奥様はとても献身的

埴輪

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≪過去②≫

2 嫌われ者で嘘つき

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 文香は優に嘘をついた。

 別居する間に借りる部屋の目星はもうついているが、契約が成立し、改めて引っ越すには後3日ぐらいかかる。
 本来なら優の言う通り、その間は寝室を別にし、顔を合わせたくないなら時間を決めて部屋にでも閉じこもるか、外で時間を潰して夜に戻ってくればいい話だ。
 けど、その3日すら我慢できない。
 優と同じ空間にいたくないと、あのとき優に本音をぶちまけたら、優はどれだけ落ち込み傷つくのか。
 想像して、それに暗い喜びを感じた自分に文香はゾッとした。

 だから、優の側から、二人の家から逃げるように飛び出した。

 文香に行く当ても短期間とはいえ泊めてくれる友人知人などいない。
 文香の交友関係は全て優と繋がっている。
 知り合いになど連絡できなかった。
 文香がわざわざ家に泊まらせてくれと頼み、それに不審に思わない者はいない。
 必ず優に連絡が行く。
 文香、或いは優が事情を説明すれば、彼ら彼女らはきっと親身になってを慰める。
 そして、文香を諭そうとするのだ。

 優を、赦してやれと。

 被害妄想ではなく、想定できる未来だ。
 文香と優を知る全員が、きっと優の味方につく。
 
 唯一、文香に同情し、庇ってくれるのは義理の両親ぐらいだと文香は思っている。
 だが、彼らにどう説明する?
 全て真実を、自分達の息子が不倫をしたと。
 だから嫁である自分は別居する、引っ越しまで泊めて欲しいとでも言うのか。
 厚かましすぎると思うよりも、人の好い義理の両親に息子の不倫を伝えていいものかと文香は自問自答する。

 不倫の事実を知ったときの文香はどうすれば良いのか、どう行動するべきなのか分からなかった。
 不覚にも呆然とする文香に淡々とその後の行動を示唆して来たのは夫の不倫相手の夫という、いけ好かないロボットのような男だ。
 何が目的か知らないが、何の感情も伺わせない視線と声で文香に選択を突きつけて来た男。
 
『簡単なことだ。君は真実を知った。なら、選択は二つしかない。このまま夫婦としてやっていくのか、それとも離婚するのか』

 当時の文香がどれだけ混乱し、絶望していたのかなどまったくお構いなしの男に怒りが沸き上がった。
 冷静に振り返ればそれは八つ当たりに近い。
 それでも文香は男のことが、悪夢という現実を叩きつけて来た渡辺恭一が理解できず、薄気味悪さと恨みすら抱いている。
 見当違いの恨みだと、逆恨みだと知りつつも、恭一の言動は文香の神経を逆撫でした。
 わざとではないかと思うほど。

 とにかく恭一は半ば無理矢理文香の目を覚まさせた。
 どんなに拒んでも事実は変わらず、そして現実に生きる文香はこのまま有耶無耶にして見ないふりなどできない。
 決断しなければならなかった。
 その決断をする前に、文香は何度か誰かに救いを、泥沼に嵌まったような状況の改善策を誰かに教えて欲しいと願った。
 
 夫が不倫をした。
 なら、妻である文香はどうすればいいのか。
 その正解が見えないのだ。

 初め、実の娘のように可愛がってくれる義両親に相談しようかとも思った。
 だが、実家に泊まりに行ったときに久しぶりに会った姑と舅はとても小さく、老けたように見えた。
 だから文香は実家から家に帰るまで、ずっと自問自答していたのだ。

(ダメだ…… こんなこと、言えるわけない)

 優を可愛がる二人の姿を思い出し、そんなことはできないと文香は強く否定した。
 今まで良くしてくれた彼らに心配をかけたくなかった。
 どんなに優に苛立ち、怒りを覚えても、文香は今回のことで優とその両親の仲を悪くしたくなかったのだ。
 義理の両親に恩があるからだと文香は必死に思い込もうとする。
 結局、その根底には優を不幸にしたくないという思いがあることに気づかないふりをした。



* 


 夜の繁華街にはあまり来たことがない。
 会社の飲み会で団体で歩いたことはあるが、一人でこんな場所に来るのは初めてだ。
 駅近くにあるせいか、既に連休が終わったのか、あるいは元から無いのか、どこか懐かしいスーツ姿がちらちらと目に入る。
 それなりに大きな荷物を持つ文香を周囲の人々が素通りしていく。
 こんな時間で女が一人ふらふらしているのは危ないという意識はあった。
 だが、そんな常識的な考えとは裏腹に文香は自分がナンパされるとか、男に絡まれるなど微塵も心配していない。
 それなりに生きて来たが、その間文香は一度もモテたことがない。
 だからこそ優は文香のどこに惹かれたのか今でもよく分からなかった。
 そして、その唯一の奇跡的な優の愛すら信じられなくなっている。

 文香は優に嘘をついた。

 優の知らない友人の家に泊めてもらう。

 なんとも虚しい嘘だと文香は自嘲する。

(そんなの、いるわけないじゃない)

 文香とて友人知人の類はいる。
 むしろ多い方だろう。
 だが、その大半は優の紹介で知り合った。
 彼らにとって文香は優のでしかない。
 彼らに悪気はない。
 何故優が文香と付き合い、結婚したのかと純粋に疑問に思っているようだが、大半は優が惚れたのなら仕方がないという、文香からすればまったく意味の分からない理由でそこそこ交流していた。
 
 優は昔も今も人気者だ。
 昔も今も嫌われ者だった文香とは違う。
 社会人になった途端に面倒な友人付き合いをほぼ全て拒絶し、会社と自宅、そして付き合いで優と遊びに行くのが文香の生活の全てだった。

 友人どころか、親しいと思える者などこの三年間一人も出会っていない。
 
 入社当初からの同僚との付き合いは悪くはないが特別良くもない。
 他人でしかない彼女達に夫の不倫について相談するなど思いもつかないほど。
 そして、以前飲み会で遅くなった文香を優は車で迎えに来たことがある。
 当然のように文香の同僚や上司に挨拶する優は文香が今まで頑張って築き上げて来た同僚達との信頼や親密度を嘲うように、一気にその心を掻っ攫った。
 翌日になれば皆が皆、文香の夫を褒めた。


 羨ましい、あんな優しくてイケメンな旦那がいるなんて、香山さんは幸せ者ね、大事にしないと罰が当たる、うちで働けばいいのに……


 仕方が無かった。

 優は誰が見ても好青年で、その場にいるだけで皆の心を解きほぐすことができる稀有な男だ。
 一方、文香は理屈屋で、正論ばかりを振りかざす、糞真面目でつまらない女だ。
 二人を知るほぼ全員の好感度は優に向けられている。
 唯一文香に同情してくれそうな義両親に事情はいえない。

 文香の味方は一人もいなかった。

 どちらが悪いのか関わらず。
 これは好感度の問題だった。
 だからこそ、残酷で理不尽なのだ。



* * 


 そろそろ繁華街を抜ける。
 電車がちょうど到着したのか、駅から人の波が押し寄せて来る。
 その波を避けようと振り返った文香はいつもより場所を取る自分の荷物のことを忘れていた。
 軽く誰かにぶつかった感触がした。

「あ、すみません……」

 慌てて頭を下げる文香は、こんなときでも律儀だった。
 そんな生真面目な文香の態度に、軽くちょこんっと荷物がぶつかったものの、そもそも気づいていなかった女がきょとんと首を傾げ、ついで顔を上げた文香と目が合い、ぱっちりとした目を更に大きくした。

「香山先輩?」

 ふわふわとした髪が小さな顔を彩っている。
 ゆるくパーマをかけたショートカットと明るいアイシャドウとチークがよく似合う、随分と可愛らしい若い女だ。
 文香を見て、歓声を上げて満面の笑みを浮かべた。

「わぁ~ こんなとこで香山先輩に会うなんて、すっごい偶然~」

 きゃー、うれしい~っと手を叩いてはしゃぎ、小さく飛び跳ねる。
 スカートから覗くすらりとした太ももがちらちらと見えているのにまったく気にした素振りがない。
 女の反応に文香は硬直した。
 そんな文香にお構いなしに両手を手にとってぶんぶん振りながら再会の喜びを女は全身で表現する。

「わぁ~ 先輩ったら、変な顔~」
「……」

 顔を強張らせたまま目を見開く文香に失礼だとちっとも思っていないことを無邪気に吐く女の声は聞き覚えのあるものだ。
 化粧と服装、いつもかけている眼鏡がなく、カラーコンタクトをしているせいでだいぶ印象が違って見える。
 だが、よくよく見れば面影はばっちりある。
 その甘ったるい砂糖菓子のような声を聞き間違えるはずもない。
 
「……星田さん?」

 文香のここ最近の疲労とストレスの原因である、新入社員に間違いなかった。
 一度不本意な言動で泣かし、上司から要注意を受け、教育係を変えるという話が出たのに、何故か本人が文香のままでいいと上司に進言したのだ。
 おかげで文香は繁忙期と色々と扱いづらいマイペースな新人の世話に明け暮れ、その間に夫に不倫されるという、まさに地獄のような現実に立たされた。

 もちろん、目の前の新人社員の星田ほしだはそのことを知らない。
 
「そぉーですよー! もうっ、先輩ったら、私だってわかんなかったんですかぁ~?」
「……ごめんなさい、その、会社とは全然印象が違ってたから………… 眼鏡とかも、かけてないし」

 何よりも会社ではどちらかという地味で物静か、その分人付き合いが苦手でやりたくないことはやりたくないと上司だろうが同期だろうが関係なくズケズケ言う、本当に扱い憎い新人なのだ。
 大抵はマスクをしていて、化粧するのが面倒で誤魔化しているとこっそり教えられたときは呆れるほかなかった。
 あの子、天パって言ってるけど絶対嘘よねっと上司に同意を求められて困ったこともある。
 とにかく、色々苦労させられた。

「あれは会社用ですよ~ あんなダサ眼鏡、会社でしかかけれないじゃないですか~」
「……」

 当たり前のことのように笑う星田に文香は苦笑いした。
 明らかに仕事とプライベートの力の入れ方が違い、むしろ清々しい。
 周りを振り回し、油断するとぼけーっとしていたり、トイレ休憩と称してスマホを弄っていたりと、その度にいちいち説教したり、何故か代わりに上司に怒られたりと、苦い記憶の方が多いのに、どうしてか今は少し安堵している。
 ずっと今まで冷たい泥の中にいるような、焦燥感のようなものを感じていた。
 だからこそ、見た目や話し方、テンションも別人のように見えても、文香に対して遠慮がなく、ナチュラルに失礼な発言を連発する後輩に安心した。

 珍しくも、そんな憂いと儚さが同居した文香の控えめな微笑に、星田は満面の笑みで答える。

「休日に先輩に会えるなんて、これって運命ですよね~」
「そんな大げさな……」

 いつからこんなに懐かれたのか分からないが、文香の手を放さずにぶらぶら揺らす星田に今度は苦笑いが零れる。
 こんな風に親し気に声をかけられるのは久しぶりだ。
 くすぐったいような、恥ずかしいような、居た堪れないような、複雑な気持ちがじわりと胸に染みる。

「あっ! そうだ!」

 そんな文香の心境を知ってるのか知らないのか、星田はカラフルにネイルされた爪をぷっくりとした自身の唇に当て、長身の文香を上目遣いで見つめる。
 カラコンに縁のない文香はその独特の人形のような目に何故かドキドキした。

「ねぇ、香山先輩~」
「な、なに……?」

 例えるならキャバ嬢が客にブランドものをおねだりするような、そんな玄人っぽい甘えた方を星田は披露した。

「二人の運命的な再会を祝して、これからぱぁーっ!っと、飲みに行きません?」

 星田のそれは疑問形だったが、有無を言わせない強引さがあった。
 その証拠にぐいぐいと文香の腕を掴んで繁華街の方に引き摺ろうとしている。

「……星田さん、お酒飲めないんじゃ」
「あんなの嘘に決まってるじゃないですか~」
「……」
「会社の飲み会とか、クソつまんないですもん。給料も出ないのに、あんなハゲたおっさん共にお酒を注ぐとか…… マジ拷問です」
「…………」
「わたしぃ、めっちゃカクテルの種類が多いとこ知ってるんです~♡ 香山先輩、甘いのしか飲めないって言ってたでしょ? ちゃーんと覚えてますからっ」

 えっへんとわざとらしく胸を張る星田に、文香はとうとう吹き出してしまった。
 会社でも随分と自由な新人だと思っていたが、あれでもだいぶ真面目にキャラを演じていたらしい。
 これが星田の素なんだと、そのどこか茶目っ気のある愛嬌と色っぽさが素直に可愛いと思った。
 彼女の服装はとても華やかで、夜の賑やかなネオンの街に自然と溶け込んでいる。
 ふんわりと鼻を擽る香水の匂いや、華やかなアクセサリー、明るいメイク。
 眩しく、キラキラと自信に満ちた笑顔。
 今この瞬間、嬉しくて楽しくて仕方がない。
 若さと希望に満ちたオーラに文香は見惚れた。

 全部文香にはないものだからこそ、愛しく思える。
 拒む意思など簡単にぽきっと折れてしまうぐらい。

 小柄な星田は力ない文香を意図も容易く引っ張り、堂々と目的地へと歩いていく。
 沼に沈んでいた足が、すぽっと抜ける。
 そんな一瞬の感覚に、文香は泣きたくなった。
 いつの間にか腕ではなく文香の手を引っ張って行く星田はまるで子供のように見える。



 肌寒い夜空の下。
 薄着のはずの星田の手は温かく、握り返したいという衝動を文香は必死に耐えた。

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