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後悔
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しおりを挟む眼帯越しとはいえ、かつてあれほどまでにディエゴの傷跡を拒絶していたメリッサの目に嫌悪の色がないことに、ディエゴは動揺した。
何を今更という苛立ちもあった。
化け物だと言ってディエゴの差し出す手を拒絶したメリッサが今更ディエゴの傷跡に触れたぐらいで何になるのだと。
今更媚を売ってくるメリッサの自分本位な行動に吐き気すらこみあげて来る。
それなのに、ディエゴはメリッサの手を振り払うこともできず、離れていくその白い手が惜しくて仕方がなかった。
ディエゴは結局その日もメリッサを抱くことなく神殿を後にした。
メリッサの浅はかな行動を軽蔑し、そして今更自分が捨てた男に媚を売るその堕落ぶりが愉快でもあった。
そんな風に必死に蔑みながら、ディエゴは激しく脈打つ鼓動を止めることができなかった。
執務室で心あらずにメリッサの真意を考えてしまうディエゴは突然部屋に押し入って来た王妃に戸惑った。
探しても姿がなく、不安だったと泣く王妃。
縋り付いて来るのをディエゴは拒むことも面倒に思うこともなく抱きしめ返す。
自分に何の用だと尋ねると探すのに夢中で忘れてしまったと少し悪戯っぽく笑っている。
その目には涙が浮かび、本当にディエゴの不在が寂しかったのが分かる。
寂しがり屋で甘えたがりな王妃は人見知りだ。
ディエゴにずっと仕えていた女官をその側に置いても今だこの国の使用人や臣下に馴染もうとしない。
今は妊娠中ということで、なるべく王妃の周りには隣国の者を置いている。
王妃が連れて来た馴染みの臣下や護衛達も外の様子を積極的に王妃に伝え、その寂しさを埋めようと日々努力している。
王妃の年の割に幼げな様子を穏やかな気持ちでディエゴは見つめる。
無邪気にディエゴを慕い、甘えて抱き着く仕草をディエゴは気に入っていた。
今だ胸に顔を埋める王妃をそのままにして、ディエゴはもうメリッサのことを頭から消して王妃を慰めることに集中しようとした。
*
メリッサは使用人達に紙と筆を欲した。
たぶんすぐに用意できるだろうと言われた。
なら、出来れば封筒もお願いしていいかとメリッサは続けて要求した。
手紙が書きたい様子のメリッサに使用人達は哀れんだ。
メリッサがどんな身分の人間か、察しの良い使用人達は皆承知している。
そして主であるディエゴがいかにメリッサに執着しているのか、当人達よりも一歩下がって見ている使用人達の方がその異常さを理解していた。
初めてともいえるメリッサの要求にディエゴが介入しないはずがなく、手紙を書く理由や誰に書くのか、その内容について事細かく聞くに決まっている。
そして、当然のようにその封を勝手に開けて中身を確認するだろう。
何よりも今のメリッサに手紙を送れる相手はいない。
肉親といえる者はディエゴのみで、メリッサの顔を知る者にメリッサの存在を勘づかせるわけにはいかないのだ。
少しずつ、王妃の懐妊の発表からディエゴの雰囲気は穏やかになっていると聞く。
子が生まれればディエゴはもっと寛大にメリッサに接するかもしれないと使用人達は思った。
ディエゴとメリッサの間に只ならぬ過去があるのは分かっていても、全てを諦めたようなメリッサに希望を与えたかった。
一歩間違えればそれはひどく残酷な行為だが。
使用人達はメリッサの要求に神妙な顔ですぐに用意するが書くのはもう少し時期を見てからの方が良いと答える。
前だったら返事もしないで無視をしていただろう。
その善意にメリッサは穏やかに微笑んだ。
使用人達を困らせるつもりはないが、できればメリッサは早めに手紙という名のそれを書き残したいと思った。
* *
結局、手紙を出したい場合はディエゴに渡して中身を確認することで合意した。
ディエゴは王妃とその腹にいる子供に夢中らしく、あれ以来神殿には来ていない。
あっさりと上等な紙と筆、そして封筒が用意され、どこで見つけて来たのかメリッサの押印まである。
もう既にディエゴの関心はメリッサにはないのだと思った。
そんな中で、女は現れた。
見たことがある顔だと、メリッサはまず思った。
裸のメリッサをじろじろと見る無言の嫌悪と嫉妬を浮かべた表情で思い出した。
あまりにも見た目が老いていて初めは分からなかったが。
「お前、あのときの女官か」
つい、口振りが昔のものとなっていた。
王女として不遜に他人に命令し、傅かれていた頃の。
裸で鎖に繋がれているメリッサがいくら威張ろうとも滑稽なだけであり、そしてディエゴについて隣国まで行った女官は今回の反逆に加担した裏切者であるのだ。
今更久しぶりだと挨拶をする方が滑稽である。
だが、女官はメリッサに恭しく傅く。
そして裸のメリッサに女官と同じ服を渡し、耳を疑うようなことを言った。
「陛下からお逃げください」
陛下とはつまりディエゴのことである。
今更ながらディエゴはもう王太子ではなく国王になったのだと理解した。
だが、何故この女官がこんなことを言うのか分からない。
ディエゴに忠実で、国まで裏切った女官がかつて貶した元王女であるメリッサを助ける利点はない。
何よりも初めに見せた憎悪を秘めた表情はあのときの庭で見せた表情と同じか、それ以上に歪んでいた。
普段神殿でメリッサの世話をする数人の使用人がいない。
無言で出て行った彼女達のあとに女官は現れた。
ディエゴの差し金であれば、冒頭の発言は矛盾する。
これは一体何の茶番だと呟くメリッサに動じず、女官は淡々と言葉を吐く。
「私を信じてくだされば、王女殿下と、その夫であるカイル殿を逃がして差し上げることができます」
構えて聞いていたメリッサは女官の口から出たカイルの名に、ひどく動揺した。
女官の口から語られるのは夢のような話であり、これは一体何の罠かと冷静に分析する一方、あまりにも甘美な誘惑だ。
メリッサは慎重に、なるべく興奮していることを悟られないようにまずカイルの居場所や状態を知っているかと聞いた。
女官は淡々と地下の拷問室に繋がれていて、命に別状はないと答える。
だが、衰弱が酷く、衛生管理も悪い。
いつ死んでも可笑しくないが、ディエゴは何も手を出さないことを宣言し、そのまま放置している。
メリッサにカイルには手を出さないと告げた通りにディエゴはそのままカイルを衰弱死させるつもりだと言うのだ。
食事や排泄の管理はされていても、包帯を巻いただけの傷口が炎症を起こし、今も熱に苦しんでいると続ける。
冷静に聞こうとしても、カイルの無惨な様子にメリッサは身体が震えるのを隠すことができなかった。
青褪めたまま、続けて逃がすというのはどういう意味だと聞く。
女官は予め質問の答えを用意していたらしく、それも淡々と答えた。
言葉の通り、城のメリッサを慕う者や、カイルの友人の騎士達が二人のことを憂い、せめて遠くの国に逃げて幸せに暮らすことを望んでおり、なんとか現国王の隙をついて逃亡させる計画をずっと前から立てていたと言うのだ。
その計画に加担する者の名前や詳しい計画は万が一の流失に備えて今は言えないと告げて、今すぐにメリッサとカイルを合流させることはできると告げた。
拷問室はここから遠いが同じ地下にあり道が繋がっている。
神殿は秘されているので通路に見張りはいなく、拷問室の見張りも場所柄人が少ない。
賄賂や買収で話をつけてあると言う。
女官の言う計画に抜けた所はないかと考えようとして、自分が乗り気であることにメリッサは慌てた。
カイルが今にも死にそうだという情報が頭の中で警鐘を鳴らし、メリッサを急かすのだ。
だが、他の重要な説明はまだであり、それを聞かなければならない。
何故、女官がメリッサ達を逃がそうとするのか。
神殿に人払いをすることができるなら、その後ろに一体誰がいるのか。
ディエゴ以外にこんなことができる権力者が誰か。
全てに女官は淡々と答える。
女官がメリッサ達を逃がそうとするのはそれが国王であるディエゴのためだからだ。
ディエゴのメリッサへの執着は異常であり、このままメリッサに依存し囲うのは醜聞が悪い。
もしも国を略奪した国王が年の離れた従妹をその結婚相手から引き離して地下に閉じ込めてその身を犯していることがばれてしまえば、たださえ危うい地盤の上で即位したディエゴの権力や支持が崩壊すると恐れたのだ。
決してメリッサのためではなく、メリッサがカイルを置いて逃げれないのなら二人一緒に逃がそうと考えたと悪びれもなく女官は言う。
また、神殿でメリッサの世話をする使用人達はもともと後宮でも働いており、それに秘密裏に命令できるほどの身分の者がメリッサの現状を憐れみ、純粋な好意で協力しているらしい。
後宮という言葉にメリッサの勘がその人物を告げたが、それを口に出して確認するほど馬鹿ではない。
ディエゴが嫌がらせに何度も語っていた王妃はひどく心の清らかな優しい女らしい。
メリッサとは違う清楚で愛に誠実な女だと。
「まだ、お疑いになりますか」
早く決断を出さなければ、時間はない。
まさかその計画は今日実行するのかと驚くメリッサに構わず、今この時にディエゴが隣国へ直接王妃の懐妊を告げにしばらく城を留守にする。
この時を逃せばもう二度とこんな都合の良い幸運は訪れないと、女官は熱を込めて訴える。
いくらメリッサの頭の回転が良くても、人生経験が豊富で、ディエゴのために様々な工作をし、苦労してきた女官は先ほどまでの淡々とした口ぶりから一転して、混乱しているメリッサが冷静にならない内に言葉を並べていく。
メリッサとカイルがいなくなることが結果的に国を安定させるのだと言う。
混乱した国に一刻も早い平和を与えるのが王女であるメリッサの務めだという女官に裏切り者がよく言えると内心で反論しながらも、メリッサの心はどんどん揺れていた。
そして、王妃の懐妊のことを思い出して酷く動揺していたときに言われた一言が決定打となった。
「このまま、夫を見殺しにしてもいいのですか?」
メリッサは青褪めた表情で覚悟を決めるしかなかった。
例え、何かの罠であっても、今のメリッサはカイルに会いたかった。
会ってその無事を確かめ、そして謝りたかった。
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