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終幕
6.毒を啜り
しおりを挟むロゼはまた夢を見た。
今度も幸せな夢だ。
「俺が抱きしめているんだ。お前が悪夢を見るはずがない」
夢の中のエアハルトが自信満々で言う。
そうだ。
エアハルトのこの無表情で自信満々に根拠のないことを言うところにもロゼは惚れたのだ。
そしてそれを実現してしまうところも。
ロゼは目の前で夢とは思えないほど堂々としゃべり、鮮明な姿で動くエアハルトを見つめながら、すぐにこれは夢だと断定した。
何故なら目の前のエアハルトは老けていたからだ。
「お前も年をとっているだろう」
やはり夢だ。
エアハルトがこんなに表情豊かだった姿をロゼは現実で見たことがない。
お道化たように肩を竦めるエアハルト。
ロゼは夢の夫の言葉を確認するために自身の手の甲を見つめる。
確かに、見たことがないような皺があった。
そして顔をぺたぺた触れるロゼを白髪のエアハルトが楽し気に見つめているのだ。
ロゼの額や目尻には皺があり、ほうれい線も確認できた。
後ろに纏められていた髪を解いて見てみると、見たことがない白髪がある。
夢で老けてしまうとは、なんという夢だ。
でも、不思議と困惑も焦りも嘆きもない。
これは悪夢ではないとロゼは分かっていた。
楽しそうにロゼを観察する老けたエアハルトを見る。
今の二人が何歳なのかは分からないが、少なくとも目の前のエアハルトはだいぶ老けている。
体格が良かったエアハルトも老けたことによって細くなったよう印象がある。
背筋は相変わらず真っ直ぐで、縮んだ印象はない。
灰色の髪は年を経て、色素がなくなって随分と白くなっていた。
顔中に刻まれた深い皺が目立ち、一見して彼がエアハルトとは分からない。
声も変わり、何よりも雰囲気がだいぶ違うのだ。
「俺も、だいぶ老けたからな。お前は老けても可愛いままだが」
エアハルトがこんなに楽しそうに冗談を言う姿を初めて見た。
年月の成せる業か、彼は年寄りになって随分と性格が丸くなったらしい。
一体、これはなんの夢なのか。
「さぁ、目が覚めてしまう前に。お前の美味い紅茶を淹れてくれ」
大仰に手を広げる姿に、なんとなく義父のミュラー侯爵が浮かぶ。
初めて会ったときの堅苦しい様子とは違い、慣れると彼は随分と愉快な人だと分かる。
そんなことを考えながら、ロゼはテーブルに準備されているティーセットを手にとった。
どうやらこの夢はあのときの夢の再現のようだ。
これも、ロゼの願望なのか。
慣れた仕草でエアハルトに紅茶の入ったカップを渡す。
香りを楽しむエアハルトの姿がお茶好きの好々爺にしか見えず、ロゼはくすりと笑った。
夢だろうと老人だろうと、エアハルトの全てがロゼには好ましい。
「不思議な夢…… ねぇ、今の旦那様はいくつなの?」
夢だからこそ、ロゼは少しお茶目に振る舞った。
考えるように黙り込むエアハルト。
ロゼから見るとまだまだ元気そうな様子だが、顔や手の皺を見ると予想以上に老けているのかもしれない。
ロゼはエアハルトより年下だ。
鏡を見ていないと分からないが、確実にエアハルトよりはまだ老けていないのだろう。
「そうだな…… まぁ、棺桶に片足は突っ込んでいるな」
どこか皮肉気に、それでいて楽しくて仕方がないというように笑うエアハルト。
現実のエアハルトもこんな風に無邪気に笑うのが日常になるのだろうか。
なんだか信じられない。
「ロゼ、今の俺はいつ死んでも可笑しくない歳だ」
「……夢だからって不吉なことを言わないで」
ロゼは少し怒ったようにエアハルトを睨む。
夢なのに本気にしてどうするのだという思いもあったが、それでも許せない。
そんなロゼを心底愛し気にエアハルトは見つめる。
今更ながら、エアハルトの瞳の色だけは変わっていないことに気づく。
いや、少しだけ、雰囲気が変わっている。
「ロゼ。俺は軍人だ。いつか、戦場や任務先のどこかで、お前の知らないところで死ぬかもしれない」
ロゼの好きな青は冬の凍った湖ではなく、春の暖かな湖の色に変わっていた。
「まぁ、俺が簡単に殺されるはずもないが。……だが、病気や年には勝てない」
エアハルトは何を言いたいのだろうか。
不吉なことを聞かされている割に、この夢はロゼにとって幸せな夢であるという確証があった。
きっと現実でエアハルトに抱きしめられているからだ。
「そして、俺とお前が病気にならず、健やかに年をとったとしよう」
「そう、願いたいわね」
エアハルトの愛が冷めず、ずっと夫婦二人で健康に平穏に年がとれたら。
それは何にも勝る幸せだ。
「そうなると、ほぼ確実に俺の方が先に死ぬ」
なんとも愉快そうに話すエアハルト。
確かにエアハルトの言う通り、ロゼはエアハルトよりもだいぶ年下であり、男よりも女の方が長生きだとも聞いたことがある。
死別するとき、何かないかぎりはロゼが置いていかれる立場になるのだろう。
「……酷いことを言うのね。夢の中の旦那様は」
夢なのに、どうしてそんな哀しいことを言うのだろうか。
「泣くなロゼ。俺も、色々考えたんだ。どうしたら、お前を置いて行かず、そして哀しませず、不安にさせずに愛せるかと、ずっと考えて来たんだ」
「貴方のせいで今、哀しいわ。エアハルトおじいちゃんの意地悪」
おじいちゃんという思わないロゼの反撃にエアハルトはきょとんと目を丸くし、豪快に笑った。
テーブルの上のものが音を立てるほど豪快に。
「はははっ…… よし、ロゼが拗ねる前に、俺が色々考えに考え抜いた答えを、教えよう」
そう言って、老けたエアハルトはテーブルの上のある物を持ち上げてみせた。
それは、ロゼが夢で見たエアハルトとのお茶会のときと同じ、瓶に入った蜂蜜だ。
「毒だ」
ロゼとエアハルト以外がいないお茶会に蜂蜜の姿に擬態した毒。
やはりこれは夢だ。
エアハルトは穏やかに語る。
「お前は、何年、何十年経っても、俺たちの間に子供が出来ても孫が出来ても、ずっと心の奥底で俺の愛を怖がり、いつか無くなることに怯えて不安そうにしていた。俺は、そのたびにお前を抱き、ずっと愛していると囁いて来た…… 誤解するなよ? 俺にとっては夢のような時間だ。お前は不安がるたびに、俺を求めて来たからな。怯えるお前を抱くのが俺の至福だった」
エアハルトは穏やかな表情でロゼを見つめる。
そして、語り続けながら、その皺皺の皮だけの指で一匙の蜂蜜を自分のカップに入れて混ぜた。
夢の真意も夢の中のエアハルトの真意も分からず、ロゼは黙って話の続きを聞いていた。
こんなにエアハルトが饒舌に喋るのも、これが夢だからだ。
「ロゼ…… これは毒だ。我がミュラー家に代々伝わる毒薬だ。一滴でいい。一滴、紅茶に垂らすだけで痛みも苦しみも感じず、眠るように死ぬことができる。舐めた奴が言うには、それこそ見た目と同じ蜂蜜のような味らしい」
そう言って、エアハルトはロゼの紅茶にも蜂蜜を垂らす。
蜂蜜と言う名のその毒をゆっくりかき混ぜていくエアハルトの姿に既視感を覚えてしまう。
それは、ロゼの恐ろしい夢の逆の配役だからだ。
あのとき紅茶に毒を入れたのはロゼだった。
それが今はエアハルトに変わっている。
なんて悪趣味な。
「ロゼ、お前のそれは治らない」
それとはきっと、ロゼのエアハルトの愛を信じられない欠陥だらけの心のことだろう。
分かっていたことだが、夢だろうと老いていようと、愛する夫に言われるのは辛い。
辛いのに、ロゼはまだこの夢を幸せな夢だと思っている。
何故だろう。
「俺がこれだけ何十年愛していると伝えてもどこかお前は苦しそうだ。だが、それと同じぐらい幸せそうだから手放せない…… いや、違う。愛がどんどん深くなって、俺はもうお前がどれだけ苦しがってもを手離すことができないんだ」
真っ直ぐ向けられるエアハルトの視線が、心地良い。
夢だからこそ素直にエアハルトの執着が嬉しいと思う。
「俺はお前を置いて死ぬのが嫌だ。俺が死んだあとに、お前が苦しむのも安堵するのも嫌だ。俺の知らないところでお前が笑い、苦しみ、喜び、嘆くのが気に食わない。お前は年をとっても恐ろしく魅力的で、俺の死後、お前がどこぞの馬の骨に手を出されたら…… お前を呪い殺しに蘇るかもしれん」
「ふふふ…… 旦那様が亡くなるときは、私も今と同じような、おばあちゃんじゃない。そんな物好きな殿方がいるわけないでしょう」
エアハルトの心配性と嫉妬深さにロゼはくすくす笑う。
だが、老いたエアハルトはそのまま真剣な眼差しで話を続ける。
「とにかく、俺はきっとお前より先に死ぬ。お前を置いて死にたくない。……逆にお前が俺より先に死ぬのも嫌だ」
「私だって…… 嫌です」
ロゼだって嫌だ。
エアハルトに置いて行かれて死ぬのも、彼を置いて死ぬのも。
夢だからか、ロゼの考えていることが分かるらしいエアハルトはにっこり満足気に笑った。
そして、紅茶の入ったカップを掲げる。
「だからこそ、共に死ぬのが一番だと俺は気づいた」
なるほど。
これは悪夢ではなく、やはりロゼの望んだ夢だ。
「共に死のう、ロゼ。例え地獄でも、お前と一緒なら俺は幸せだ」
ロゼの幸せな夢だ。
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