溜息をなんとか飲みこむ。
ある意味では想定内のことであり、そもそもあのイヴァンが素直にロゼのお願いを聞いたことなど無いのだ。
手首が微かに軋む感覚に、ロゼは仕方なく間近にあるイヴァンを見上げた。
掴まれていない方の手で、その厚い胸板を押す。
それが現状ロゼにできる最低限の抵抗の証だった。
そんな様子をイヴァンは意外にも笑うこともにやけることもなくじっと見つめる。
近距離で見つめ合う形となった二人だが、その体勢に反して甘さは微塵も感じられない。
だが、殺伐とした雰囲気に反してイヴァンの鼻腔にはひたすら甘ったるい匂いが漂っていた。
イヴァンは嗅覚が鋭い。
ただの匂いだけではなく、その野性味あふれる鼻は実に多くの匂いをかぎ分ける。
騎士であり、そして王宮に仕える魔導士でもある同僚がイヴァンのその鼻の良さと天性の勘の良さに引いてしまうほどだ。
「……まだ、甘いな」
イヴァンの鼻が微かに動き、そして睨みつけて来るロゼの髪に寄せられる。
戸惑い、身を捩ろうとするロゼだが、先ほどまでの軽薄さが鳴りを潜めたイヴァンの雰囲気に本能が逆らうことを拒絶した。
イヴァンの鼻が濡れたロゼの髪に埋もれる。
濡れているせいか、いつも以上に色濃く、波だったその髪の感触をイヴァンは楽しんだ。
そして、まるで人形のように硬直するロゼの様子に嗤った。
その産毛が逆立つ様子や強くなる汗の匂い。
そして心臓の鼓動。
ロゼの様子など全てイヴァンに筒抜けである。
知っていながらもイヴァンの苛めは終わらない。
イヴァンの鼻はロゼの髪から耳の裏へと辿り、撫でた。
そして最後に行き付いたのはその白い項である。
深く、長く、イヴァンは匂いを吸い込む。
鼻に広がるのは酒場の安物の果実水の匂いだった。
そして。
「……くせぇな」
強烈な甘ったるい匂いの中に交る、ロゼの匂い。
それはここ最近の情交で度々吸い込んだロゼの体臭だ。
花と、蜂蜜と、ミルクと、そして汗と血。
その他にも人が好み、または誘惑される匂いが複雑に繊細に絡み合ったような、見事なまでの香り。
それをイヴァンは悪臭だと内心で蔑んでいる。
そしてそこに交わるのは紛れもない若い女の汗と血と体臭だ。
複雑怪奇な悪臭にロゼ特有の体臭が混じるとそれは強烈な芳香へと変貌する。
どんな男をも誘惑する、まさにそれは媚香である。
イヴァンはその甘ったるい媚香の正体を知っていた。
「男の精液が欲しくて欲しくて堪らない、淫売の匂いだ」
正しくは「悪臭」と称した、その呪いの正体を。
*
ロゼの額に汗が一滴流れた。
イヴァンの言葉は激しくロゼの心を揺さぶった。
ただただ恐ろしく、どうすれば良いのか分からなくなる。
まるで今にも項を食い破りそうなイヴァンの雰囲気もまた怖ろしかったが、ロゼが最も恐れているのはそれではない。
『どうやってここに忍び込んだんだ、薄汚い雌犬が』
ロゼの脳裏にはあのときの衝撃と恐怖、絶望が蘇っていた。
目の前が真っ白になるような、全身の血が凍りつくような、絶望。
それだけあのときのイヴァンの言葉と視線は強烈だった。
思い出したくもなかった。
全てはあのときのイヴァンの言葉から始まったのだ。
今でもロゼはあのときのことを夢に見る。
そして悪夢から覚める度に、何故という疑問が頭の中を埋め尽くす。
何故、イヴァンにバレたのだ、と。
誰も知らないはずのロゼの、過去が。
* *
肩を震わせ始めるロゼの顔色の悪さにイヴァンは嗤う。
嫌な笑みだ。
これならば先ほどの揶揄いを含んだにやけ面の方がマシである。
「なーんてな」
そんなロゼの心境が分かるのか、イヴァンはまたお道化たように振る舞う。
だが、馬車内に漂う不穏な空気は変わらない。
むしろよりロゼの警戒心を高め、緊張させる結果となった。
「怖い顔をすんなよ、ロゼちゃん」
イヴァンの視線に妖しい色が漂う。
目を逸らすことができないロゼを上から見下ろす。
軽薄で、冷徹で、そして劣情に満ちた表情。
とにかく少しでも動いてイヴァンを刺激してはいけないとロゼの本能が警鐘を鳴らす。
今までまともに作動して来なかった危険察知能力が果たしてどこまで有効なのか。
既に、取り返しのつかないことになっているという現実に気づかないふりをした。
「二人でする、初めての外泊だ」
いつの間にか手首の拘束は解かれ、代わりに腰を抱きしめられる。
今だロゼはイヴァンの膝の上にいる。
組まれた脚のせいか、その座りは不安定で、もぞもぞと尻を動かしたくなるのをロゼは我慢した。
「祝杯をあげようぜ」
至近距離で見るイヴァンの笑み。
それはロゼが知る中では最高に爽やかで陽気なものだ。
そして、吐き気がするほどに邪まである。
「俺達の、愉しい逢瀬に」
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