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終幕
2.ふたりだけの秘密
しおりを挟むエアハルトや使用人達の拒否を予め想定していたロゼだが、エアハルトにも思うところがあるのか意外にも苦虫を何百匹も咬みつぶしたような顔でしばらく沈黙したあとに許可を与えた。
エアハルトが朝食を終え、仕事に行く準備が終わるまでの間という制限はついたが、ロゼは本当にほんの少しの間ライナスにお話しをしたかっただけなのだ。
ライナスの話を聞くつもりも返事も必要としない、ただのロゼの変わってしまった気持ち、考えや価値観を変えたことを、そのきっかけを作ったライナスに聞かせたかった。
それだけである。
エアハルトが何かある事にロゼを甘やかし、信頼を寄せていることを態度や言動で示すように、ロゼの内側も少し変わった。
ロゼも取り次ぐこともできないほどエアハルトの前で醜態を晒したのだ。
少し、自分の気持ちのまま、ほんの少しの我儘を告げて甘えることや困らせることを覚えた。
それでもロゼの心の深い部分に根付いている愛への不信感や不安は簡単には消えないが。
だが、確かに変化は起きている。
ロゼだけが知る変化が。
ロゼが私室で侍女達が淹れた紅茶を飲んでいるときだ。
扉がノックされ、使用人のライナスの到着を告げる声が届いた。
「入ってもらって。……私と彼の二人だけにしてちょうだい」
ライナスの分の紅茶はいらないと、準備をする侍女を制して、ロゼは静かに告げた。
その表情は不思議なほど、公爵家の頃から仕えている彼女達の知る普段のロゼとまったく変わらない穏やかなものだった。
ライナスは、軍服に着替えていた。
たった一晩で彼の印象は大きく変わっている。
髭を剃らず、髪も長い分、櫛を通さないでいると随分と乱れてだらしなく見えるものだ。
何よりも片頬が青白く腫れて変色し、唇には切れた痕があり酷く痛々しい。
ロゼに危害を加えないように、手首は後ろ手に縛られていた。
暴力に縁のないロゼは、一瞬見てはいけないものを見てしまった気分で、どこに視線を向けていいのか分からなったが、なんとか動揺を抑えてライナスに対面に用意された席に座るよう促した。
ライナスは大人しく椅子に座る。
そして見張りをしていた兵達がその椅子の脚にライナスの足首を固定し、縄で縛り付け、ロゼの声が届くギリギリの範囲まで離れたところに移動させて、恭しく敬礼をして部屋を出て行く。
一晩中硬い椅子の上で寝かされ、一睡もしていない彼の目の下には酷い隈があり、食事も先ほど出された朝食の質素な粥一つで、体力的にも精神的にも衰弱し、抵抗することなくされるがままだ。
そんな疲れたライナスの目にロゼの姿は酷く眩しく見える。
腹の立つ相手でも、ロゼの美貌はその気持ちすら凌駕するほど美しく愛らしい。
そして今朝のロゼの姿は窓から差し込む朝日以上に眩しく輝いていた。
簡単に結い上げられた黒髪に、長い睫毛、黒い瞳が醸し出す神秘的なオーラ。
だが、何よりもライナスの目を焼いたのはロゼの華奢な首や首筋に散らばる所有印や見るからに可愛がられたと分かる赤く潤った唇、どこか悩まし気な表情で気だるげにソファーに用意されたクッションに凭れ掛かる過剰なまでの色気だ。
そして、侍女達に驚かれ心配されたロゼの手首に残る痣模様。
エアハルトに握られたそこは色が変わり変色していた。
幼く美しいロゼの完璧ともいえる肢体に不釣り合いなそれは見る人に奇妙な背徳感を抱かせる。
包帯を巻こうとする周囲の心配をよそに、ロゼはむしろエアハルトの執着が分かるその痣が愛しく、消えるまでは目に見えるようにしたかったのでそのままにしている。
エアハルトもまたロゼからの抵抗の証である唇の傷や背中の傷を愛しんでいたが、残念ながら彼の回復力が素晴らしすぎて今朝の内にとっくに消えてしまった。
そんな裏事情を知らないライナスだったが、ロゼの全身から醸し出される事後特有の雰囲気だけで、もうその場に倒れそうになった。
リリーにはロゼの良さが分からないと零したライナスだが、やはりロゼは見た目だけでもだいぶ威力があり、ライナスやルナなどが敵愾心を持つことがそもそも間違っているような理不尽な存在に思える。
だが、そのロゼに一発でも心に残る傷を残せたとライナスは自負している。
ロゼ自身に罪はないであろうが、エアハルトの妻として当然のようにしている時点でライナスにとっては罰を与えるべき存在だ。
もしもロゼとエアハルトが初めから互いを深く愛し、共に苦労し、大恋愛の末に漸く周囲に認められて結婚したというのならライナスも泣きながら身を引いて幸せを祈ったかもしれない。
だが、二人の婚約も婚姻も実にあっさり決まり、なんの障害もなく大勢の人々に見守られ祝福されて結婚し、幸せな生活を送っている。
それがライナスには許せず、ルナの予想外の登場は正に神からの最後の祝福だと思い半ば無謀とも言える捨て身の計画を練ったのだ。
それで二人の間に亀裂が入ればいいと歪んだライナスの願望とは裏腹に、随分と熱い夜を新婚夫妻は過ごしたらしい。
ライナスの捨て身など二人にとってはさほどの問題になっておらず、更に傷ついた妻を心身ともにエアハルトが癒したとなれば悔しくて仕方がない。
これでは割に合わないと色々考えるライナスをよそに、ロゼはあまり時間がないことを考慮して単刀直入に話を切り出すことにした。
自分に挨拶もなく、座って黙り込むライナスの姿に特に怒りもせず。
「貴方は、私が憎いかしら?」
「……はぁ?」
ライナスがのろのろと顔を上げ、怪訝な表情をするのも無理がない、実に唐突なロゼの問いだ。
多くの恐ろしい人々からロゼに危害を加えたら殺すと脅されたライナスは暴言が出そうになるのをなんとか耐えた。
実際に、この部屋が本当にロゼとライナスの二人きりなわけがない。
ロゼも、それは理解していた。
しかし今のロゼは特にそれを問題視していなく、聞かれても構わない内容と判断した上でライナスの返事を待つことなく語り始めていく。
ライナスの返事がなくとも特に構わないのだ。
「私のことがお嫌い?」
「何言って…… まさか俺に媚でも売るつもりっすか?」
散々脅かされながらも、そもそも命が惜しければ最初からこんな無謀な無計画なことを仕出かしたりしないと内心で反論し、後で本気で殺されるかもしれないと思いながら、ライナスは苛々と侮蔑の視線をロゼに向ける。
ロゼの真っ直ぐな、無垢ともいえる瞳の煌めきはうっかりライナスが見惚れてしまいそうなほど魅力的であり、赤い唇から紡がれる心地よい声音はなんとも耳触りが良い。
エアハルトも、この邪悪なまでのロゼの魔力に誑かされたのだと思うと落ち着いたと思っていた憎しみがまた渦を巻きそうになる。
そんなライナスを尻目にロゼは淡々と、愛らしい少女の唇で言葉を紡ぐ。
「私は、貴方とルナのおかげで、少し大人になれたと思うの」
「へぇー…… それはそれは光栄っすね」
ロゼが何を言いたいのか分からず、とりあえずライナスは嫌味を返すしかない。
だが、ライナスの分かりやすい嫌味など社交界に慣れたロゼにとっては稚気に等しいもの。
可愛らしいとすら思え、わずかに口元を綻ばせる。
「ふふふ…… 貴方のその素直な所はとても素敵だと思うわ。私もね、そんな貴方を見習って少し、素直になろうと思って呼び出したのよ」
まるで親しい友人に語り掛けるような柔らかい声にライナスは薄っすら寒いものを感じた。
そもそも、何故、そんな風に普通にライナスに話しかけれるのか。
「あんた…… 俺が、何をしたか、知らないんすか?」
「いいえ。貴方が地下で証言した内容は全て知っているわ。私、同性愛嗜好の方って初めてで、とても驚いたもの」
そう話すロゼに特に嫌悪の色はない。
ロゼからすればロゼ自身の方がずっと人間として歪で、神の愛の教えを信じれない不徳の者だと思っている。
むしろロゼよりもずっと苦しい思いを抱えながらエアハルトを思い、彼に尽くして死ぬ気で軍内部で地位を上げて仕えたライナスは尊敬に値する人物であり、向く方向は違うが同じように愛に苦しめられていた同志だとも思っていた。
そんなことをライナスに話せば彼は激高して、騒ぎ暴れるかもしれないとロゼはそのことについて何も言わなかった。
あくまで目的はライナスに自分の話を聞いてもらうことなのだから。
「でも、そんなことはこの際どうでもいいの」
「どっ、どうでも、いい……」
ライナスはどこか衝撃を受けたような表情で呆然とロゼを見つめる。
その様がやはりどこか子供っぽく可愛らしいとロゼは思う。
ロゼの周りに同じ年頃の男の子はいなく、また貴族として育てられた者達ばかりが周りにいた。
彼らは皆素直に自分の気持ちを出すことを恥だと思い、どこか仮面一枚被ったまま交流するのが常だ。
ライナスのような大の大人がこうも簡単に感情を露にするのが面白く、ロゼは人々が天使とも女神とも称する笑みを浮かべて楽しそうに笑った。
無邪気でありながら上品な笑い声にライナスが訳も分からなくなるのは当然である。
ライナスはいうなればロゼに不名誉を与えるため、またはそのプライドを粉砕させて心に消えない傷を残すためにくだらない手口でルナを仕掛けた張本人だ。
何故、そんな穏やかで全てを包み込むような笑顔を自分に向けるのだろう。
「ええ。どうでもいいの。だって、私、別に貴方に愛されなくてもいいって思っているから」
「……はぁ?」
「ごめんなさい、少し語弊があるわね。……愛されなくともいいのではなく、好かれなくともいいという意味よ。貴方が私を嫌って、憎んでも構わないということを伝えたかったの」
紅茶で一度喉を潤してからロゼは続ける。
ライナスの不可解なものを見るような視線は初めて向けられるものであり、酷く新鮮だ。
ライナスとルナは、ロゼの意地という名のプライドを砕き、そしてロゼの一番やわらかく深い場所にある心の殻を壊した。
そして、ある一つのロゼの強迫観念にも似た他者に対する負い目、自分より貧しい者達に尽くそうとする慈悲の心を歪ませたのだ。
あくまでライナスとルナという二人限定ではあるが、それは紛れもなく凄いことである。
「私はね、ずっと人より恵まれていることを知っているの。だから、なるべく我儘を言わないようにして来たわ。だって、私が我儘を言えば、誰かが無条件で何かを取られ、それを私に捧げられるということだから。これ以上、他者から何かを奪うのは傲慢だと、幼い頃から思っていたの」
「……さすが、公爵家のご息女は言うことが違う。随分高尚なこと考えてるんすね」
ライナスは考えもしなかったロゼの独自になんとか動揺を隠して嫌味を返す。
だがロゼの目からすれば甥っ子のカミラがおねしょしたことを下手に隠すような光景にしか見えず、余計に彼女の笑みを深くするだけであった。
「そうね…… 昔から私は傲慢だったわ。傲慢で、つまらない人間よ。……でも、そうやって自分を卑下するのが、私よりも貧しい人たちに更に申し訳なく思ってしまうような、面倒な性格をしていたの。私の悩みなんて贅沢な身分だからこそできるもので、私以外の多くの民は生活をするのに毎日必死に汗水垂らしている…… 何もかも周りから与えられている私が何かに悩むことすら贅沢で申し訳ないと泣いたこともあったわ。泣いて、そんなことで泣いてしまう自分にまた更に失望する…… ずっとそれの繰り返し。それは今も変わらないし、これからもずっとそのままだと思うわ……」
「……」
「……あ、ごめんなさい。貴方に話したいのはこんなくだらない身の上話ではないの」
ロゼは慌ててそう言うが、ライナスからすればどう対応していいのか分からない複雑な話だった。
目の前の何の苦労もしていなさそうな高貴な身分の少女が、なんだか酷く歪んだ存在に思える。
昔、自身のエアハルトに対する欲情に悩み、何度か思い余って教会に言って懺悔したり、悪魔憑きではないかとお祓いをしてもらったり、こっそり精神病院に行って診断してもらったりしたことがあるライナスだが、目の前の少女にこそそれが必要なのではないかと危うく助言しそうになった。
少なくとも教会で懺悔すれば、その清いとも言える彼女の悩まなくとも良い悩みを神父は優しく受け止め、涙を流してその身を抱きしめて助言をするのではないか。
ライナスと違って。
国の腐った貴族や賄賂を当たり前のように貰う軍人達にロゼの爪の垢を飲ませるべきだと思う。
「話を続けるわね。……こんな、くだらない私だけど、そんな自分が嫌いではなかったの。だって、私は申し訳ないほど周囲の人々に愛されて大事にされて来たから。私の大事な家族や、使用人、友人達が私を愛するたびに、そんな彼らに愛される自身が誇らしくて好きになれた。私も人を愛するのが好きで、私に関わった全ての人を愛することを心がけたわ。いえ、心がけたとかそんな高尚なことではなく、無意識に周りの人々を愛していたの。……彼らに私を愛してもらうために」
「…………」
恥ずかし気に、それでも誇らしげに自分の周りの人々がいかに素晴らしく、そんな彼らに愛される自分が誇らしく、また更に愛しさが募ると語るロゼの幸せそうな表情は見る者全てを虜にしてしまうような無垢で温かい至福に満ちたものだった。
ゲーアハルト公爵家には幼い女神がいると噂で聞いたが、こんな風に打算もなく愛情を示されれば当然のように皆が彼女を愛するであろう。
ライナスですら、一瞬危うくなるほどだ。
何も返せず、ただその薔薇色の頬と幸せそうにうっとりとする黒い瞳を見つめる。
だが、あとで冷静に考えればロゼのこの思考もまた奇妙に歪んでいることにライナスは気づくだろう。
それは、まだ後の話になるが。
「私はね、誰かに嫌われることがあまりないの。確かにあまり深く関わっていない方に嫌われていたりしたこともあったわ。でも、そういう人達も多くの時間を使ってお話ししたり、触れ合ったりしている内に、最後には仲良しになることができた…… 私自身が私に関わる人々に少しでも好かれようと無意識だったり、少し打算を込めて接したりしたからなんだけど。今のところ、まだ失敗はしていないの」
無邪気に悪戯っぽく片目を瞑って見せるロゼの姿は可憐だった。
ロゼが本気を出せば希代の悪女としてその名を歴史に残しただろうとライナスはそのとき寒気を感じた。
「ふふふ…… これからはどうなるかは分からないけど。……だから、貴方とルナは私にとっては特別な存在なの」
そう言って、ロゼはゆっくりとした動作で立ち上がる。
紅茶セットが置かれたテーブルに手をつけて、なんとか力の出ない下半身を動かして、のろのろとライナスに近づく。
ライナスが思わず手を差し伸べたくなるほど、痛々しい歩き方だったが、生憎ライナスの手は後ろで縛られている。
そして自分が無意識にロゼを手助けしようとしたことに彼は愕然とするのだ。
ロゼの恐ろしさを心底感じた。
ゆっくり、テーブルから手を放すと、ロゼは耐え切れずそのまま倒れ込んだ。
エアハルトに激しく責められた下半身はやはり使い物にならず、誰か補助が必要であった。
倒れたロゼはそのまま床に激突することなく、ライナスの胸に凭れる形となる。
夫以外の男の胸に不可抗力といえど凭れ掛かってしまった自身の所業を恥じるようにロゼは戸惑いと申し訳なさを含んだ顔でライナスを見上げた。
ロゼが倒れたときに、一瞬、部屋の奥からガタッと物が倒れるような音がしたが、気のせいであろう。
ロゼは年頃の娘に比べて体格がよく、ライナスは普通の軍人よりも身体が細かった。
それでもロゼは収まりよくライナスの胸に凭れ、自身を支えるために無意識にライナスの胸と膝に手をつける。
その仕草がなんとも可憐で色っぽい。
反射的に息をとめて、その乙女の香りを嗅がないようにライナスは顔を赤くして逸らした。
叫びださなかった自分を褒めたい。
「本当にごめんなさい…… こんな、はしたない真似をしてしまって」
それよりもどいてくれ、という心の声は生憎ロゼには届かない。
それにライナス自身も今まで味わったことのないような柔らかなロゼの肢体の心地良さにそのまま離れてしまうのが口惜しいと意識しない心の奥底で思っていた。
ロゼに恋したわけではない。
そんな単純な男ならエアハルトに長年複雑な思いを抱えて、最終的に馬鹿げた方向に嫌がらせをするはずがないからだ。
ロゼは複雑なライナスの心を知らず、あとで侍女を呼ぼうと、距離が近くなり互いの声しか聞こえない今の状況を活用することにした。
見張りがいるであろう部屋で普段通りの音量で話してもよかったのだが、やはり、これはライナスにだけ向けるロゼのとっておきの話だ。
こんなにわくわくするのは初めてだと奇妙な高揚を抱きながら、内心で同志として敬愛し始めているライナスの耳元に囁くために口を寄せる。
また、部屋の奥でガタガタと慌てたような音がしたが、構う必要はないだろう。
「私ね、初めて他人に嫌われても、それで構わないと思ったの。貴方とルナの二人だけよ。貴方達二人にだけは嫌われて、憎まれても大丈夫だと思ったの。こんな気持ちは初めてで最初は戸惑ったけど。……ねぇ。どうしてそう思ったと思う?」
ロゼの悪戯っぽく、それでいて睦言めいた甘さの秘められた囁きに、ライナスはなんと返していいのか分からなかった。
「……俺と、ルナを、あんた自身が憎んでいるからだろう」
なるほど。
とてつもなく他人に慈悲深く、愛情を欲する彼女が唯一自分とルナにだけは嫌悪を向けたということか。
それならば、ライナスの企みは大成功であり、少しは報われたとも言える。
しかし、ロゼはライナスのその思いがけない答えにきょとんと首を傾げて、またすぐにくすくすと鈴を転がしたような繊細な笑い声をあげた。
ライナスの耳に吐息があたり、彼は自身の心臓が壊れたように脈打つのを感じた。
ロゼはお馬鹿な甥っ子に間違った答えを諭すように慈愛に満ちた甘い笑みを浮かべてまた囁きかける。
「違うわよ。お馬鹿ね」
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