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≪現在①≫
5 秘密の報告 前
しおりを挟む頭の中が妙にすっきりとして、身体も軽い。
いい夢も悪い夢も見ずに熟睡できたからだ。
久しぶりにぐっすりと眠れた。
半分寝ぼけたまま、優はシーツが乱れたベッドからのろのろと起き上がろうとする。
無意識に伸びた腕は何も掴めなかったが、自分以外の残り香を確かに感じた。
そして、隣りの冷えたシーツに、腕に抱いた存在がいなくなったことに漸く気づき、慌ててベッドから飛び上がるようにして起きた。
(そうだ……! 俺は、文香と……)
よくよく見れば優が寝ていたのは二つ目のベッドだ。
隣りのベッドはシーツが剥がされ、隅の方に纏められている。
シーツには所々沁みがついており、事後特有の匂いがまだ少し残っている気がした。
そして、畳められた優の服や財布などがベッド脇の椅子の上に置かれている。
もう一脚ある椅子の上には文香のバッグが置かれていた。
そのことに優は腹の底から安堵のため息が零れ、タイミング良く浴室にいたらしい文香が現れた。
「……もう、目が覚めたんだ」
髪にタオルを巻いたまま、文香の視線は片手のスマホの画面に集中していた。
タオルのせいでその表情を確認することはできなかったが、視線を優に映すほんの一瞬だけ、文香の唇が震えた気がした。
それはほんの一瞬のことであり、特に違和感を感じなかった。
優が起きているのを仄かに赤くなった顔で確認し、照れたようにはにかむ文香に優はぽうっと見惚れてしまったせいもある。
優は元来、深く物事を考えない男なのだ。
「シャワー浴びてきなよ。その間コンビニで色々買って来るから」
皺になったワンピースの上にカーディガンを羽織り、髪を拭きながら、文香はベッドではなく自分のバッグが置かれた椅子に腰を下ろす。
大事そうにスマホを中にしまう文香。
文香のスマホもまた優と同じ様に三年前から機種を変えていないらしい。
優と違いそのスマホケースは今だ新品同様に見える。
物持ちの良い文香らしいと思えたが、少しだけ慎重すぎる手つきに違和感を覚えた。
「あ、ああ…… 悪い」
だが、優は文香との会話にすぐに意識を持って行かれた。
そして、今更ながら自分が全裸でいることに気づき、慌ててシーツで股間を隠す。
今更過ぎる行動に顔を赤らめる優とは反対に文香はどことなく呆れていた。
そこに嫌悪はなく、むしろ手のかかる子供を見るような視線がなんたがくすぐったい。
ひどく、懐かしい二人の空気感を優は全身で感じていた。
些細な違和感などすぐに忘れてしまうほど。
*
冷たいシャワーを浴びても、優の身体は今だ数時間前の文香との情事の余韻で燻っている気がした。
まともに地面に立っている感じがしなく、落ち着かない。
文香に引っ張られるようにしてこのホテルに入ったときも足元がふらつくような不安定な感覚を抱いたが、今は違う。
「文香……」
シャワーの音に紛れ、優の切ない呼び声を聞いた者はいない。
かつては渇いた呼び声に、今は熱が灯っている。
それを危険だと、良くない兆候だと自覚するだけの理性はあった。
それでも止まらない予感に、期待の芽が生まれようとしている事実は変わらない。
離婚は優にとって不本意だった。
文香とやり直ししようと、一度は二人で再構築することを選択した。
だが、結局それは優自身の手で崩れ去ったのだ。
後悔しかない。
過去に戻れるのなら、何度だってやり直ししたい。
昔の自分を殺せるのなら、どんな手を使ってでも殺したい。
もう一度、文香が当たり前のように隣りにいる日常に帰れるのなら、なんでも差し出せると優は思っていた。
そんな、未練と後悔でぐちゃぐちゃに崩れて、心が干からびて半ば死んでいたような男の元に、文香は現れた。
誘われたとはいえ、欲望に負けてその身体を貪った優はまだ自分のこの選択が正しいものなのか分からない。
理由を聞かなければならないだろう。
この三年間で文香が変わったのは理解した。
人は誰でも変わる。
文香もまた堅物だったあの頃と違い、今は性に奔放になったのかもしれない。
嫌な想像だが、それが一番可能性としては考えられると優は途中まで思っていた。
だが、文香はその言動とは裏腹に優以外に抱かれたことがないと言う。
わざわざ明け透けに誘っておきながら、今更純情ぶる必要はなく、実際に文香との性交は始めとても痛く苦しいものだった。
初めて抱いたときと同じくらい。
ペニスを抜いたとき、少しだけ冷静になった優は文香のそこからほんの僅かだが血が出ているのを見た。
文香は本当に、離婚以降誰ともセックスしていなかったのだ。
それなのに涙が滲んだ目を化粧が剥がれるのも気にせずごじごしと乱暴に擦って、新たなスキンを差し出して来た文香の弱弱しくも幸せそうな笑みに優は喜んでしまった。
もっと、と強請る文香に、ずっと夢の中まで追いかけていた女の姿に欲情しないはずがない。
これはきっと、良くない行為だ。
世間的に見ても、だらしがなく節操がない。
それに、縋り付こうとしている優自身がきっと一番問題なのだろう。
元々優は大雑把で細かいことは気にしない男だった。
それが今ではこんなにもぐずぐずと苦悩している。
まるで自分自身に必死に言い訳をしているようだ。
滑稽な自分を半ば自覚しながらも、優はどうしても文香との繋がりを手放したくなかった。
どんな理由であれ、文香の力になれるのなら、ほんの少しの間でもその存在を感じることができるのなら。
なんでも出来ると思った。
* *
そわそわと落ち着かなく、すぐにでもシャワー室から出ようと思った優だったが、汚れた状態で文香の前に出ることは躊躇われ、結局浴室にあるシャンプーやボディーソープを使って丁寧に身体を洗った。
狭い浴室にある洗面台の鏡を見ると、湯上りのおかげだけではない久方ぶりの血色の良い自分の顔に呆れてしまう。
なんとも現金なものだ。
ホテルに備わっていた髭剃りと歯ブラシを使い、身だしなみを整える。
朝食を用意されたが、寝起きの口臭のことをつい考えてしまい、結果食後にもう一回磨くことを決意した。
文香に不衛生な男だと思われたくない一心だ。
さすがにシェービング剤の類はなく、また普段使わない剃刀のせいか、剃った跡がちくちくして血も少量出た。
剃らないよりはマシだと、我慢するしかない。
浴室を出ると、コンビニから帰って来たらしい文香が部屋に設置されているドライヤーで髪を乾かしていた。
文香がよく風呂から上がってもなかなか髪を乾かそうとしない優を叱っていたことを思い出す。
風邪をひくのが嫌で、文香はどんなに疲れた状態でも風呂から上がるとすぐに髪を乾かすことを習慣としていたのだ。
そんな文香がホテルの下のコンビニとはいえ、髪がまだ少し濡れた状態で買い物に行ったことを優は不審に思った。
些細なことでも、優は文香の行動一つ一つに注目してしまう。
浴室から出た優に気づいた文香が綺麗な方のベッドに置かれた優の服とコンビニの袋を指差す。
「下着とか、適当に買って来たから」
腰にバスタオルを巻いていた優は文香に感謝しながら、ドライヤーの風から香るシャンプーの匂いにどきっとした。
よく考えれば二人は今同じシャンプーやボディーソープを使っているのだ。
一緒に住んでいた頃、優はときどき間違って文香のお気に入りのシャンプーを使った。
石鹸は共有のものだったし、時折距離が近づくと相手から同じ人工的な匂いが漂っていた。
気づいてしまうと途端に動きが鈍くなってしまい、ドライヤー特有の騒音でなんとか気を紛らわせながらガサガサとコンビニ袋を手に取る。
(あ、そっか……)
袋を漁る手が思わず止まった。
たいしたことではない。
ただ、文香が即座にドライヤーを使わなかった理由が優を起こさないためだと気づいたのだ。
申し訳なさより、じんわりと喜びが湧いて来る。
何気ない文香の気遣いや優しさに優は緩みそうになる口元を隠すのに必死だ。
ベッドサイドの机には文香が買って来たミネラルウォーターとサンドイッチ、お湯を注ぐタイプの即席スープとおしぼりが置かれていた。
袋の中にはボクサーパンツや肌着、ワイシャツや靴下と、コンビニで一通り揃えられそうな着替えが入っている。
そして昔自分が愛用していた剃刀と何度か使ったことのあるシェービング剤まであったのだ。
覚えてくれてたのかと、口角が上がりそうになるのを優は必死に耐えようとした。
それを勘違いしたのか、文香が渇いた髪を櫛で梳きながら眉を顰める。
「また、ホテルの剃刀使ったの? 意外と肌弱いんだから止めときなよ」
旅行に行った際にホテルの髭剃りを使い、後で剃った跡が痛い痛いと優が煩くしていたことを思い出したのか、文香はジト目で見て来る。
だがすぐに文香の表情は硬く強張った。
「……まぁ、元はと言えば私のせいなんだけどね」
色々と迷惑をかけてごめん、と神妙に謝って来る文香に優は慌てた。
「謝らないでくれよ、色々用意してもらって、むしろ俺の方が……」
俯く文香に優は再び詰め寄った。
優は焦っていた。
文香に迫られたときとは違う焦りに。
「……迷惑なんかじゃ、ないから」
このまま、文香と別れてしまうのは嫌だった。
なんでもいい。
細々としたものでもいいから、また文香との繋がりが欲しいのだ。
「俺は、むしろ嬉しかった…… こんな、ことになるなんて想像してなかったけど……」
「……」
「……あんな、拒絶してたくせに、本当はその…… 文香と、文香を、また抱けるなんて、本当に夢みたいで…… 嬉しかったんだ」
「……私とするの、嫌じゃないの?」
俯いたままの文香の硬い声色に、優はありえないと首を振る。
「……文香がどうして、いきなりあんなことを言うのか、どんな理由があるのか知らないし、今は正直どうでもいいかな……って思ってる自分がいるんだ」
文香が優の言葉に耳を傾けているのが分かったが、優にはその表情を確認する勇気がなかった。
「……どんな事情があろうと、それが文香にとって不本意なこととか、誰かに脅かされたとか、自分の気持ちにそぐわないとか、無理矢理ではないなら……もう、俺は理由を聞かない。文香が辛い目や何かに苦しんでいるんじゃないって分かっただけで…… それだけで十分だ」
「……私も、非常識なお願い事だって分かってる。優が昨日断ったのも当たり前だし、むしろそれがまとも・・・だから」
慎重に文香は言葉を選ぶようにして呟く。
「離婚して、三年も経って…… いきなり電話して抱いてくれなんて、意味が分からないし…… 気持ち悪い」
自分自身を皮肉るように自嘲する文香に優はまた咄嗟に否定しようとした。
文香が顔を上げたため、それは叶わなかったが。
「でも、後悔はしていない」
文香の目には穏やかな光が灯っていた。
「嬉しかった…… 優にとっては不本意かもしれないけど、どうしても、優に抱いて欲しかったから……」
「文香……」
頬を染め、心底幸せそうに、誇らしげに優を見上げる文香に、優は固唾を呑んで見守ることしかできない。
優の心臓が早鐘を打つ。
「優に抱かれて、本当によかった」
薄っすらと目元に涙を滲ませながら、心の底から文香は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を、うっとりとした声を間近で感じた優はしばらくの間呆然と文香を見下した。
そのままだと風邪をひくよ、と文香に注意されるまで。
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